新しい朝、続く日々 2
お風呂から出た私は、とある決意を固めていた。
ジュリアスさんが私のベッドでまだ眠っていることを確認して、寝衣に使っているすとんとした足元までを隠すクリーム色のワンピースに着替えて、汚れないようにエプロンをつける。
気合を入れて保存していた食料を全部使って食事を作って、テーブルへと並べた。
といっても、あまりいつもと変わりないのだけれど。
豆のスープと、加工肉と焼いた卵とチーズ、野菜を挟んだパン。干し魚と野菜を多めの油で煮込んで香草で味付けしたもの。グラスを出してきて、赤ワインのボトルも並べた。
お気に入りの葡萄とフクロウの形を模した練金ランプにあかりを灯すと、かつて過ごした豪奢な貴族の晩餐会、とまではいかないまでもそれなりに様になるような気がした。
あとはドレスでも着ることができれば良いのだけれど、今の私には似合わないだろうし、不必要なものだ。
髪だって一つに結ぶのが精一杯の長さで、結いあげられるほど長くはないのだし。
ジュリアスさんを呼びに行こうとしたら、珍しく自分から起きてきて顔を出してくれた。
食事の香りにつられて目が覚めたらしい。よほどお腹が減っているのだろう。朝から何も食べずにずっと動いていたのだから、私も空腹だった。
「ごはん、できましたよ。本日初めてのお食事が、いろいろありすぎたせいで夕食になっちゃいましたね」
「あぁ……、悪いな。お前も休みたかったんじゃないのか」
ジュリアスさんが謝った挙句私に気を遣っているようなことを言っている。
私は内心動揺しながら、首を振った。
いつもなら「ジュリアスさんが優しいとか、明日は豪雨でしょうか」などと言って茶化してしまうのだけれど、今それをするのは間違っている気がした。
「私なら大丈夫ですよ。怪我もほとんどしませんでしたし、動いていた方が気が紛れますし」
二人がけの木製のテーブルの正面にジュリアスさんが座る。
私はグラスにワインを注いであげた。
窓際の飾り棚に置いた錬金ランプの橙色の灯が、ジュリアスさんの姿を照らしている。
窓の外はすっかり夜になっていた。薄暗い室内の四隅には闇が溜まっていて、身動ぐたびに壁や天井に伸びる影が揺れる。
私もジュリアスさんの正面に座った。
少し迷ってから、自分のグラスにもワインを注ぐ。たまには飲んでも良いかと思う。
ーーこんな日、なのだし。
「今日はたくさん迷惑をかけちゃいましたし……、心置きなく食べたり飲んだりしてくださいね。明日になったらまた、色々大変そうですし」
「そうだな。事情を聞き出すために、城に呼び出される可能性はある。今度は、余計な気を回して俺から離れようとするな」
釘を刺すようにジュリアスさんに言われて、私は目の前のお皿の中に注がれた赤いスープに視線を落とした。
ジュリアスさんは美しい所作で、それでもものすごい速さでスープを食べてしまい、お魚を煮込んだものに取り掛かっている。それもあっという間にお皿の中から姿を消していった。
私も豆のスープを一口、スプーンですくって口に入れた。
トマトの酸味と、豆のまったりとした甘さが口の中に広がる。あたたかい液体が喉を流れていくのを感じて、ふと息を吐き出した。
言わなきゃ、駄目よね。
もう、決めたのだから。
「……ジュリアスさん、私、考えていたのですけれど」
「どうせろくなことじゃないだろう。お前は余計なことを考えなくて良い」
「き、聞く前から決めつけないでくださいよ。大切なことなんですからね……!」
あっさり私の言葉を否定しながら、ジュリアスさんは具材が挟まっているパンを口に入れる。
所作は綺麗なのに、一口が大きくて食べるのが早い。
戦場ではゆっくりご飯を食べている暇なんてなかったでしょうから、そういう癖がついてしまったのかもしれない。
私はまだ少ししか食べてないのに。
そういえば、ジュリアスさんは私の食べる速さについて文句を言ったことが一度もないわね。
遅いとか、早くしろ、とか言いそうなのに。
大抵の場合は先に食べ終わってしまうから、食後の紅茶などを飲みながらのろのろとご飯を食べる私を見ていることが殆どだ。最初は見られていることが気になったけれど、もう慣れてしまった。
多分他にやることがないから私を見ているんだと思う。視線に深い理由はないのだと思うと、あまり気にならなくなった。
「あの……、私、……何も知らなかったんです。アリザちゃんが苦しんでいたことも、お父様が私を守ろうとしてくれていたことも、アリザちゃんに……、悪魔、というものが憑いていたことも」
「お前の妹は死んで楽になっただろう。一方的に、世界を恨んでいた。……身に馴染んだ感情だ。理解はできる」
ジュリアスさんは、静かな声音で言った。
伏し目がちな瞼に並ぶ金色の睫毛が、頬に影を作っている。
悲しみも、後悔も、何もない。事実を事実として口に出しているような平静な声に、胸が苦しくなる。
「ジュリアスさんも、アリザちゃんと同じ、ですか……?」
守るべき価値のある人間なんてこの世界にいるのかと、いつか言っていたジュリアスさん。
こんな国、どうなっても良いとアリザは言っていた。
アリザのことを死んで楽になったというのなら、ジュリアスさんもーー
「お前に買われる前は。……死にたいとも、生きたいとも思わなかった。俺を殺せる人間がいなかったから、怠惰に生きていた。それだけだ。……だが、お前を見ていると、……死ぬ気は失せたな」
ジュリアスさんは食事の手を止めて、ゆっくりと、自分の感情をひとつひとつ確認するように言った。
「そうですよ。ジュリアスさんには大切なヘリオス君がいるじゃないですか。お父さんなんでしょう? だとしたら、死んだら駄目です」
私は安堵して、目尻に溜まった涙を指で拭った。
これは我儘かもしれないけれど、私はジュリアスさんに生きていて欲しい。
そしてできれば、アリザも助けたかった。
事実がどうであれ、私のことをアリザは半分血の繋がった実の姉だと信じていた。
お姉様なんて大嫌いだと絶叫していたアリザの言葉は、助けて、と必死に手を伸ばしているようにも聞こえたのに。
「ジュリアスさん、首の魔法錠、外しましょう。私はもうジュリアスさんを奴隷だなんて思っていませんし、制約をかけて、自由を奪うのは嫌なんです」
声が震えないように注意しながら、私は伝えた。
少し前から考えていたことだ。
ジュリアスさんは無闇に人の命を奪うような人じゃない。戦争に従軍していた兵士の一人だったというだけだ。
だから制約は必要ない。私の命令にだって、従う必要はない。
高価な買い物だったけれど、ジュリアスさんはもう十分、払ったお金分の働きはしてくれた。
だからもう、自由になってほしい。
私の問題に、巻き込まれる必要なんてない。
「……それで? 制約を失くして、どこでも好きな場所へ行けとでも言うつもりか?」
ジュリアスさんの声に苛立ちが混じる。
私を睨みつける瞳を見返すことができない。
「ディスティアナ皇国に、ジュリアスさんを待っている人がいるかもしれないですし。……空は、誰のものでもありませんよね。ジュリアスさんにはヘリオス君がいて、自由に空を飛んでいるのが、似合います」
なんとかそれだけを言った。
喉の奥に言葉がつかえてしまい、うまく話すことができない。
これで良いのだと、正しいのだと自分を納得させるけれど、心の奥底では嫌だと駄々を捏ねている子供みたいな私が、どうしてそんなことを言ったのかと自分自身を怒っている。
「クロエ。首輪にかけた制約は、今はもう一つきりだ。お前の嫌がることをしない。それだけなんだから、外さなくても問題はないだろう。これは記念に貰っておく。……お前が許可するのなら、俺はディスティアナ皇国に帰る。やり残したことがあるからな」
苛立っているように見えたジュリアスさんは、黒い首輪の先端についた金色の小さな南京錠を指先で弄びながら言った。
「……はい」
これで良かったのよね。
美味しそうに見えたテーブルのお料理が、全て味気のないものに見えてしまい、空腹なはずなのに食欲がまるで湧かなかった。
「……お前の嫌がることはしない。魔法錠の制約だな。俺が今すぐにここから立ち去ることを嫌だとお前が思っているのなら、俺の体には激しい苦痛が齎されることになるが、良いか?」
人の悪い笑みを浮かべながら、ジュリアスさんが言う。
私は魔法錠と、ジュリアスさんの顔を見比べた。
そんなの、嫌に決まってるじゃない。
魔法錠を外さないと言ったジュリアスさんに嵌められたことに気づいた私は、両手で顔を隠した。
駄目だわ。このままじゃ、また泣いてしまう。
「ずるいですよ。ずるくないですか、それ。魔法錠、はずさせてくださいよ……!」
「だから余計なことを考えるなと言ったんだ、阿呆。皇国には俺を待っている者など誰もいない。やるべきことなど何もない。お前のいない自由を手に入れても、目的もなく彷徨って誰もいない場所で野垂れ死ぬのが精々だ」
「どうしてそういうこと言うんですか。それじゃあまるで、ジュリアスさんには私がいないと駄目みたいで、……私、私は」
私はーー、そう、よね。
どうして臆病になっていたのかしら。城に幽閉された時は、もう一度会えたら伝えようと思っていたのに。
巻き込みたくないから。危険だから。ーー傷ついて欲しくないから。
それも、これも、全部。
「ジュリアスさんが、好き、なんですよ」
「クロエ」
ジュリアスさんはいつも通りの平坦な声で私の名前を呼んだ。
せっかく告白したのに。頑張ったのに。
やっぱり、私のことなんてどうとも思っていないのよね。ジュリアスさんをお金で買ったご主人様、ぐらいの認識はあるかもしれないけれど。
「皮肉ばっかり言うし、私のことを阿呆とか馬鹿とか言うし、愛想はないし、横暴ですけど……、時々優しくするの、ずるいです。好き、です。……だから、私の近くにいると危ない目に遭うかもしれないから、自由になって欲しかったのに」
想いを告げてしまえば、後から後から感情が溢れてくる。
切なくて、苦しくて、胸がいっぱいになる。
馬鹿みたいに涙が溢れて、拭っても拭っても手のひらを濡らした。
小さな子供に戻ってしまったみたいだ。
「忘れてください、今の。迷惑ですよね。ごめんなさ……」
がたりと、ジュリアスさんが椅子から立ち上がる。
テーブルの上に身を乗り出すようにしてジュリアスさんの顔が私に近づく。
ほんの少しだけ唇が触れ合った。




