ジュリアス・クラフトの苛立ち 1
――案の定、厄介なことになった。
壁に凭れて、ホールで第二王子とやらと踊っているクロエを、俺は腕を組んで見ていた。
お人好しのクロエが、異界研究者の男の頼みを断れないことは予想がついていた。
その時から嫌な予感はしていたが、思った通りだった。
肉付きの悪い華奢な体に赤いドレスを身に纏っているクロエは、それなりに見栄えが良い。クロエがいつも言っている美少女だとは思わないが、着飾った姿は普段の凡庸さに比べて人の目を引くほどに華やかだった。
特に黒髪の者ばかりがあつまっている聖王宮の大広間では、その姿はかなり目立つ。
集まった人間たちの視線がクロエに向いているのが分かり、苛立ちを感じた。
その感情は、かつてディスティアナ皇国の皇帝にヘリオスを奪われそうになった時に感じた憤りと焦燥に似ている。
他国の事情になど関わらなければ、こんなことにはならなかった。
今すぐ連れ戻して、帰りたい。肌の露出が多いドレスを脱がせて、いつもの地味なエプロンドレスとやらに着替えさせたい。
ダンスホールに乗り込んで、その体を抱えて逃げたらクロエは怒るのだろうか。
悪魔を探す目的を達成せずに、ラシード神聖国を見捨ててアストリア王国に戻ることを、クロエはおそらくよしとしないだろう。自分一人だけでもここに残ると言い張りそうだなと思い、俺は服の上から首元に触れる。
首飾りの錠前に触れるのが、考え事をするときの癖になっているようだ。
服の上から布を隔てて、小さな錠前の硬い感触を指先に感じる。
他国の事情や、他人の事情、生き死になどに興味が微塵もわかない。全てどうでも良いことだと感じる。
ラシード神聖国が置かれている状況は理解できるものの、それがどうした、とも思う。
関係のないことだ。どのみち、なるようにしかならない。
それでも――クロエが望むのならと、その意思に従った。
お人好しなクロエが望むことは、大抵の場合間違っていない。クロエがそうしたいというのならきっと、それは必要なことなのだろう。
「……困ったわね。選ばれるわよ、あの子」
俺の隣にずっと立っていたレイラという名の女が口を開いた。
話しかけられたのだとは思うが、話をする必要性を感じなかったので黙ってその言葉を聞いていた。
「シェシフ様はきっと、ラシードの女たちに飽いているのだわ。毛色の違う美しいクロエさんは目を引くし、……それに、他の貴族女性と違って、見かけたことすらないのだもの。それは、興味を持ってしまうわよね」
俺の返事など期待していなかったように、レイラは囁くように話を続ける。
扇の先端で腕をつつかれて、鬱陶しく思いその顔を一瞥した。
「そんなに怖い顔で睨まなくても。あなた、クロエさんと良い関係なのでしょう。だから、ファイサル様とクロエさんがダンスをしているのを見て、嫉妬をしているのね」
レイラは口元に笑みを浮かべて言った。
意志の強そうな眼差しが、じっとこちらを見上げている。
俺が返事をしなくても話し続けるあたりが、クロエに少し似ている。そういえばこの女も公爵家の令嬢だったなと思う。
「ファイサル様のことは心配しなくて良いわ。ファイサル様は私の婚約者なのよ。だから、クロエさんに下心なんてないと思うわ。あったとしたら思い切り下腹部を蹴るしかないのだけど」
特に尋ねたわけでもないのに、良く喋る。
第二王子がこの女の婚約者だったとしても、クロエの体にその手が触れているのは不愉快だ。
嫉妬――と、心の中で女の言葉を反芻した。
どうやら俺は嫉妬深いらしい。
これはロジュやシリルに感じていた苛立ちと同じだ。なるほど、と、今更ながら納得した。
「問題はシェシフ様よ。……大きな声では言えないから、耳を貸してくれないかしら」
「……それは、重要な話か」
俺が尋ねると、レイラは手にしていた扇を広げた。
口元を扇で隠して、小さな声で「とても大切な話」と告げる。
――雑談から、情報を得られることもある。
そういえば、ロジュがそんなことを言っていたなと思い出す。
仕方なく姿勢を低くして、レイラの方へと顔を寄せた。
俺の耳元に唇を寄せて、レイラは顔半分を扇で隠すようにした。
「シェシフ様は女好きだと、さっき言ったでしょう? けれど、昔はそうではなかったの。ファイサル様の言うように、優しい方だったわ。それこそ、聖王宮に入り込んだ虫も哀れに思って逃がしてあげるような方だったの。それが、……いつからだったかしら、変わってしまったわ」
「理由があるのか」
「それを知りたいのはこちらの方よ。ファイサル様はシェシフ様を信じているから、何か理由がある筈だと言い張って、支えようとしているけれど、……私には今のシェシフ様が、とてもまともだとは思えないの」
「王が女好きというのは、良くある話だろう」
「そうかもしれないけれど……、でも、今のシェシフ様はラシード神聖国に興味がないように見えるの。淫蕩に耽って、現実から目を背けているように見えて仕方ないのよ。昔のあの方を知っているだけ、余計にね。皆、シェシフ様とシェシフ様に従っているファイサル様が怖くて何も言わないけれど」
「お前は婚約者だと言っていたな。お前の言葉なら聞くんじゃないのか、ファイサルは」
「何度か話し合ったわよ。何かがおかしいって。でも、ファイサル様は兄上を信じているの一点張りだもの。とても話にならないわ」
「それで……、結局何が言いたいんだ」
ファイサルの人格がどうであれ、クロエを渡すという選択肢はない。
レイラの話は理解できたが、結論までが長い。クロエの声ならどれほど聞いても飽きるということはないが、レイラの声音は耳につく。不愉快というほどでもないが、早く会話を終わらせたい。
話をしている間に楽隊の音楽が止み、クロエはファイサルによって聖王の元へと連れていかれていた。
「……最近では、異界研究者のサリム・イヴァンという男が、かなり権力を持っているようなの。妹姫のミンネ様の婚約者に選ばれたからだと思っていたのだけれど、どうにも、それだけではないのかもしれないという気がして」
「つまり、聖王はその男に操られていると?」
「それは分からないわ。シェシフ様は昔からとても優秀で、頭の良い方よ。だから、惑わされるようなことはないと、思うのだけれど……」
レイラはそこで言葉を区切って、そっと俺から離れる。
俺は低くしていた姿勢を戻して、大広間の檀上に立っているクロエに視線を向けた。
どうやら、花嫁として選ばれたらしい。
こちらを見もせずに、シェシフに促されて聖王宮の奥へと姿を消したクロエに、俺は舌打ちをついた。
嫌な予感は大抵当たるものだ。苛立ちが表情に出てしまったらしく、レイラが「怖いわ」と小さく呟いた。
「あの、阿呆が」
無意識のうちに吐き捨てるように、そう口に出していた。
ここに集まっている貴族や兵士たち程度なら、武器がなくてもどうにかなる。
クロエを追いかけようと一歩足を踏み出した俺の腕を、レイラが掴んだ。
「……待って。あまり目立つのはいけないわ。あなた、強いんでしょう。それに、クロエさんの恋人なのでしょう?」
「あぁ」
いちいち説明している時間が勿体ない。
俺の返事に、レイラは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうなのね。とても、良いわ。助けに行くのね?」
「聞かれるまでもない」
「窮地のお姫様を助ける王子様にしては、不愛想で怖いけれど。こちらから話しかけた手前、クロエさんを放っておけないわ。私が声をかけたせいで、余計に目立ってしまったのかもしれないし。……私と一緒なら、聖王宮の奥に入ることができるわ。その先は手伝えないけれど、ここで目立って兵士に追われるよりは、良いと思うの」
レイラの提案に、俺は邪魔だと言ってレイラの手を振り払いかけていた腕を止めた。
それもそうかと、頷く。
一刻も早くクロエの元へ行かなければ。
強がってはいるが、あれは特別強い女ではない。ごく普通の、どちらかといえば大人しい性格をしている。
恐ろしい思いをしているかもしれない。非道なことをされるかもしれないと考えると、シェシフへの殺意が沸きあがる。
「わかった。案内を頼む」
俺の返事に、レイラは「任せておいて」と力強く頷いた。




