ラシード聖王家とサリム・イヴァン 3
ジャハラさんが気遣うように「お疲れでしょう、まずは食事でも」とせっかく言ってくれたのだけれど、ジュリアスさんは「まずは詳しい話が先だ」と断ってしまった。
聖王宮でも食事がとれなかったし、食事と言われた途端にお腹がすきはじめた私。思わず胃の上あたりを手で押さえた。魔獣と戦ったせいで埃っぽくなってしまった服とか、砂粒がついてざらざらする髪とかも気持ちが悪い。
できればご飯を食べてお風呂に入って着替えたい。
健康で文化的な生活……、と心の中で呟いた。ついでにジュリアスさんに何か訴えかけるような視線を送ってみるけれど、完全に無視された。
「それでは、場所を移動しましょう。せめて座ることができる場所へと行きましょう」
「黒太子、ジュリアス。一人で五百騎兵に匹敵すると恐れられた、ディスティアナの竜騎士。会えて光栄だ。どうか、私の部下たちを信用して欲しい。ラシード竜騎兵団は、飛竜の扱いに長けている。けして危害を加えたりはしない。――飛竜とは、神の使い。敬意を払うべき存在だ。……だから私は、聖王家に反旗を翻した」
低く落ち着いた声音でラムダさんが言った。
ジュリアスさん以外の将軍を見たのははじめてだけれど、腰が低く穏やかなひと、という印象である。
ジュリアスさんとは大違い――なんて思っていたら、どうやら伝わったらしく、ジュリアスさんに腰を抓られた。
女性の腰を抓るとか、どうかと思うの。腰はまあそれなりに細いはずだけれど、抓られたお肉が気になる。
「……仕方ない。ヘリオス、大人しくしていろ」
抓られたお肉に思いを馳せていると、ジュリアスさんがラムダさんの申し出を了承した。
今日のジュリアスさん、どうしちゃったのかしら。
ファイサル様を名前で呼んだり、ヘリオス君を他人に任せたり。
今までなら、そんなこと、絶対にしなかったわよね。
ジュリアスさんも徐々に健康で文化的な生活に慣れた、元のジュリアスさんに戻りつつあるのかもしれないわね。なんせ――元々は、高貴な身分のひとだったのだし。
「その代わり、あとで様子を見せろ。……あの茶色い飛竜の他にも、飛竜がいるのか?」
「勿論。若いものから、百年を生きているものまで。その飛竜は、ヘリオスと言うのだな。預からせて頂く。お前たち、丁寧に扱いなさい」
ラムダさんの命令で、近くに控えていた数人の兵士の方々がヘリオス君の手綱をひいて、目を閉じていたヘリオス君を起こした。
ヘリオス君は話し合いを聞いていたのか、素直に立ち上がると兵士の方々に連れられて奥の通路へと歩き始める。
通りすがりざまに少し寂しそうに、私の体に顔を擦り付けるようにした。
額を撫でてあげると、嬉しそうに目を細める。「またあとでね」と私が言うと、「キュイ」と小さな声で答えてくれた。
「それでは、こちらにどうぞ。ルトも疲労が強い。喰命魔法を使ったようだね。薬湯を用意させましょう」
ルトさんはこくんと頷いた。
ジャハラさんの案内で、私たちは広いけれど何もない神殿の前庭のような場所から、プエルタ研究所の奥の間へと移動した。
飛竜のみんなが連れられていった通路の横には、いくつもの扉が並んでいる。
その扉の一つにジャハラさんが触れると、扉に輝く光の輪のような紋様が浮かび上がった。
扉の中は、側面に書棚、奥に政務机のある、会議室のような場所になっている。
中央に背の低いテーブル、それを囲むようにして、立派なソファが並んでいる。
繊細な作りの錬金ランプが明るい光を放っている。錬金ランプは鈴蘭の形をしている。
鈴蘭のランプは作ったことがないけれど、可愛い。
参考にするために、形をよく見ておこうと、私はランプの観察をした。
部屋を眺めていると、部屋の端に錬金釜があるのをみつけた。
錬金釜、懐かしいわね。
ラシード神聖国に来てからさほど経っていないのだけれど、アストリア王国にある錬金術店にはずっと帰っていないような気がした。
私はジュリアスさんと一緒にソファに座り、その前にレイラさんとファイサル様が座った。
ジャハラさんは一人がけ用の椅子に座り、ラムダさんはその後ろに立った。
ルトさんはジャハラさんと対面にある椅子に座った。
ジャハラさんと同じようなローブを着た女性が何人かやってきて、甘いお茶を入れてくれる。
カップに口をつけると、口の中に広がった甘さに、どこか緊張していた体の力が抜けるような気がした。
「――早速ですが、結論からお願いします。クロエさん、聖王宮で、何を見ましたか?」
ジャハラさんの言葉に、皆の視線が私に向いた。
優雅にお茶を飲んでいた私は、慌ててカップをソーサーに戻した。
「は、はい……」
サリム・イヴァンが、怖い。
まるでメフィストと相対したときのような、恐ろしさを感じた。
全身がひりつくような醜悪で暴虐な魔力は――ひとの力では、ない。
でも、サリム・イヴァンはルトさんのお兄さんだと言う。
(言って、良いのかしら……)
きっと、私の言葉はルトさんを傷つけることになる。
私は言葉に詰まり、ちらりとルトさんに視線を向けた。
ルトさんは、大丈夫だというように、深刻な表情を浮かべて静かに頷いた。
「……聖王シェシフ様は、それが悪魔と知りながら、悪魔を傍においています。操られているのかもしれないし、ご自身の、意志なのかもしれない。分かりませんけれど……、悪魔は、サリム・イヴァン。私には、サリムがひとではない別のなにかのように感じられました」
「――っ」
ルトさんが、息を飲んだ。
青ざめてはいるけれど、俯いてはいない。
膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめている。
「そうですか。……フォレース探求所の誰かが、とは思っていました。もしくは、シェシフ様か、ファイサル様どちらかが。……けれど、悪魔そのもの、とは」
「ジャハラさんは、アストリアで起ったことを知っていますよね」
「ええ、シリル様から頂いた親書に、大凡のことは書いてありましたので」
「私の妹……、アリザ・セイグリットには、幼い頃から悪魔がついていたようです。異界の門から現れた天使だと、アリザは思っていたようでしたけれど、悪魔の言葉に惑わされて……、メフィストのせいで、多くのひとが傷つきました。アリザは結局死んでしまいましたが、最後まで人間でした」
「そうなのですね。……クロエさんの妹君は、操られていただけの人間だった、と」
「はい。アリザは人間でしたから、……助ける方法が、救う方法があったかもしれません。でも、できませんでした。……サリム・イヴァンは、それとは違うように、思えるのです。私はサリムさんを知りませんが、ひと、とは違う、気がします。それは私がそう感じただけで、ただの憶測でしかありませんけれど」
「僕は、クロエさんの直感を信じます。クロエさんは、僕たちとは違いますから」
ジャハラさんが優しく微笑む。
ジュリアスさんが私の隣で小さく嘆息するのが聞こえた。『胡散臭い』とか思っているに違いない。
「兄上は、何か言っていたか、クロエ」
「シェシフ様は元々、部屋に入り込んだ虫も殺さずに逃がしてあげるような優しいひとでした。そして、サリムも、異界研究者として研究熱心ではあったけれど、それはあくまでも国のためでしたのよ。冗談は通じないけれど、生真面目な研究者、というような方でした。それなのに、どうして」
ファイサル様の言葉を、レイラさんが続ける。
「……老いも死もない、理想の世界を作るのだと言っていました。悪魔は、英知を与えてくれるのだと」
「君の目には、兄上は、気が触れているように見えただろうな」
ファイサル様がとても悲しげに言った。
眉間を寄せて、苦しげに表情を歪める。
レイラさんがそっとその背中に手をおいた。
ファイサル様は決意をしたように、真っ直ぐな瞳で私たちを見渡した。ファイサル様にも聖王家の血が流れている。堂々としたその佇まいは、シェシフ様よりも余程王の威厳に満ちた姿に見えた。
「レイラの言うとおり、兄上は昔から……、どちらかと言えば、神経が弱く、大人しく穏やかで、争うことが嫌いな方だった。今はなき父上によく似ていた。ラシードが長らく平和だったのは、歴代の聖王が争いを嫌ったからだ。聖王は平和を望み、俺やラムダといった戦える者が、聖王の理想とする平和を守る。それが、ラシード神聖国が作り上げてきた歴史だ」
「ラシードの軍事力があれば、ディスティアナの侵略など取るに足らないものだった筈だ。だが、お前たちはまともに戦おうとはしなかった。国境付近に魔道士たちを時折向かわせるぐらいで、竜騎兵の姿を見ることはなかった」
ジュリアスさんに言われて、ファイサル様は頷く。
「あぁ。ラシードにとっては、ディスティアナと争うよりは、異界の神秘を解き明かす――世界の仕組みを解明する方が、重要だった。力に真正面からぶつかれば、そこにうまれるのは軋轢だけだ。ラシードの軍事力は、自国を守るためにある。戦争は、余計なことだ」
「私は一度、戦ってみたいと思っていましたが」
ラムダさんが少しだけ残念そうに言った。
「兄上が変わってしまわれたのは、……数年前のことだっただろうか。レイラにも、何かがおかしいと言われた。だが、俺は見ないふりをしていた。……兄上が守ろうとしているものが何なのかが、俺には分かっていたからだ」
「守る。……何を、守るというのです。シェシフ様の行っている行為は、国を、世界を危険に晒している。国の異常に気づいて声を上げたプエルタ研究院の研究員の多くが、命を落としました。僕の、両親も」
ジャハラさんが、はじめて感情的になった。
その表情には、怒りが滲んでいた。
ジャハラさんは大人びて見えるけれど、多分私よりも若い。その両肩に背負っているものを考えると、胸が痛くなる。
「……あぁ。その通りだ。……しかし、俺は、俺たちは、……国よりも、家族を守りたかった。……サリム・イヴァンは、妹の――ミンネの、恋人だったんだ」
ファイサル様の言葉に、レイラさんが俯いた。
ルトさんは胸の前で、祈るように両手をぎゅっと握りしめていた。




