ジュリアス・クラフトの苛立ち 2
人の波を器用に縫うようにして進み、大広間の奥にある扉を抜ける。
レイラのことを怪しむ者は誰もいないようだった。
人々の熱気に満ちた大広場に比べ、一枚扉を抜けた先に広がる神殿に似た造りの王宮は静謐で、見張りの兵士の姿がちらほらある程度だ。
レイラが兵士たちに軽く会釈すると、彼らは膝をついて深々と礼をした。「レイラ様、そちらは?」と尋ねられ、「新しい従者ですわ。いちいち説明する必要がありますの?」と、張りのある声で答えた。
恐縮した様子で引き下がる兵士たちの前を堂々と通り抜け、いくつかの曲がり角を曲がると、白い柱の並ぶ回廊に出る。回廊の両脇には首のない白い羽をもつ女の石像が並んでいる。
異界の神を模した石像だ。ラシード神聖国の信仰の対象である。首がないのは、神の顔を想像することは不敬にあたるからと言われている。
回廊の手前の廊下に隠れるようにして、レイラは足を止めた。
「……ここを真っ直ぐ行った先にある一番大きな扉の先が、王の間よ。昔はよく、シェシフ様やファイサル様、ミンネ様とお話をしたり遊んだりしたものだけれど、――今はあまり入ろうとは思わないわ。あまり見たくない光景を見てしまうからね」
密やかな声でレイラが言う。警戒する猫のように、せわしなくその瞳は周囲を見渡していた。
堂々と振舞っているが、案外内心はそうでもないのかもしれない。
俺を案内するということは、シェシフや聖王家への反逆に値する。平静ではいられないだろう。
「……クロエ」
レイラの言葉に、嫌な想像が頭をかすめる。
奥へと進もうとした俺の服を、レイラが引っ張った。
「お待ちなさい。あなた、丸腰でしょう。晩餐会には帯剣は許されていないもの。これを、あげるわ」
「……暗器か」
レイラが手にしていた扇を渡される。
武器など無くても問題ないと思っていたが、無いよりはあった方が良い。
鉄の骨組みで作られた扇は、閉じて使えば細身の棍棒程度の威力がある。
鉄扇は、貴人の女が好んで使う暗器の一つだ。趣味で持つにしては少々物騒ではある。
「護身のために持っているだけよ。だから、持って行って良いわ」
「あぁ、分かった」
俺はレイラの元から立ち去ろうとした。
そこで、クロエに人から何かをして貰ったときにはお礼を言うようにと、散々言われたことを思い出す。小うるさいと思って適当に返事をしていた。
あまりにもうるさかったせいだろうか、その言葉は頭の中にしっかり染みついているようで、「ジュリアスさん、お礼は減りませんよ。むしろ増えます。良いことが返ってきますから、将来への投資と思ってください」などと得意気に言うクロエの言葉が、頭の中に勝手に響いた。
離れていても、うるさい。毎日声を聞いているせいだろうか。
「――助かった。お前は、戻れ」
「あら。不愛想かと思っていたけれど、案外優しいのね」
短く礼を言うと、レイラは唇を釣り上げて笑みを浮かべた。「じゃあ、頑張ってね、王子様」と言い残し、レイラは来た道を戻っていった。
俺はレイラとは反対方向へと足を進める。回廊には見張りの姿は見当たらない。
次第に足が早まり、走り出していた。
――ふと、気配を感じる。
手にしていた扇で向かってきた何かを叩き落とした。
カキン、と金属音を立てて、それは弾き飛ばされる。借り物の鉄扇は、そう悪くない強度があるようだ。
続けざまにこちらに向かってくるのは、先端にかぎ針のようなものがついている細い糸に見えた。
風を切る音をたてて何本も放たれる糸の先には人の姿がない。
「面倒だな」
俺は急いでいる。
誰かは知らないが、相手をしている暇などはない。
叩き落とした糸が石造りの床を引き裂く。手で触れれば、肉が割かれる程度の殺傷能力がある糸である。
鉄糸も、暗殺者が好んで使う暗器の一種だ。
折りたたんだ鉄扇で向かってくる糸を受け、ぐるりと巻き取る。
糸の先には確かに重さがある。細く光る糸の出どころを目視するのは困難だが、重さがあるということはそこに人がいるということだろう。
ただの人間は、雑魚だ。
「――俺は急いでいる。さっさと死ね」
床を引き裂き再び舞い上がり、こちらに向かってくる糸を床を蹴って避ける。
世界が一瞬反転する。広い神殿には、やはり人影は無い。
跳ね上がりながら鉄扇を引く。着地の自重と共に思い切り引き上げると、けれどそこには確かに人間一人分ぐらいの体重を感じる。
そこに居るのなら、話は早い。
着地した片足で、床を蹴る。糸の巻きついた鉄扇を無理やり開くと、ぴしり、とした感触と共に引きちぎれた糸が光の残滓を残してひらりと宙に散った。
扇で糸を弾き飛ばしながら、何もない、人の気配のする方へと駆ける。
避けようとしているのか、衣擦れの音が聞こえる。だが、遅い。
手を伸ばし、何かを思い切り掴む。それは、髪のようだった。
何本かが手のひらの中で引きちぎられる感触がする。駆けていた勢いを全てのせて、思い切り膝をその腹へと打ち付け、蹴り上げる。
うめき声と、空気を飲む音が聞こえる。
思ったよりも、軽い。女のように小柄な体をしている。女なのかもしれない。
だがどうでも良い。
鉄扇の殺傷能力は割と高い。的確に使用すれば、刃こぼれがない分下手な剣より容易に人を殺せる。
逃げようともがいている見えない体を、その首を、髪を掴んだまま鉄扇を打ち付けてへし折ろうとして――止めた。
クロエが、嫌がりそうだと思った。
別に人を殺したいとか、殺したくないとか、そういった感情があるわけじゃない。
どうでも良い。だが、邪魔をするのなら、躊躇はない。
けれどクロエが「ジュリアスさん! 穏便に!」などと頭の中で騒ぐので、俺は鉄扇でそれの首の骨を砕くのをやめた。その代わり、追ってこられるのは面倒なので、おそらく足がありそうな場所を踏みつける。体重をかけて靴底をねじ込む様にすると、足の骨の折れる感触がした。
「ぅあ、あ……!」
一応訓練はされているのか、悲鳴はごく小さかった。
髪を掴んでいた手を離すと、どさりと見えない何かが床に倒れる音がする。
徐々に透き通っていた姿に色が戻ってくる。空間が歪むようにして人の姿を取り戻したそれは、ゆったりとした黒い服を着ていて、黒い布で顔の大半を覆っていたので女か男かは良く分からない。
ただ、若いということだけは分かった。子供に見えなくもない。
その人間は折れたほうの足を抑えながら、憎しみの籠った目で俺を見上げる。口から血が零れていた。
腹を蹴られ、骨を折られたぐらいで死にはしないだろう。
そういえば――かつて、クロエと共にいるときに襲い掛かってきた、あれはおそらくコールドマン商会の子飼いの暗殺者たち――だろうが、あれも、妙な魔法を使っていた。
姿を消し、風景と同化する魔法だ。妙な魔法もあるものだと思ったが、暗殺者特有のものなら俺やクロエが知らなくても仕方がない。
暗器もそうだが、暗殺者の技術は早々外に出るものではない。だからこそ暗殺者足りえるのだろうが。
「……時間の無駄だ」
転がっている人間が誰なのかなどには、興味がない。
シリル・アストリアからの手紙には、コールドマン商会の父娘が逃げたと書かれていた。
大方、ラシード神聖国に逃げ込んで匿って貰ってでもいるのだろう。
面倒な事だ。アストリア王国の兵がつかえないせいで、牢から逃がしてしまうからだろう。シリル・アストリアは慰謝料として、俺たちに一億ゴールド程度は払った方が良い。
クロエは守銭奴のように見えて案外謙虚なので、いざ金を貰うときには遠慮をする傾向がある。
全く、阿呆め。
「待て! ジュリアス・クラフト……、貴様のせいで、エライザ様が……!」
床に倒れている人間が、少年の声で言った。
俺はそれを一瞥して、それから回廊の奥、クロエが連れていかれただろう扉へと向かう。
「エライザ様は、少しだけ気位の高いだけの、愛らしい方だったのに……、お前のせいで、全て、お前のせいだ……」
「わめくな、うるさい。――大切ならば、自分で守れば良いだけの話だ」
「知ったような口をきくな……! エライザ様は、聖王シェシフに、……くそ、くそ……っ」
エライザ・コールドマンという一度か二度あっただけの女のことなど、よく覚えていない。
うるさかったことと、化粧と香水の匂いがきつかったことぐらいしか記憶がない。
あれは、クロエを恨んでいる。
つまり――あの女がここにいるということは、クロエのことは聖王シェシフに知られている。
だからこそ、花嫁に選ばれ連れていかれた。
それに気づき、再び俺は走り出した。
大切なら、自分で守れば良い。俺の唯一大切だと思える人間は、放っておくとろくでもないことばかりに巻き込まれるお人好しだ。
だから――そんなことは、俺が一番良く分かっている。




