天上界の研究
天使。
お母様が、天使。
確かにお母様は綺麗な人だった。穏やかで、優しくて、体を病んでいたけれど、泣き言ひとつ聞いたことがなかった。
強い人でもあったのだろう。
「……ジャハラさん。天使とは、本当に存在するのですか?」
私が尋ねると、ジャハラさんは口元に指先を当てて小さく首を傾げた。
「悪魔がいるのだから、天使もいるのだろうというのは、理論としては少々暴虐ではありますよね。プエルタ研究院は異界の中でも天上界の研究をしています。フォレース探求所と違って、異界の門の向こう側に降りるようなことはしません。行うのは、門から溢れる魔物とは何かを解明し、人々を守ること。そして、未来を占うこと」
「魔物には破邪魔法が有用だというのは、ここでの研究結果ということですね」
「はい。けれど、破邪魔法は他の魔法と違い特殊です。あれらは、天上界に住む熾天使と呼ばれる者たちから力を借りる魔法です。熾天使との親和性が深く関係しているものです」
「熾天使たち……、一人ではないということですか?」
「ええ、そうですね。破邪魔法を使える者は、どういう理由かは分かりませんが、熾天使の恩寵を受けています。そして、それはとても珍しい。プエルタ研究院の成り立ちは、そうした者たちが集まって、神の声を聞くところから始まったようですね」
「胡散臭いな」
静かに話を聞いていたジュリアスさんが、嫌そうに言った。
「ジュリアスさんは神様に嫌がらせをされたことでもあるんですか? もしや、無神論者です?」
無神論者だとしたら、神様の話は胡散臭いわよね。
ディスティアナの教典がどのようなものかは知らないけれど、アストリア王国では神様とはごく当たり前に存在するものだった。異界で死者の裁きを行うのが、神様で、羊飼いの姿をしていると言われている。
特に疑問に思ったことはない。そういうものだからだ。
ジュリアスさんは私を見下ろして呆れたように目を細めた。
「ろくでもない目に幾度も合っているのに、それでも神など信じているのか、お前は」
「私がろくでもない目に合っているのと、神様がいるいないのとは別の話だと思いますし。それに、そう悪い事ばっかりじゃないですよ。ジュリアスさんやヘリオス君とも会えましたし」
私が公爵令嬢として順風満帆な生活を送っていたら、今頃シリル様のお嫁さんとして、王妃様になっていたことだろう。
錬金術師でもなく、魔物と戦ったり、飛竜に乗ったり、ジュリアスさんに耳を引っ張られることもなかった筈だ。
私とジュリアスさんは出会うことなく、一生を終えていたかもしれない。
だとしたら、悲しいことはあったけれど、やり直したいとも、何かを変えたいとも思わない。
ろくでもない目にあったといえばあったような気がする。
それでも、私は今の私の人生が大切と、今は心から思っている。
「……クロエ」
脳天気とか、単純な阿呆とか、何か言われるかしらと思ったけれど。
ジュリアスさんは深く眉根を寄せた。不機嫌そうに見える。
そうよね。
ジュリアスさんの方が、私よりもよほど酷い目にあっている。
私が今の人生が大切とか、ジュリアスさんに会えてよかったとか思っていても、ジュリアスさんは違うかもしれない。
お父様を処刑されて、お母様は自死して、ジュリアスさんは戦場に放り出された後に、片目を抉られて奴隷闘技場に入れられたのだもの。
私はジュリアスさんの片手をぎゅっと握りしめて、ジュリアスさんの顔を見つめた。
「ジュリアスさん、ジュリアスさんは神様はいないって思っているかもしれませんけれど、天使ならここにいますよ。名実ともに天使となったクロエちゃんが、ここに」
ジュリアスさんは私を完全無視した。
せっかく元気付けようと思ったのに。
私はなんとも言えない沈黙が流れる室内を誤魔化すように、ジュリアスさんの手からぱっと自分の両手を離すと、ジャハラさんに向きなおっった。
「ええと、神の声を聞く話でしたよね」
「もう良いですか? 僕は待っていますので、思う存分愛を確かめ合っていただいても大丈夫ですよ」
ジャハラさんがにこやかに言う。
何歳かは不明だけれど、おそらく未成年の少年に気を使わせてしまった。
私は顔を両手で隠しながら恐縮した。「もう大丈夫です」と小さな声で言う。ジュリアスさんが喉の奥で笑う声が聞こえる。ご機嫌が治ったわね。良かった。
「そうですか、もう良いんですか? 微笑ましいので、続けていただいても構わないのですが……、プエルタ研究院の成り立ちからでしたね。プエルタ研究院は、熾天使の恩寵を受けた者たちの集まり。それが最初でした。破邪魔法を流用して、熾天使の声を聞く。そうして、未来を占うのです」
「神様とは、熾天使様たちのことなのですか?」
「これは、プエルタ研究院の中でも最上級の機密事項なのですが、クロエさんたちにはお話させていただきますね」
ジャハラさんが居住まいを正して、密やかな声で言う。
私も思わず背筋をピンと伸ばした。
ジュリアスさんは長い足と両手を組んで、興味がなさそうに目を伏せた。
「熾天使とは、神の作り出した異界の管理者です。白い翼を持つ人と同じ形をした天使の中でも、最上位にあたいする、四枚羽の天使たちのことですね」
「メフィストが、羽の数で階級が決まるというようなことを言っていました。四枚羽は上位階級、六枚羽は特別階級とか、なんとか」
「六枚羽の天使については、知りません。神の使徒である天使の中でも、最上位の熾天使は四枚羽です。そして、それぞれに名前があります」
「名前が……、まさか、お母様の名前も?」
「いいえ、セレスティアという天使の名は、プエルタ研究院が保管する研究書には出てきません。熾天使は四人。その名は、ミカエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエルと言われています」
どの名も、聞いたことがない。
私は首を傾げた。
「破邪魔法では、熾天使セラフィムを呼びますけれど、熾天使の名前がセラフィムではないのですか?」
「熾天使とセラフィムは同一の意味です。四人の熾天使の総称が、セラフィムということですね」
「それじゃあ、熾天使セラフィム、力を貸して! と叫んでいた私は、かなり間抜けなんじゃ……」
ジャハラさんは口元を押さえてくすくす笑った。
「アストリア王国では、破邪魔法の呪文はそんなふうになっているのですか?」
「ラシードでは違うんですか?」
「勿論。正しい呪文の唱え方の教本を後で差し上げますね」
「呪文が間違っているのに、どうして破邪魔法を使えたんでしょうか……」
「己の内側にある魔力を練り上げて放つ普通の魔法と違って、破邪魔法は、異界の熾天使たちへの助力の呼びかけです。人の体は熾天使の力の通り道のようなもの。圧倒的な力を受け入れるのですから、その分消耗もかなり激しいようですが」
「破邪魔法を使うと、ものすごく疲れます。お腹も空きますね」
私は魔道士としては大したことがないのだけれど、破邪魔法だけは得意らしい。
アストリア王国に溢れた魔物たちと戦ったのは、記憶に新しい。
破邪魔法は魔物に有用でそれはもう強力なのだけれど、無尽蔵に使えるわけではない。数回使っただけでも、魔力枯渇が顕著だからだ。
「そうなんですね。僕は使えないので、知識だけしかないのですけれど。熾天使たちは、恩寵を与えた者の声が届けば、力を貸してくれると言われています。極端な話、ミカエル様、助けてください! とかでも良いのですよ。それでは具体性がないからと、形式的に呪文を練り上げたのでしょうね」
「プエルタ研究院の方達は、その、熾天使様たちと話したことがあるのですか?」
「そのようです。今は、資料が残されているだけですけれど。……恐らく、ラシードは神を怒らせてしまったのですよ。飛竜を道具のように扱い、悪魔を捕縛し、神の知恵を貪ろうとしたラシードの人間たちは、見捨てられてしまったのです。今はもう、天使の声は聞こえません。残されたのは知識だけです」
「……神様が怒っているのですか」
「神は、黒き竜の姿をしていると言われています。天を覆うほどの巨大な竜の姿。竜は天使を作り、天使たちは人間を作った。ラシードに伝えられている神話ですね。天使は異界に住み、人間たちの死後、その魂を異界へと連れて行く。良き魂は、天上界に。悪しき魂は、冥府へと」
「途中からは、アストリアも同じです。悪いことをした人たちは、冥府に堕ちて苦しむのですね」
「そうですね、この伝承は少しづつ形は違いますが、概ねどの国も同じです。やがて、神の使徒である天使が神に反逆を起こした。神に歯向う天使は悪魔となり、異界で争いを続けている」
「天使が、悪魔に?」
「悪魔とは堕落した天使の姿。神に仇なすもの。だから、悪魔に与したラシードには、神罰が下って当然なのです。……このままではラシードはきっと滅んでしまうでしょう。そして、世界もまた。……父はそれを危惧していたのだと思います」
「世界の話も、ラシードの話も、どうでも良い。お前たちの罪と、俺やクロエは無関係だ。クロエの母親がなんであれ、これはどこにでもいる普通の顔立ちの女だ。妙な期待をするな」
今まで黙っていたジュリアスさんが、冷たい声音で言う。
「美少女錬金術師ですよ」
「自称」
「ええ、自称」
うんうん、と頷く私の腕をジュリアスさんが掴んだ。
ソファから強制的に立ち上がらせられた私は、ジュリアスさんに引きずられながらジャハラさんにペコリと会釈をした。
「手を貸すのは、クロエがお人好しだからだ。それと、これ以上飛竜を玩具のように扱われるのも気に入らない。ラシードや世界がどうなろうが、知ったことじゃない」
「世界が滅んだら困りますし、ラシードが滅んだら、関係ない人たちが可哀想じゃないですか。せっかくラシードまで来たのに地下に落とされて砂塗れになっただけで、まだ観光もできてないですし。情けは人の為ならずですよ、ジュリアスさん。ジュリアスさん、聞いてます? ジュリアスさんってば」
ジャハラさんは私たちに深々と頭を下げてくれた。
私は急に機嫌を悪くしたジュリアスさんに連れられて、部屋に戻った。




