王女ミンネ・ラシード
見渡す限りの、黄金の砂の海に唐突に表れた神殿のような場所。
それはさながら、長い間砂塵に晒されて風化した巨大な獣の骨のように見えた。
宙にぽっかりと開いた黒い虚から、私はその場所にべしゃりと落とされた。
粒子の細かい砂漠の土がクッションになってそんなに痛くなかったけれど、砂まみれだ。
攫って連れてくるのなら、最後まで責任を取ってほしいわよね。せめてすとん、と綺麗に着地させてほしい。
「痛いじゃないですか、何するんです、礼儀がなってないですよ……!」
恐怖に委縮しそうになる心を叱咤するように、私はなるだけいつもの日常のように文句を言いながら起き上がる。
乱れたスカートを汚している砂埃をぱんぱんと払い、落としてしまった杖を拾って、無限収納鞄が無事であることを確認する。
うん、大丈夫。武器はある。
私は、戦える。
「生憎、レディの扱いに慣れていなくて。やっと二人きりになれたね、クロエ」
メフィストは私の目の前の空中に浮かんでいる。
羽ばたいているわけではないのに、その足は砂漠につくことはない。
幼い時に暗闇の中で一人目が覚めてしまったような、原始的な恐怖感が背筋を這いあがってくる。
「まったく、迷惑です。しつこい男は嫌われるんですよ」
「嫌悪も憎悪も私たちの糧となる。良いね、怯えながらも私に歯向かおうとする反抗的な瞳が、たまらない」
メフィストは私に手を伸ばして、私の顔に触れようとした。
「――メフィスト」
けれど可憐な声に名前を呼ばれて、翼を音もなく羽ばたかせると石造りの神殿の奥へと向かった。
朽ちた神殿の奥に、いつの間にか若い女性が立っている。
白く裾の長い、黒薔薇の飾りが目を引くドレスに身を包み、白に近い銀色の髪にはシェシフ様のものに似た宝石をあしらった頭飾りが輝いている。
愁いを帯びたように水気を孕んだアメジストの瞳が、悲し気に私を見つめている。
「ミンネ様……」
聖王宮で遠目に見ただけだけれど、その面差もどことなくシェシフ様に似ている。
ミンネ・ラシード様。
私やレイラさんと同年代に見える、美しい方だ。
ミンネ様のすぐ隣に舞い降りたメフィストに、私は杖を向けた。
「ミンネ様から離れなさい! 人質のつもりですか?」
「それは違うよ。ミンネは我が宿主だから、死んでもらっては困る。こうも短期間に宿主を変えるのは、どうにも性に合わなくて」
「……どういうことです?」
「……ごめんなさい。あなたに恨みはないけれど……私の邪魔を、しないで」
ミンネ様は震える両手を胸の前で組んだ。
悲しみと決意に満ちた瞳の奥に、炎のような輝きがある。
ミンネ様の姿が、メフィストに操られていた時のアリザと重なる。
操られ、いいように使われて、死んでしまったアリザ。今のミンネ様は、アリザと同じように見える。
――ミンネ様が、メフィストの主?
「ミンネ様! メフィストは悪魔です、離れて……! 私が、助けます!」
私はアリザを救えなかった。
ミンネ様の姿が、アリザと重なる。助けてと、私を憎みながら手を伸ばしていた、私の妹。
――今度こそ、助けたい。
使命感と責任感が、恐怖に委縮し冷たくなっていた指先を熱くさせる。
ミンネ様は、首を振った。
「そんなことは知っている。……知っていて、私はメフィストと契約を結んだの」
「どうして、何のために?」
「私はサリム様を、救いたい。……サリム様の中にはもう、サリム様はいないのでしょう? お兄様はそれを知っていて、私をずっと、騙して……!」
「そうだよ、ミンネ。あれはもう、サリム・イヴァンではない。サリム・イヴァンは君の命を救うために、サマエル様に命を捧げて死んだ。あの中にいるのは、我が麗しの死の蛇サマエル様。サリムの皮に包まれたサマエル様を追い出し、サリム・イヴァンの魂を呼び戻せるのは私しかいない」
「……それは、嘘です。ミンネ様、甘言に惑わされないでください……! メフィストは嘘つきです、サリムさんを救うなんて、嘘に決まっています!」
子供に言い聞かせるように甘ったるい声で、メフィストはミンネ様に囁いた。
全てが偽りではないけれど、メフィストが望みをかなえてくれるとは思えない。
だって――メフィストは、アリザを殺した。
ミンネ様は苦し気に眉を寄せると、両手で耳を塞いだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私にはほかに縋れるものがないの……、ごめんなさい……! だから、メフィストの邪魔をするあなたは、死んで……!」
「ミンネ様、心を強く持ってください! 悪魔に惑わされないで……!」
「あなたには分からない! サリム様がいない世界なら、壊れてしまえば良い……救えるのなら、蜘蛛の糸のような頼りない希望にでも縋りたいもの! それがたとえ、悪魔だとしても……!」
「命じて、ミンネ。私にどうして欲しい? 私は君の刃。君の傀儡。君の望みはなんでもかなえてあげる」
それはまるで、甘い毒のようだった。
ミンネ様は縋るようにメフィストを見上げる。それから小さな声で言った。
「あの子は、邪魔なのでしょう、メフィスト。サリム様を救うため、あなたの邪魔になるというのなら、どうか……、消してしまって……!」
私は唇を噛んだ。
ミンネ様の感情が、震える声から痛いほど伝わってくるようだった。
――もし、私がミンネ様だったら。
サリムが、ジュリアスさんだとしたら。
私も――道を、踏み外してしまうのかしら。
「……違う」
それは――違う。
自分一人のために、数多の命を犠牲にしたいなんて、思えない。
私もきっと足掻くだろう。
ぼろ屑のようになっても希望がある限り、足掻き続ける筈。
けれど悪魔に縋ろうとは、思えない。
「悪魔は、人と契約をしなければこの世界には長くとどまれないそうですね。だからあなたは、アリザちゃんやミンネ様を惑わしたんですね……」
「それは少し、間違っているよ、クロエ。私の宿主は、これで三人目。アリザが要らなくなって、私はひとり。ひとりこの世界にとどまることは難しいから、新しい宿主を探した。そしてそれは、簡単にみつかった」
メフィストが優雅な仕草で、そっと虚空を指さした。
そこには、異界の門が現れる。
人間の手や体が折り重なるような形をした白い扉が、組み合わさる指をほどくようにして、ぎ、ぎ、と耳障りな音を立てて開いていく。
「私を必要としている人間は、案外多くいるものでね。――名前は、なんと言ったっけ。印象が薄かったから、忘れそうになるね。ええと確か、エライザ……、だったかな」
「……エライザさん」
エライザさんと、その父親のコールドマンさんは、アストリア王国であの事件の後に捕縛されて、牢に入っていた。
それからエライザさんは牢から逃げてラシードに向かい、シェシフ様の庇護を受けていたようだった。
嫌な予感が、胸を過る。
この感じは二度目だ。
一度目は、お父様だった。
メフィストは私のお父様を、――魔物に変えた。
「今回の余興はあまり衝撃的でもないかな。君にとっても印象が薄いだろうクロエ。エライザは君を嫌っていたし、君にとっても、まぁ、どうでも良い存在だった筈。だから、どうとも思わないかもしれないけれど」
異界の門から、のそりと魔物が現れる。
禍々しく、そして酷い腐臭に似た瘴気が、あたりに漂い始める。
口の中に苦いものがこみあげてくる。
あまりのおぞましさに、私は口を両手で押さえた。




