選ばれし美少女クロエちゃん 2
大広間の檀上の奥にある扉を抜けた先には回廊があった。
白い柱の並ぶ回廊の両脇には、首のない白い羽をもつ女性の像がいくつか並んでいる。
プエルタ研究院にあったものと同じ像である。
アストリア王国の教会にある石像は羊を連れた男性の姿をしている。信仰の対象となる石像でも、随分と作りが違うものだ。
「突然のことで驚いただろう? コスタリオ伯爵には王家からの使者を送ろう。あなたは心配しなくて良い」
靴音が石造りの回廊に響く。
シェシフ様は優美に微笑んで言った。
私には拒否権はないようだ。シェシフ様はラシード神聖国で一番身分の高い方なのだし、それも仕方ないのだろう。
「あなたはいつ、コスタリオ伯爵の養女になったのかな? 私の耳にも入ってこないだなんて、随分と大切にされていたようだね」
シェシフ様が柔らかい口調で尋ねた。
「数年前に孤児院からもらい受けて頂いたばかりです。だから、私……、貴族のことや、挨拶やマナーも、きちんとできなくて……、どうして良いのかわからなくて」
私は、アリザちゃん。私は、アリザちゃん。
呪文のように幾度も頭の中で呟く。不安気に瞳を潤ませて、助けを求めるようにシェシフ様の手をぎゅっと握って、上目遣いでシェシフ様を見上げる。
「大丈夫だよ。私の傍にいてくれさえすればそれで良い。王妃の役割とは世継ぎを産むことだからね。それ以外のことは何も、求めるつもりはない。あなたはラシードの黒薔薇のように、可憐に無邪気に、聖王宮で咲き誇ってくれさえしたら、それで良い」
シェシフ様は優しく言った。
甘い毒のような言葉だと感じる。私を尊重しているように聞こえるけれど、――どうにも、小馬鹿にされているような気もするわね。
ジュリアスさんの言う「阿呆」という罵倒の方がずっと良い。
回廊を抜けた先の扉が、扉の前に立っている使用人たちによって開かれる。
それはいくつか並んだ扉の中で、一番大きな扉だった。私は来た道を頭の中で反芻する。
迷うほどの道ではなかったけれど、さっさと逃げる予定なのでなるたけ記憶しておいた方が良いだろう。
扉の先は、広い部屋だった。
絵画や背の高い壺、花が飾られた花瓶など、質は良いけれど少々華美な調度品が並んでいる。
石造りの床には複雑な紋様が手織りで作られた美しい大きな絨毯が敷かれている。
中央には大きなソファセットがある。赤い薔薇の柄が目を引くソファと、猫足の低いテーブル。
テーブルの枠や足には、金箔がはられていて、目に眩しい。
テーブルだけでも五百万ゴールドは下らないだろう。
この部屋にあるものを全部売ったら、総額五千万ゴールドにはなるかしら。なりそうだわ。
お金っていうのはあるところにはあるのよね。聖王宮なのだから、豪華なのは当たり前なんでしょうけど。
シェシフ様に促されて、私はソファに腰を降ろした。
隣に座るシェシフ様の距離が近い。両手を握りしめて顔を近づけてくるので、私は若干背中を逸らせてなるだけ離れた。
「初々しいことだね、クロエ。口づけもしたことがない?」
近づいてくる美麗な顔から視線を逸らした私に怒る様子もなく、シェシフ様は楽し気に言った。
「……ありません」
嘘です、あります。
でも馬鹿正直に言うことではないので、私は首を振る。
「愛らしいね。これは、ピンクゴールドというのかな。輝く髪も、潤んだ瞳も優しい色合いだね。まるで、慈愛に満ちた天使のようだ」
「シェシフ様は、天使を見たことがあるんですか?」
私は無邪気なふりをして尋ねた。
「あるよ」
あっさり頷かれたので、吃驚してシェシフ様を見つめる。
「凄い! 私、天使とはおとぎ話に出てくる存在とばかり思っていました」
どこで、見たのかしら。
アリザはメフィストのことを天使だと言っていた。美しい姿で四枚の羽を持っていたから、そう思い込んでしまったのだろう。
シェシフ様も、もしかしたら――悪魔を天使と勘違いしているのかもしれない。
「今、見ている。クロエ、あなたは天使だ。異界の門から落ちて、私の元へ来てくれたんだろう?」
私の首に手が回される。
思いのほか強い力で引き寄せられて、耳元で囁かれた。
背筋が粟立つ。もう笑顔を取り繕うことができそうにない。私は口元を引きつらせる。
「さぁ、私のものになりなさい。あなたが美しく咲いている限り、私はあなたを愛してあげよう。私の言うことを聞いて」
もう片方の手が、私の唇を撫でる。
気持ちが悪い。最低な気分だ。さっさとシェシフ様の腹を蹴り上げて、この部屋から逃げよう。
シェシフ様、弱そうだし。私一人でもなんとかなりそう。
「シェシフ様、……永久に美しくいることなんてできません。そのうち花は枯れて、花弁が落ちます。それは、生きていれば当たり前のこと」
私は近づいてくる唇から逃れるために、会話を長引かせることにした。
いくつになっても美しい人は美しいだろうけれど、その美しさは変化するものだと思う。
永遠に同じ姿で生きることなどできない。それは最早ひとではない別の何かだ。
「人は老いるからね」
シェシフ様はつまらなそうに言った。
「シェシフ様の言葉は、女性が美しくなくなれば、愛も枯れ果てるという意味に聞こえます」
「私は美しいものにしか興味がないんだよ、クロエ。そのうち、世界は変わる。変革を迎えるだろう。老いや死から解放されて、永久に美しいまま生きることができるようになる。天使のようにね」
「……世界が、変わる?」
「そう。あなたは知っているだろう? 邪魔をしてはいけないよ、クロエ・セイグリット。大人しく私のものになり、聖王宮で心穏やかに過ごすと良い。私があなたの安寧を守ろう。外界の雑音から耳を塞いでいれば、幸せでいることができる。やがて世界が変わり、あなたはこの国の――女神となるだろう」
「意味が分かりません。離してください!」
あぁ、知られていたのね。
でも、どうして。
知られている以上、取り繕う必要はない。私はシェシフ様の腕の中から逃れようと暴れた。
シェシフ様は私の両手を強く掴んだ。
ソファに叩きつけるようにして押し倒される。弱そうなのに、力は強い。やはり、男性なのだ。
私は奥歯を噛んだ。シェシフ様の背後に――いつか王都の路地裏に捨てられたときに見た、青空が広がっているようだ。
怯えてる場合じゃない。過去の記憶に浸っていても、何も解決しない。
眉をひそめて、思い切り息を吸い込む。
「触らないで。美少女錬金術師クロエちゃんは高いんですよ! 具体的に言うと、一回触ると五千万ゴールドです。シェシフ様はお金持ちだから、きっちり払ってくださいね!」
大丈夫、大きな声が出たわ。
どうでも良い内容の啖呵を切ってしまったけれど、声が出ることが確認できればそれで良い。
「面白いね、クロエ。先程までのあなたよりも、今のあなたの方が余程魅力的だ」
「抵抗されると興奮しちゃうタイプですか? 全く、偉い人は皆大抵歪んでますね! いいからさっさと離してください。シェシフ様は悪魔が誰なのか、理解して従っていますね。ラシード神聖国を危険に晒すつもりですか?」
「老いも死もない幸せな国。――理想の世界だよ。それを与えてくれるというのなら、天使だろうと悪魔だろうとどうでも良いことだ。彼らは、異界に住む不死の存在。彼らは私たちに、叡智を与えてくれる。使えるものは、使う。それだけの話だよ」
「アストリア王国に悪魔によって魔物の軍勢が現れて、人がたくさん死にました。それでも、悪魔は叡智を与えてくれると思うんですか?」
「無力なものは死ぬ。戦争でも人は死ぬし、病気でも死ぬ。死は平等ではないけれど、死の前に人は平等だよ。理由が少し違うだけ。だから、いちいち悲しむ必要はないし、怒る必要もない。どのみち、不死の世界が訪れたら、死という概念自体が消えてなくなるのだから」
「……悪魔が誰なのか教えてください。シェシフ様は操られているんですよ」
「私はいつだって正気だよ。自分ではそう思っているけれど、もしかしたら、そうは見えないのかもしれないね」
シェシフ様は喉の奥で嗤った。
シェシフ様自身に悪魔が憑いているようには思えない。だとしたら、甘言に惑わされているのだろうか。
不死や永遠の若さ。そんなものを理想とするだなんて――考えても、良くわからない。
「……どうして、私がクロエ・セイグリットだと知っているんですか?」
「あぁ。私の可憐な花の一人が教えてくれてね。最近、アストリア王国から逃げてきたばかりだから、王国の事情に詳しくて。あなたがラシードの貴族のふりをして紛れ込んでいると、教えてくれた。これは、運命なのかな。あなたが私の元へ来ること。私のものになることも、全て」
「運命なんて信じません。お母様も良く言っていました、未来は何も決まっていないんですよ」
両手が使えないのなら、足を使えば良い。
幸いなことに私は今、かなり尖ったヒールの靴を履いている。
私は覆いかぶさっているシェシフ様の腹にむかい膝を折り曲げる。
あんまり体術が得意じゃない私だけれど、これでも結構沢山の魔物を討伐して素材を集めてきたのだ。
ただの貴族令嬢だと思ったら大間違いなのよ。
人間に暴力をふるったことはないけれど、シェシフ様は別だ。抵抗する女性を無理やり組み敷く男は女の敵なので、思う存分蹴って良い。
私は――路地裏で私を襲った兵士たちや、破落戸たちに抵抗できなかった恨みを全て込めて、シェシフ様の腹部を蹴り上げた。
「……お前……っ」
女性に暴力的な抵抗などされたことが一度もないのだろう。
シェシフ様は苦し気に呻いて、腹部をおさえるとソファからずるりと転がり落ちた。
私はさっさと立ち上がり、扉の方へと向かう。
ヒールの靴は走りにくくて仕方がないし、シェシフ様を蹴り飛ばしたときに片方のヒールが折れてしまったので脱ぎ捨てることにした。
私が扉に手をかけて開くと同時に、扉も外側から開かれる。
そこに立っていたのは、それはそれは不機嫌そうな、恐ろしい表情を浮かべたジュリアスさんだった。
あまりの恐ろしさに悲鳴を上げそうになった口を、私はおさえた。
助けに来てくれたのだと思うのに、悲鳴をあげるとか失礼すぎると思ったからだ。




