セイグリット公爵の願い
テーブルの上に大皿がいくつも並んでいる。
串に刺さったお肉は、羊らしい。
一口大に切られて、臭み取りのためだろう、香草がたっぷりと使われている。
水分の少なそうな硬いパンには、オリーブの実を搾って作られた油が塗られている。
スープには小さく切った玉葱が入っていて、琥珀色をしている。
それから、星の形の果物や、手のひら大の丸い形の果物がある。中の実は、みずみずしい薄い白色をしている。見たことがないけれど、清涼感のある甘さが感じられて美味しい。
串のお肉は、串から外してお皿に移して、ナイフで小さく切って口に入れた。
硬そうに見えたけれど、ナイフがすっと通るぐらいには柔らかく、香草の香ばしさが感じられて、お肉の臭みはまるでない。
久々のご飯を私は黙々と食べた。
ご飯は大切だ。
この世で一番尊いのは、お金のかからないご飯である。
お金のかからないご飯には真剣に向き合う必要がある。なんたって、無料だし。
「余程お腹が空いていたんですね、クロエさん。空腹のまま頑張ってくれていたんですね、申し訳ないことをしました」
ジャハラさんは優雅に甘いお茶を飲んでいる。
ジュリアスさんは早々に自分の分を平らげてしまい、私に取り分けられたお肉に手を伸ばした。
私よりもジュリアスさんの方が余程食べているのに、どうして『クロエさんは可哀想なぐらいに空腹だった』という結論になるのかしら。
食事に真摯に向き合っていたせいで、必死なように見えてしまったのかしら。
私は先ほどジュリアスさんに言われたことで動揺してはいたけれど、それでご飯が食べられなくなるほど繊細でもないので、食べられる分はきちんと食べた。
といっても、大量にお肉を食べられるような胃袋はしていないので、お肉もパンも美味しかったけれどジュリアスさんに半分以上あげてしまった。ちなみに、スープは全部飲んだ。
それから果物も食べた。
ジュリアスさんはやっぱりお肉が好きなのだろう。果物には手をつけずにお肉とパンとスープだけ食べていた。
ジュリアスさんは食べる量は多いのに食べるのが速いせいで、あんまり沢山食べているように見えない。そして早いのに、その所作が綺麗だから、がっついているようにも見えない。
じゃあ私は何なのかしら。食い意地がはっているように見えるとか、謎だわ。これでも一応元公爵令嬢なのだけれど。
「もっと豪華な食事を準備できれば良いのでしょうけれど、聖王家から見捨てられた今、プエルタ研究院の立場は厳しくて。異界研究は今は滞っていますけれど、錬金術で多少稼いでいるので、飛竜たちや皆を養う程度のお金はあるのですが、なかなかの財政難です」
「ジャハラさん……、それなのに、お肉を食べさせてくれるとか、ありがとうございます」
内臓の細切れとか、肉の切れ端ばかりを料理につかっていた、そもそも豆のスープ生活を続けていた私にとってお肉とは貴重である。
お肉と果物がわんさかあるお食事が豪華じゃないとか言われたら、私の普段の食生活などどうなってしまうのかしら。
「ラシードでは、野菜よりも肉や果物の方が安価なのですよ。何せ、農地に活用できる土地が少ないですから。羊はよく食べます。あとは、砂トカゲとか。砂クジラの方が大きいんですけどね」
「砂トカゲ。砂クジラ」
「はい。砂クジラは巨体ですが、食べる場所がないので捕獲しません。それから、数が少ないので、滅多に出会うことができません。砂トカゲは凶暴ですが、食べる場所が多いです。数も多いので、捕獲しても特に問題はありません」
ジャハラさんがにこやかに教えてくれる。
トカゲは知っている。その辺の岩陰にいる。
クジラも知っている。海にいる。
けれど、どうにもジャハラさんの言っているものは違う気がする。
「……ジュリアスさん、謎の生物の話が出ていますよ。知っていますか」
「お前が知らないのなら、俺が知るわけがないだろう」
ジュリアスさんはあまり興味がなさそうだ。
それにしても、今日振る舞われたお肉が羊で良かった。羊ならアストリアでも食べる。
砂トカゲは食べたことがないので、ちょっと怖い。
「砂トカゲの話をしている場合ではなかったですね。クロエさんのお父様の話をしなければと、思っていたんでした」
ジャハラさんは静かな声音で言った。
ジャハラさんに呼ばれた時私は、てっきり食堂に案内されるかと思っていたのだけれど、ここはどうやら食事用の個室のようだ。
さほど広くない空間に、円形のテーブルが置かれている。
部屋に居るのは私とジュリアスさんとジャハラさん。三人だけである。
私はジャハラさんの言葉に居住まいを正した。
もうお腹はいっぱいだ。お皿の上には果物だけ残っている。
「交渉に、情報を使用してしまったことを許してください。僕も、必死だったんです」
「それについては気にしていませんよ。ラシードの事情は分かりましたし、ジャハラさんもご両親を失っているんでしょう? だから……」
「それでも、クロエさん達を巻き込み、危険な目に合わせてしまったことに違いはありません」
「お父様のこと、悪魔の情報、それから、飛竜の女の子。結構な大盤振る舞いだと思います。だから気にしないでください」
顔をふせるジャハラさんに、私は大丈夫だとにこにこ笑ってみせた。
そんなに気にしていないのも事実だ。
色々あったような気がするけれど、私もジュリアスさんも、特に怪我もなく無事に帰ってきて、お肉を食べている。
ヘリオス君に彼女ができて、リュメネちゃんは可愛い。
だからあまり気にしないで欲しいのだけれど。
ジュリアスさんが何か言いたげに私を見ている。
お人好しだと言いたいのだろう。
「ありがとうございます、クロエさん」
ジャハラさんは口元に笑みを浮かべた後に、真っ直ぐ私を見た。
妙に、緊張してしまう。
――よく考えると、私はお父様についてまるで知らないのよね。
お父様は寡黙で、いつも不機嫌そうで、頭を撫でて貰ったこともなかった気がする。
私に微笑んでくれたこともなかったし、抱き上げて貰ったこともない。
だから私はお父様に嫌われているとばかり思っていたけれど。
でも、お父様は私のために、悪魔を封じる方法を探していたのだという。
もう亡くなってしまったけれど、最後にお父様は、「クロエに手を出すな」と、アリザに向かって言ったそうだ。
私はお父様が生きている内に、お父様のことを何一つ知ることができなかったし、わかり合うこともできなかったように思う。もう何もしてさしあげることができないと思うと、胸が痛んだ。
「クロエさんのお父様、クローリウス・セイグリット公爵と僕は、一度だけ会ったことがあります。今から、六年ほど前になるでしょうか。そのとき僕の父、レジェス・ガレナはまだ生きていました。プエルタ研究院の所長を務めていて、セイグリット公爵との話し合いを、幾度かに渡って行っていました」
ジャハラさんは懐かしそうに言った。
お母様がお父様を呼ぶ声を、私は思い出していた。
お母様はお父様の名前が長くて呼び難いとよく文句を言っていて、歌を歌うような声音で、いつも『リウ』と呼んでいた。
怖い顔をしたお父様の名前にしては、随分可愛らしいと思ったものだ。
「お父様は、悪魔を封じる方法を探していたようです。メフィストという、悪魔を」
「先ほどの手記にもその名が出てきましたね。セイグリット公爵が、相談相手に僕の父を選んだのは、昔なじみだったからのようでした」
「昔なじみ」
「ええ。僕も父から全てを聞いたわけではありません。結局、四枚羽の悪魔を封じる方法は見つからず、セイグリット公爵との音信は途絶えたようですね。そして、父も、死にました」
ジャハラさんは小さく息をついた。
それから軽く頭を振った。
「父が僕に言い残したことが一つだけあります。それが、クロエさん、あなたのことだったんです」
「……私のこと、ですか」
「セイグリット公爵の子供には、聖なる加護がある。その子供は悪魔を見破り、打ち払うことができる。ラシードのせいで、世界が滅ぶかもしれない。助力を求めなさい、と」
私は口を閉じた。
どうして、私なのかしら。
分からない。
分からないけれど、一つだけ、確かなことがある。
「メフィストは、……私のお母様を、知っているようでした。……私のお母様は、もしかして、……まさか、とは思いますが、悪魔なのですか……?」
「まさか」
ジャハラさんは大きく目を見開いた。
それから、とんでもない、というように首を振った。
「僕の予想が正しければですが。クロエさんのお母様は。……恐らくは、天使、なのではないか、と」
「……奇遇ですね。私も、アストリアの王都の商店街の皆様には、クロエちゃんは天使だねと良く言われています」
お母様が――天使。
動揺した私は、どうでも良いことを口走った。
ジュリアスさんに耳を引っ張られた。お陰様で正気に戻ることができた。




