新しい朝、続く日々 3
私は柔らかくて少しかさついているジュリアスさんの唇が触れた自分の唇を隠す様にして、手で押さえる。
今の、今のは、――キス、よね。
呼吸が、うまくできない。心臓が破裂してしまいそうなぐらいにうるさい。
顔が熱くて、零れていた涙がぴたりと止まった。
「早く食え。それとも、食わせてやろうか?」
「じ、自分で食べます……、じゃなくて、ジュリアスさん、何で……」
「何か問題があるのか」
「問題、ありますよ。今のは、恋人とかが、するやつで……、ジュリアスさんは、その、あの、慣れてるかもしれませんけど、揶揄ってますか……」
私はスプーンでスープ皿の中の豆のスープをぐるぐるとかきまわした。
早く食べろと言われたから食べないと。
真っ赤になりながら、せめてスープだけでもと、もぐもぐ食べだした私。
なんでこのタイミングでご飯を食べ始めちゃったのかしら。
あぁもう、何をしているんだろう。
「こういう感情は、慣れない。どう、言って良いかよく分からないが、……俺はお前に、触れたいと思う。クロエ、……お前だけが、十五で皇国の奴隷になった時から獣になり下がった俺を、人間に戻してくれる。俺は、お前しか要らない」
ジュリアスさんは、ご飯を食べる私をいつものようにじっと見つめながら言った。
青い色と赤い色の瞳は、いつも真っ直ぐに私を見ている。
良く晴れた青空のような、地平線に落ちる夕日のような、どこまでも広がる空を想起させる色を、私はちらりと見返して、すぐに視線をテーブルに落とす。
今何か、物凄い事を言われたような気がする。
単純な愛の言葉よりもずっと深くて重くて、全身が熱を持ったように体温が一気に上がった。
「……っ、……そういうのが、ずるいんですよ」
私はスプーンを置いた。
ごっくんと、口の中のスープを飲み込んで、空になったスープ皿と、数口だけ齧ったパンを見つめる。
お腹が物凄く空いていたので沢山作ってしまったけれど、胃が大きくなったと言う訳じゃない。
お魚はジュリアスさんの分だけにしておいて良かった。案の定食べることができなかった。
グラスに入った赤ワインを一口だけ飲む。
夢見が悪くて眠れなくなってしまった時にたまに飲むために買っておいてあるものだけれど、最近は飲むことがなくなっていたので、随分と久しぶりだ。
喉がやけつくようにあつくなる。上昇していた体温が更にあがった気がした。
体があつい。お腹がいっぱいになったせいもあるのか、怠さを感じた。
ジュリアスさんは私の残した分のパンをさっさと食べてしまって、グラスのワインを私の分まで飲み干した。よく食べるし、よく飲むわね。筋肉質だけれど細いのに。
奴隷闘技場からここに来てもらったばかりのころは、細すぎるほどに細かったから、それに比べたら肉付きは良くなってきているのだろうけれど。
それでも余計な肉はついていない体つきをしている。
良く動く口と、食べ物を飲み込むたびに上下する私とは違う形をした浮き出た喉を、私はぼんやりと見ていた。
ジュリアスさんは食事を終えると、椅子から立ち上がる。
食器の片づけをしなきゃと思い私も立ったところで、ジュリアスさんに腕を引かれた。
「ジュリアスさん……?」
きつく、抱き寄せられる。
布ごしに感じるしっかりとした体躯と、私よりも少し低い体温。
胸にくっつけた耳元に、鼓動の音が響く。心臓が動いているということは生きているということ。
ジュリアスさんが生きていて、私と一緒に居てくれる。
生まれた場所も境遇も違うのに。
――まるで、奇跡みたいだ。
「クロエ。……無事で、良かった。俺から離れるな。手が届く場所に居ろ」
「はい……、ジュリアスさんも、……どこかに行かないでくださいね」
「あぁ。勝手に消えたりはしない」
腕の中に閉じ込めるように私を抱きしめてくれるジュリアスさんの体からは、私が使っているものと同じ石鹸の良い香りがした。
私は遠慮がちに、ジュリアスさんの体に手を回す。
大切なものができてしまえば、失う事を考えてしまう。
それはすごく怖い事だけれど――ジュリアスさんなら大丈夫だと、思う事が出来る。
「ジュリアスさん、好き、大好きです。助けてくれて、沢山守ってくれて、……私、強がりばかり言って、酷い事、したのに。……異界に落ちたお父様を、……救ってくれて、ありがとうございます。私一人だったら、きっとどうにもならなかった」
「……忘れろ。あれはお前を苦しめることだけが目的の、悪意に満ちたものだった。クロエ、お前に降りかかる苦しみは、全て俺が代わる。だから、――いつか必ず、あの悪魔は、俺が殺す」
「私も、……私も、……悪魔が嫌いです。残酷で最低で、大嫌い。だから、私も戦います」
「あぁ、そうだな。……やることが増えたな、クロエ。金を稼いで家を買って、ヘリオスに嫁を迎えて、悪魔退治、か」
どことなく楽し気に、ジュリアスさんが言った。
異界の悪魔は恐ろしくて、――気になることも、いくつかあるけれど、まるで気負っていないその声を聞いていると、私は何でもできる気がした。
私はジュリアスさんの胸に、甘えるように頬を擦り寄せる。
恥ずかしさもあるけれど、安心感の方が強い。
「はい。明日から忙しいですよ、今日も忙しかったですけど。ジュリアスさんの奴隷の刻印も、消す方法を調べたいですし。首輪も、外しましょう? 私、ジュリアスさんを信用していますから、もう要らないですよね」
「首輪は、良い。……制約が為されてから、お前が嫌がることを考えるようになった。シリルを助けたのも、アリザを殺さなかったのも、首輪があったからだ。……俺は、俺が信用できない。首輪があれば、多少の衝動を抑えることができる」
「……分かりました。でも、いつでも、外したくなったら言ってくださいね」
ジュリアスさんの気持が、私には少し理解できるような気がした。
残酷で冷酷な黒太子ジュリアス。
それが本来のジュリアスさんの姿だとは思わないけれど、過去も記憶も消えたりしない。
私が気が弱くて無力なクロエ・セイグリットだったように。
美少女錬金術師クロエちゃんだと、自分に何度も言い聞かせているように、ジュリアスさんにも何かが、必要なのかもしれない。
ジュリアスさんは強いけれど、私よりも少し年上なだけの、――人間なのだから。
「クロエ、そろそろ黙れ」
紳士的とは程遠い言葉とは真逆の、やや甘さのある声が、耳に響く。
私は口を閉じた。
少し体が離される。視界が金色にぼやけて私は目を伏せた。
いつか、王子様が現れるとお母様は言っていたわね。
口は悪いし横暴で、変わっているひとだけれど――、私はジュリアスさんが好き。
だから、きっと大丈夫。
悲しみも苦しみも、どんなことでも、乗り越えて生きていける。




