聖王シェシフ・ラシード
サマエルはひらりと空中で宙返りをするようにして向きを変えると、シェシフ様の横へと並んだ。
シェシフ様は感情の読めない表情で、相対するファイサル様を見据えている。
(老いも、死もない国を悪魔が与えてくれるとシェシフ様は言っていた。シェシフ様の本当の目的は永遠の命なんかじゃなくて、ただ、ミンネ様に生きていて欲しいだけ?)
だとしたら――まだ、間に合うかもしれない。
シェシフ様に言葉が届くのなら、こんな無益な戦い、しなくてすむ。
サマエルを倒して、ミンネ様を救う。それだけで、良かったはずなのに、争いが起ってしまった。
今この瞬間にも、命が砂漠の中に埋もれていっている。
「兄上! 方法が、あるはずです。悪魔などに従わずとも、ミンネの命を救う方法が……!」
「もう、戻れないんだよ、ファイサル。父上から聖王を託された私は、けれど聖王にはなれなかった。民の安寧よりも、家族を守りたいと願ってしまった」
「家族を救いたい気持ちは、俺も同じです。兄上も、ミンネも俺の家族ではないですか」
「私はね、ファイサル。ミンネを救うため、サリムの行動が危険であることを知りながらそれを黙認していた。どうか、妹を救って欲しいとさえ言って、……サリムの未来が朧気に見えていたのに、縋ったんだ。サリムの命、それからルトの声を犠牲にして、ミンネを救うことを選んだ」
シェシフ様の声は、どこまでも優しく穏やかに、遠く怒声と剣や槍が合わさる音、飛竜の羽ばたく音が聞こえる空に、場違いに響いた。
「――未来を、知っていた?」
包囲網を抜けてきたのだろう、ジャハラさんを乗せた飛竜が上空から舞い降りるように現れる。
ジャハラさんの中低音の涼やかな声が、少しだけ震えている。
「そうだよ、ジャハラ。久しいね。……プエルタ研究院では未来視を行っているだろう、この国や世界の行く末を視るのが、研究者たちの仕事だ。……そしてジャハラ、君の両親はとても優秀だった」
「そうですか。……僕の両親は、シェシフ様に未来視の結果を伝えたのですね」
「何度も、危険だと言われたよ。……恐ろしいことが起る。私はその訴えを、黙殺した。そうして、サリムが――いや、サマエルが私の元へ訪れてすぐ、君の両親はサリムが悪魔に成り代わってしまったことに気づいた」
「……だから、殺した」
「手を下したのは私ではないよ。けれど、私が殺したようなもの。聖王の座に、穢れた私は相応しくない。でもね、降りるつもりもない。だから私は……今から私に刃向かう君たちを殺す。……私の目的を、果たすために」
シェシフ様の冠や衣服にあしらわれている大粒の宝石が、怪しく輝き始める。
宝石はシェシフ様の体からまるで意志を持っているように外れて浮かび上がり、その体を守るように取り囲んだ。
赤や青、紫や、白、様々な閃光が迸り、眩しさに思わず伏せた目を開くと、シェシフ様の宝石は美しい巨鳥へと姿を変えていた。
ヘリオス君と同じぐらいの鋭いくちばしとかぎ爪を持った巨鳥が、シェシフ様の周りに主人を守る番犬のように羽ばたいている。
宝石でできているように透き通り輝く鉱石のような鳥たちには、黒い茨の模様がある。
美しい体に走る黒い茨の紋様は、まるで脈打つ血管のようで、どことなく禍々しい。
「そろそろ、始めようか。脆弱な人間では、君たちの――特に、クロエとジュリアスの相手をするのは、難しいようだから。そうだね、こんな趣向はどうだろう」
サマエルが私とジュリアスさんを指さした。
ジュリアスさんの不愉快そうな舌打ちが聞こえる。
「さぁ、君たちの絶望を見せて。白い砂漠を赤く染めてあげるよ。血と悲鳴と怨嗟の狂宴で私を満足させてくれ」
サマエルが両手を広げると、そこここで叫び声が上がり始める。
視線を向けると、空の至る所にぽっかりと黒い穴が開いていた。
穴からは黒く長い腕が何本も伸びている。
いびつにねじれた指先が、敵も味方も関係なく、竜騎兵たちを捕縛し、絡みつく。
「……ジュリアスさん、行きましょう!」
「あぁ。……手加減はしないが、良いか」
「はい、大丈夫です……!」
絡みつかれた竜騎兵達は、飛竜ごといびつに黒く膨れ上がっていく。
飛竜と一体化するように、その体が変形していっている。
人の意志も、竜の意志も失った魔獣――
それは私とジュリアスさんが砂漠で戦った、人食い花の混ざり物に似ていた。
飛竜の羽根を持ち、胴体はあるけれど、その長い首の先にはのっぺりとした人の顔がはりついている。
「あぁ、良いね。傲慢で美しい竜も、人が混じるだけでこうも醜悪になる。さぁ、殺し、食らえ!」
サマエルの笑い声がする。
黒い手から逃れた竜騎兵達に、人と竜が交じった魔獣が襲いかかる。
今は敵対している場合ではないと判断したのか、ラムダさんが先頭となって、竜騎兵と魔獣がぶつかり合った。
私たちの元へも、魔獣は向かっている。
正面からは、シェシフ様の放った宝石の鳥が飛来する。
『クロエさん。兄様は、私が……、私が、倒します』
「兄上……、せめて、この手で……!」
ルトさんとファイサル様が、飛来する宝石の鳥に向かっていく。
鋭い嘴や爪が鋭利な刃物のように、素早く襲いかかり、皮膚を裂こうとする。
「貫け炎刃、炎刀演舞!」
ジャハラさんが襲いかかる巨鳥向けて魔法を放つ。
円形の炎の刃が鳥に向かう。けれど、炎は鳥の体を舐めただけで、すぐに消え失せてしまった。
ファイサル様も槍を振るうけれど、魔法や刃は、強固な鉱物でできた鳥の体には効かず、弾かれてしまう。
「クロエ、あの鳥とこの槍は、どちらが硬いと思う?」
「ジュリアスさんの方が強いです! ですが、槍はお高いので……!」
シェシフ様の魔力で作り上げられた鳥なのだから、シェシフ様の魔力維持ができなければ、鳥は消失するだろう。
聖王シェシフ様の魔力量は尋常ではなさそうだけれど、ご本人は、多分あまり強くない。
襲われそうになってシェシフ様を蹴り飛ばした私の経験が、本体は多分弱いから狙えと言っている。
(それに……魔獣は、飛竜と人でできているのよ。ジュリアスさんに、人も、飛竜も傷つけてほしくない)
私は大きく息を吸い込んで、皆に聞こえるように声を張り上げる。
「ルトさん、気持ちは分かりますが、サマエルは私とジュリアスさんに任せてください! ファイサル様は、シェシフ様を、私たちはサマエルの元に!」
私の声が届いて、すぐにジャハラさんが頷くとルトさんの元へ向かう。
「ルト、情も、憎しみも、今は邪魔な感情です。僕たちは道を開きます。協力を」
『はい……分かりました』
「力を合わせますよ、ルト。――魔力共鳴!」
『堅牢なる鉄の檻、我が血を糧とし、全ての愚かな敵対者を捕らえよ、ブラッドケージ!』
ジャハラさんの魔力が、ルトさんに注がれているようだ。
ルトさんが手をかざすと、上空に強大な白く光る魔方陣が現れる。
魔方陣から、粘着質な鮮血が滴り落ちてくる。
それは空の至る所にまるで蜘蛛の糸のように伸びていく。
糸が、巨鳥や魔獣を捕らえると、細い血の糸が鉄でできた堅牢な鳥籠のような牢獄へと変化する。
捕らえられた鳥たちは、狭い檻の中で羽ばたくことができずに、ぼとりぼとりと砂漠へと落ちていった。
ルトさんは、大丈夫だろうか。
これほどの広範囲で強力な魔法を使ったのだから――もしかしたら、体が。
けれど今は振り返っている場合じゃない。
ヘリオス君が、血の糸をすり抜けてサマエルの元へと向かう。
ファイサル様を乗せたアレス君も、シェシフ様の元へ飛んだ。




