ラシード聖王家とサリム・イヴァン 4
異界研究者の身分がラシード神聖国でどの程度の者なのかは分からないけれど、ミンネ・ラシードは聖王家の一人娘である。つまりは、お姫様。
お姫様と、異界研究者が恋仲――それは、身分違いではないのかしら。
私は花嫁選びの時に目にしたミンネ様の様子を思い出していた。
嫋やかな銀髪に、美しい顔立ち。シェシフ様とファイサル様、二人の兄と違って肌の色は白く、儚げな印象だった。
私やレイラさんと同年代か、少し年上ぐらいだろうか。
ミンネ様の話になり、ルトさんが悲しげに目を伏せた。
「ミンネは、昔から体が弱かった。日の光に当たることができないぐらいに肌が弱く、食も細い。原因は分からないが、それは不治の病だと、二十歳までは生きることができないだろうと言われていた」
ファイサル様が過去を懐かしむようにして、続ける。
「兄上も俺もミンネとは少し年が離れていたせいか、妹が可愛くてな。ミンネは素直で、良い子だった。不治の病だと知らされたときは、なんとか治療法はないかと探し回ったが、……どうすることもできなかった。ミンネが不憫だった」
「ミンネ様は、私とも良く一緒に過ごしてくださいましたわ。お姉様と、慕ってくださって……、私も、お父様の力を借りて評判の医師を集めましたが、生まれついたときに持っていた病は、治すことはできない、と」
レイラさんが、小さな声で言う。
――老いも、死もない、世界。
シェシフ様の言葉が、脳裏をよぎった。
「サリム・イヴァンとミンネが、いつから恋仲になったのかは俺は知らない。サリムは優秀な男で、まだ若かったが、フォレース探求所の次期所長になるだろうと言われていた。探求所の研究結果を報告するために、よく聖王宮にも訪れていた。……ミンネとは随分年齢が離れている気がしたが」
「サリムとミンネ様の関係が私の耳に入ってきた時、ミンネ様は確か十五歳は過ぎていたかと思います。婚姻が可能な年齢ですので、若過ぎるということはありませんわ」
「そうだな。俺とレイラの婚約も、子供の頃の話だ。……どうにも、妹のことになると、な。……すまない。余談だった。元々研究熱心だったサリム・イヴァンが、より一層異界研究に没頭し始めたのは、この頃からだった」
ファイサル様は、レイラさんと顔を見合わせたあと苦笑して、それから気を取り直すように軽く首を振った。
二十歳までは生きられないお姫様と、年上の異界研究者の恋。
それは儚くも美しい、刹那の美談のように感じられた。
けれど、違うのだろう。
「フォレース探求所は、プエルタ研究院とは違う。異界の中でも、死者の怨念が渦巻く冥府に降りることを目的としている。死とは何か、死者は何故異界に行くのか、罪人たちが堕ちるという冥府には何があるのか。最初の目的は、度々ひとの世界に仇をなす異界の門からあふれる魔物についての研究だった。それが、不死に対するものに変わっていったのは、とある研究者が、悪魔と遭遇したから、らしい」
アストリア王国では知られていない悪魔という存在を、ファイサル様は当たり前のように口にした。
「悪魔とは、ラシード聖王国では、よく知られたものなのですか?」
私が尋ねると、ファイサル様は少し考えるようにしたあと口を開く。
「いや、……知っているのは、聖王家に近しい者や、研究者のみだ。未知の存在を知れば、恐れる者は多い。国民に不安や怯えが広がれば、争いの種になるだろう。もとより、異界研究とは危険なものだ。反意を唱える者もいないわけではない」
「私は、実を言えばよく知りませんの。今までずっと、ファイサル様は何も教えてくれずに、蚊帳の外でしたから」
「巻き込みたくなかったんだ」
レイラさんになじられて、ファイサル様は困ったように言った。
ジュリアスさんが私の隣で腕と長すぎて収まりの悪い足を組んで、つまらなそうに目を閉じた。
話が長い、といういつもの態度だけれど、多分ジュリアスさんのことだからきちんと聞いているのだろう。
『――兄は、ミンネ様を救いたかったのです。私もまた、兄の幸せを願っていました。だから、私は、刻印師になったのです』
ルトさんの声がした。
それはルトさんの喉から出た声というよりは、部屋全体に響いているように聞こえた。
『すみません。言葉を話すよりも、こうして、思念を響かせた方が、体が楽で』
「ルト、無理はしないで良い。刻印師とは、命を削って強大な魔力を使う者だ。ルトは元々、魔道士としての資質が高かった。サリムもそうだが、イヴァン家に産まれた者は優秀な魔道士か、異界研究者になると言われていてな。だが、――ルトが刻印師として力を使い続けていると知ったときには、全てがもう、手遅れだった」
「サリム・イヴァンは、冥府に降りて悪魔に食われたのですか?」
ジャハラさんが言う。
それは事実であれ、ルトさんの前で口にするには、あまりにも残酷な言葉だ。
私は眉をひそめた。
けれど、私がサリム・イヴァンが悪魔だと伝えたのだ。
私も、――同罪よね。
どうしようもないやるせなさに、私は俯いた。
『なにがあったのか、わかりません。私は刻印師として、幾人かの悪魔に封魔の刻印を施し、兄とともに探求所に連れて帰りました。度重なる冥府への旅路は、私の体を蝕み、起きることができない日も多く続き……、そういうときは、兄はひとりで冥府に降りました』
「一人で? 刻印師も連れずに?」
静かに話を聞いていたラムダさんが驚いたように言った。
『ミンネ様の体調は、悪くなる一方で、兄も焦っていたのだと思います。捕らえた悪魔から、何かしら聞き出したのかもしれません。ともかく……、兄は、ミンネ様を救いました。ミンネ様は元気になられて、そして、フォレース探求所は、すっかり変わってしまいました』
「元々、フォレース探求所は危険だと、プエルタ研究院は言っていたのです。そうして、プエルタ研究院は中央から排斥された。サリム・イヴァンは、ミンネ様を救った時はすでに、悪魔に魂を売っていた、と」
「あぁ。恐らくは。ジャハラの言うとおりだ。……ミンネはすっかり元気になった。サリム・イヴァンは兄上からの支持で、研究所の所長となり、兄上もまた、変わった。穏やかで優しい兄上はいなくなり、まるで自分自身を貶めるように、淫蕩にふけるようになった」
「元々女好き、というわけではないんですね」
私が尋ねると、ファイサル様とレイラさんは同時に頷いた。とんでもない、とでも言いたげな表情だった。
私と二人きりになったときのシェシフ様は、演技をしているようには見えなかったけれど。
あれが演技だとしたら、申し訳ないことをしてしまったのかしら。
思い切り腹を蹴り上げた時の感触を思い出して、私はまぁ良いかと開き直った。
演技でも何でも、私に触ったのだから、やり返しても構わない筈だ。
「俺は――直接、何かに関わったというわけではない。だが、薄々は気づいていた。サリム・イヴァンが悪魔だとは思わなかったが、助からないと言われていたミンネが元気になったのだから、そこには何かしらの行いがあったのだろうということ」
それが何なのかは分からないが、とファイサル様は言った。
「フォレース探求所の悪辣な行いと、まるで何かから逃げるようにして暗愚を演じているような、兄上の変化。ミンネは、サリムを信じている。幸せそうなあれを見ていると、俺も、何もかもから目を背けていれば、このまま平穏な日々が続くのではないかと、思っていたんだ」
「何が、平穏ですか。何人、死人が出たと……」
ジャハラさんが、ファイサル様を睨み付けた。
ファイサル様は深々と頭を下げる。
「そのとおりだ。本当に、すまなかった。……聖王宮においては、平穏だったんだ。俺は国よりも、家族を選んだ。兄上が守ろうとしているものを、俺も守らなければと。兄上には俺しかいないと、思っていたんだ」
「シェシフ様は、……ミンネ様を守るために、サリムの――悪魔の言いなりになっている、ということですね」
私はシェシフ様の様子を思い出しながら尋ねる。
悪魔に従うふりをするために、あんなことを言っていたのかしら。
それとも――ミンネ様やサリムがもう生きていないことを知っていて、不死の国を造ることを、本当に求めているのかしら。
「そうだろう。恐らく」
ファイサル様は頷く。
でも、だとしたら、どうしたら良いのだろう。
誰を助ければ良いのか、私にはよく分からなかった。
「サリムが悪魔だとしたら、とっくに本人は死んでいるだろう。お前の妹が、本当に生きているかどうかさえ怪しい。悪魔は、死者を蘇らせて操れるらしいからな。お前は、仮初めの幸せを守るために、多くの犠牲から目を背けたのか」
ジュリアスさんが閉じていた目を開くと、ファイサル様を見据えて淡々と言った。
ファイサル様はジュリアスさんの指摘に俯く。
「あぁ。……そうだ。その通りだ。確証はなかったが、理解はしていたように思う。だが、それでも俺は。……今は違う。俺は、レイラと、この国を守りたい。レイラを奪われそうになり、目が覚めた。聖王家に産まれた者としての責務を果たす。兄上に、刃を向けることになっても」
ファイサル様の決意に、ジャハラさんは深々と溜息をついた。
「シェシフ様もファイサル様も、気づかないうちに悪魔の甘言に操られていたという可能性もあります。一方的に責めたところで、仕方ないことでしょう。思うところはありますが……」
「……ジャハラさん。そういえば、閉じ込められた地下から、研究ノートみたいなものをみつけたんですけれど、一応見てみます?」
私は思い出して、ごそごそと鞄をあさった。
薄汚れて所々破けているけれど、まだ読めそうな紙束をテーブルの上に置いた。
埃が舞う。
お風呂に入りたいなぁと心底思った。




