死の蛇サマエル
一陣の風のように、ヘリオス君が空を駆ける。
ルトさんの魔法に捕らわれずに追いすがってくる竜の魔獣を、ジュリアスさんの槍が切り裂く。
のっぺりした白い人間の顔の、焦点の合わない瞳がぎょろりと虚空を見つめて、大きく赤い口がぱっくりと開いている。
鍾乳洞に並んだ石のようなつるりとした歯列と、ぬるりとした舌。私をひと飲みにできそうな巨大な虚が口の中にのぞいていた。
食らえ――と、サマエルは言った。
考えたくない事実に気づき、私は唇を噛む。
がちがちと歯音を鳴らしながら、襲い来る竜の魔物をヘリオス君はひらりと躱し、そのたびにジュリアスさんの槍が体を裂いて、どこまでも青い空に赤い飛沫を散らせた。
シェシフ様の放った宝石鳥の包囲網を、アレス君の大きく硬い体が鳥を弾き飛ばすようにして強引に進んでいく。アレス君の体に傷ができて、濃い紫色の血液がそこここから流れている。
それでも、ファイサル様はシェシフ様に向かい真っ直ぐに進んでいる。
私たちも、行かなければ。
――砂漠に落ちた亡骸は、砂に埋もれてしまう。
砂漠の底には、いくつもの亡骸が埋まっている。
ラシード神聖国に来るときに、ジュリアスさんがそんなことを言っていた。
このままサマエルを野放しにしてしまえば、砂漠に埋まる亡骸は今よりずっと、もっと、増えてしまうだろう。
ヘリオス君が空中でぐるりと宙返りをしたり旋回するたびに、世界が逆さまにひっくり返る。
めまぐるしく変わる景色についていけずに鐙にしがみつくのに必死な私とは違い、ジュリアスさんはあくまで冷静に魔獣を退けている。
首や片羽根を切り落とされた魔獣が、砂漠に落ちていく。
暗く分厚い雲間を抜けるように、ヘリオス君が落ちる魔獣達の狭間から真っ直ぐ上へと高度を上げる。
空の高い場所にまるで座るように足を組んで私たちを見下ろしていたサマエルまで、一気に駆け上がるように近づいていく。
眼前に現れた私たちに動揺した様子もなく、サマエルは口元に笑みを浮かべた。
「やっぱり、あんな混じり物じゃあ、駄目だったね。けれどまぁ、楽しい余興にはなっただろう?」
にっこりと微笑んで、まるで褒められたい子供のような口調でサマエルは言った。
「酷いことを……、皆を元に戻してください!」
「クロエ、錬金術師の君になら分かるだろう、一度混じり合った素材を、元の姿に戻すことはできない。人と竜を殺すのは楽しかったかな、ジュリアス。血が疼くだろう、君の中の人殺しの血が」
肌を舐めるような声で、サマエルはジュリアスさんを呼んだ。
まるで皮膚の上に蛇が這いずっているように、ぞわりとした悪寒がはしった。
私が反論する前に、ジュリアスさんが口を開く。
「黙れ。御託はもう良い。お前の声は、聞き飽きた」
冷静さの底に、激しく深い怒りを感じた。
ジュリアスさんは、何よりもヘリオス君を大切に思っている。
飛竜を傷つけたくなんてなかった筈だ。
私も、同じ――
「良いのかな。私を殺すと、ミンネは死ぬ。愛する者を救うために命を捧げたサリムの願いを、それから、ミンネを守るために堕ちた聖王シェシフの思いを、無に帰すのだね」
「知ったことか」
「本当は誰にも死んで欲しくない。傷ついて欲しくない。でも、全部を守るなんて、とてもできそうにありません。一つだけ確かなことは、私はあなたを、見過ごせない。このままでは、傷つく人がもっと増えてしまう!」
「所詮は他人事だからそんな風に言えるのではないかな。世界と引き換えに愛する者が救えるとしたら、それを選択しないと、君たちは言い切ることができる?」
「そんなことをせずとも、自分自身の力で守りきる。それができない時が来るとしたら、それが俺の死ぬときだ」
サマエルの問いに、はっきりと答えるジュリアスさんとは対照的に、私は一瞬言葉に詰まってしまった。
そんなこと――考えたこともなかったからだ。
「クロエ!」
ジュリアスさんの声で、我に返る。
今は考え込んでいる場合じゃない。
私は私の力で、大切なひとたちを守れば良いだけなのだから。
私は千年樹の杖をジュリアスさんの槍に向けた。
「熾天使ミカエル、我が呼び声に答えよ! 猛き燃ゆる聖火にて闇を穿ち黎明を齎せ! 神世の剣!」
ジャハラさんから貰った本に書いてあった、破邪魔法の呪文を思い出す。
それは不思議と、昔から知っている祝詞のように、身に馴染んだ。
奇妙な懐かしささえ感じる。
まるで――お母様に髪を撫でられているような、優しい風が体を包んだ。
けれどそれは一瞬で、一気に魔力を搾り取られるような酷い脱力感を覚える。
体勢を崩さないように、私はしっかりとヘリオス君の背中の鐙の持ち手を片手で握りしめた。
空から一筋の光が、雷のように落ちてくる。
それはジュリアスさんの持つ黒い槍を、白く変化させた。
輝く白い槍には、中央に赤い色で見たこともない文字が入っている。白い羽が舞い散り、粒子のようにほころび消えていく。
光がおさまると、私の脱力感も少しおさまった。
けれど――今までの破邪魔法とは、違う。根こそぎ魔力を持っていかれたような気さえする。
「ごめんなさい、ジュリアスさん。これ、何度も使えそうにないです」
「問題ない。一太刀で、殺す。行くぞ、ヘリオス!」
ジュリアスさんの力強い声に返事をするように、ヘリオス君が大きく一度羽ばたいた。
「良いよ、おいで。相手をしてあげよう」
サマエルの背後の空に、黒い虚がいくつも現れる。
その虚からのびる黒い手が折り重なり、羽の生えている黒い蛇の姿に変わっていく。
風を切りながらサマエルの元へ向かうヘリオス君に、羽の生えた蛇が群がる。
ジュリアスさんはヘリオス君の上で片膝を立てるようにして立ちあがると、とん、と何もない空に向かって飛んだ。
蛇の背を足場にして、襲い来る蛇たちを軽々と切り裂くジュリアスさんの姿に――サマエルは何故か、無邪気に瞳を輝かせて喜んでいるように見えた。
「凄い。こんなに力を使ったのは、久しぶりだよ。あれはいつだったかな、天使の軍勢と戦って以来か。何年前だろう。すっかり忘れてしまったけれど」
「お前の昔話になど興味がない。死ね!」
消えていく蛇の背中から飛び降りながら、ジュリアスさんが白い槍を大きく振りかぶる。
目視できない程に素早い一撃は、白い稲妻のようだった。
ヘリオス君がジュリアスさんを受け止めるためだろう、サマエルの下へと回り込む。
槍は、サマエルの背中に深々と突き刺さり、腹の方まで貫通しているように見えた。
それでも断末魔の声さえあげずに、翼をはためかせて逃げようとするサマエルの四枚の羽根のうちの一枚を、ジュリアスさんが掴んでいる。
ジュリアスさんは腰の下げていた剣を抜いて、サマエルの首に剥ける。
白刃が煌めいた瞬間――それは、起こった。
「メフィスト、出番だよ」
「ずいぶん待たされました。退屈で、死んでしまうかと思いました」
吐き気さえするような恐ろしい気配が、私のすぐ後ろにある。
それは――私の体を背後から抱きしめるようにして、羽交い絞めにした。
「クロエ!」
ジュリアスさんの声がする。
ヘリオス君が焦ったように鳴き声を上げている。
私の体は強引にヘリオス君の上から引き離された。
足が宙に浮く。腹に回っているのは男の腕で、背後を睨みつけるとそこには――二つの角と、羽を一枚失った、三枚羽根の悪魔メフィストが、最後に見たときと同じ顔で嗤っていた。
「さぁ、君は世界か、愛する者か。どちらを選ぶか、もう一度私に教えて欲しい」
サマエルがジュリアスさんを見つめる。
好奇心に輝く瞳には、殺意も憎悪もない。まるで、子供の成長を見守っているような視線に感じられる。
ジュリアスさんが、サマエルの背中から槍を引き抜くと、素早くその体から離れてヘリオス君の上へと戻る。
――私を助けようとしてくれている。
「熾天使ミカエル、邪悪なるものに裁きの鉄槌を、神罰の……!」
残り僅かな魔力をかき集めて、私は両手に力を籠める。
私を掴んでいるメフィストの腕に向かい、魔法を放つ――
どれほどの威力が出るかは分からないが、拘束はとける筈だ。
けれど、私の呪文が構築される前に、私たちの足元に真っ黒い穴が現れる。
私とメフィストの体を黒い光が包み、そうして、ジュリアスさんとヘリオス君の姿は私の前から消え失せてしまった。




