セレスティア・セイグリットの記憶
――私は、どうなったんだっけ。
どうにも体がふわふわとしておぼつかない。
痛みはないし、苦しさもないのだけれど、突然長い夢から覚めたように、唐突に記憶が途切れている。
白くぼやける視界が徐々に焦点を結ぶ。
黄金色の砂漠がどこまでも続いている景色の中に、唐突に表れた朽ちた神殿のような建物の前に、私が横たわっている。
それはまるで糸の切れた人形のように見えた。
私の腹部には深々と巨大な蟲の鋭利な顎が突き刺さっている。
風も雲も魔獣も皆動きを止めている。
時が止まった世界で、私は一枚の絵のような景色を空から眺めていた。
恐怖は感じない。それどころか、あたたかい温もりに包まれているような安心感がある。
私の体を背後から誰かが抱きしめている。
「クロエ」
春風のような声が、鼓膜を揺らす。
私を抱きしめている嫋やかな白い手。柔らかく心地良い陽だまりの中にいるような、優しい香りが私を包み込んでいる。
振り返らなくても、そこにいるのが誰なのか分かる。
切なさと愛しさで、胸の奥が軋んだ。
そっと振り返ると、二枚の神々しく輝く白い羽を持った天使が、私を気遣うように見つめていた。
「……お母様」
私が天使を呼ぶと、天使はにっこりと微笑んだ。
セレスティア・セイグリット。
私が十三歳の時にご病気で亡くなったお母様だ。
私の記憶の中のお母様とそっくり同じ姿だけれど、ただひとつ違うのは、二枚の白い羽があること。
けれど最初からそうであったかのように、違和感はまるでない。
――ジャハラさんの予想どおり、私のお母様は天使だったのね。
私はこんな時なのに、何故だかお母様がいつか言っていた「人間は夜の九時以降にご飯を食べたら太るのよ」という教えを思い出していた。
「クロエ、ごめんなさい。あなたに、苦しい思いをさせてしまって。もう少しだけ、頑張ることができる?」
お母様が、悲しそうな表情を浮かべて私に尋ねた。
「勿論です、お母様! 私はこんなところで死んでいる場合ではありません、力を貸してくれますか?」
迷う必要なんてない。
私は倒れるわけにはいかない。
私が死んでしまったら――ちょっと面倒で横暴だけれど時々優しいジュリアスさんの面倒を、誰が見るというのだろう。
――他の誰かにそれを任せるのは、そうね、かなり、嫌よね。
「王子様がみつかったのね、クロエ」
「はい! ジュリアスさんはすぐに人を威嚇しますので、王子様と呼んでいいのかどうかわかりませんが、……とても、大切な人です」
お母様は私の体を、ぎゅっときつく抱きしめた。
「……クロエ、私の自慢の娘。罪を犯してしまった私だけれど、あなたは私たちの子供。あなたは希望。天使長様達も、あなたを見守っているわ」
お母様は悲しみを称えた表情を、明るいものに変化させて、にっこりと微笑んだ。
きらきらと輝く粒子となって、お母様の体が消えていく。
それと同時に私の中に、あたたかく穏やかな春の陽光のような力が満ちていく。
意識が濁る。
眼を閉じると、全く違う景色が瞼の裏に浮かび上がった。
◆◆◆◆
景色が、蜃気楼のように揺らいでいる。
ここはどこなのだろう。
天使長ミカエル様が、■■■■■を打ち滅ぼした。
私はミカエル様の補佐官として軍勢を率いて悪魔たちと戦い――それから。
あぁ、そうね。
私は次々と羽をもぎ取られていく仲間たちを守るために、先陣を切って戦った。
悪魔たちを退けたのは良いのだけれど、私も両翼をもぎ取られて、真っ逆さまに落ちたのだわ。
落ちた先には、異界の門が開いていた。
けして潜り抜けてはいけないと言われていた、人の世界へつながる門。
こちらの世界と私たちの世界は、繋がっているけれど、違う場所。
理が違う。限りある命を生きる世界。永遠を生きる私達とは、何もかもが違う。
時間の流れも、生命の成り立ちも。
私たちはこちらの世界に長くとどまることができない。
神の作りあげた不可侵の約束が、世界を隔てている。
だから私たちは、こちらの世界ではいずれ体が粒子となって、消え失せてしまう。
「……大丈夫か? 酷い怪我だ」
異界の門が徐々に閉じていく。
帰りたくても、翼を失って飛べないし、起き上がることもできない。
仕方ないとあきらめてぼんやりと空を見つめていると、私を覗き込む人がいる。
精悍な顔をした、若い男性だ。羽はない。だから多分、人間なのだろう。
その人間は私を力強い腕で抱えあげて、自分の屋敷に連れて帰ってくれた。
たぶん、私ははじめて恋をしたのだと思う。
クローリウス・セイグリットという名前の男性は、私の事情を探ることもなく、私が元気になるまで甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
羽のない私は、まるで人間のように体の傷が治ると元気を取り戻した。
けれど、私は消えてしまう。
クローリウスに何も伝えられないまま、体の傷が治っていくのと比例するように、徐々に体から魔力が失われていくのを感じていた。
そんなある日、クローリウスが私に言った。
「私はあなたを愛している。あなたを失いたくない。私と結婚して欲しい」
天使だった時には感じたことのない気持ちが湧き上がってくる。
愛しい、恋しい、幸せ。
私の命は短いかもしれない。けれど私は、少しでも長くクローリウスと共にいたくて、それを受け入れた。
後から聞いた話だけれど、クローリウスは私が天使であることを知っていたらしい。
私をこの世にとどめるためにはどうしたら良いのかを懸命に調べて、結婚と言う契約を、私と結んだのだという。
それはそれで大切な理由だったけれど「勿論あなたを愛していたからだ」と、「そんな理由で結婚をしたの?」と拗ねる私に、狼狽えながら言っていた。
クローリウスと結婚してからしばらくすると、ミカエル様が私を呼ぶ声が何度も聞こえるようになった。
――セレスティア、人の世にとどまることは許されない。それは私たちが、人には過ぎる力を持っているからだ。
私は天使であったときには絶対だったミカエル様の言葉を、聞こえないふりをした。
――セレスティア、異界に戻れ。人と交わることは許されない。それは、罪だ。不可侵の約束を反故にして人と交わり子を成せば、お前に神罰が降る。
私はそれも無視をした。
だって、私も人と同じように、愛する夫との間に子供が欲しかった。
クローリウスは私の体を気遣って子供は要らないとずっと言っていたけれど、私は何度もクローリウスを説得をして、我儘を押し通した。
そうしてクロエが産まれた。
大切な私の宝物。
ミカエル様の声の通りに私には神罰がくだったのだろう。
徐々に、体の力が失われていって、起き上がることも大変になってしまったけれど、私は幸せだった。
異界での長い戦争に、一先ずの終止符が打たれたからだろうか。
人の世界に興味を持った力の強い悪魔たちの気配を、私はずっと感じていた。
クロエは私の力をひいている。
それは悪魔を打ち滅ぼすことができる、天使の力。
力の座天使であった私の力よりもずっと強い、未知の力。
それはヒトの可能性を秘めたもの。
だから私は、残された自分の力を使ってクロエや私、クローリウスの居場所を悪魔たちから隠していた。
けれど――もう、限界かもしれない。
私の命は、もうすぐ尽きる。
だとしたら、残された最後の力を使い切って、大切な家族に聖なる守護を与えよう。
まだ幼いクロエが、そしてクローリウスが、悪魔から身を守ることができるように。
それは悪魔に命を奪われそうになった時に、一度だけ身を守ることができるもの。
何の役にも立たないかもしれないけれど、今の私には、それぐらいしかできることがない。
◆◆◆◆




