天使、来りて 1
美しかった聳え立つ白亜の城は人の体が積み重なって出来た巨大な白い彫刻のようなものに姿を変えている。
髪のない人間の苦痛に満ちた顔が、手や足や胴体に押しつぶされるようにして、瞳だけをぎょろつかせて一斉にヘリオス君と共にアリザの元に向かう私とジュリアスさんを見上げた。
「不気味で悪趣味で最低ですね……! どうして異界からくる魔物ってこう気味の悪い形をしているんでしょうか」
「異界とは死者の国、魔物とは亡者の慣れの果てと言ったな。人間なんてそもそもが醜悪で不気味な存在だ。一皮むけば肉と骨と臓物が詰まっている。腐った死体に比べれば、あんなものはまだましだろう」
「どうしてそういう事言うんですか、ただでさえずうっと気持ち悪いの我慢してるんですからね私は! 綺麗なお花とかが好きなうら若き乙女なんですよ、私」
「お前が好きなのは金じゃないのか」
「まぁ、そうですけど」
ジュリアスさんとの会話に緊張感がないせいか、気が紛れて吐き気も眩暈もだいぶ落ち着いてきたような気がする。
住み慣れた王都の風景も、空から見るところどころに亀裂が走り、黒い何かが蠢いているのが分かる。
中央の円形の場所が私の店のある噴水広場だ。その上には大きな穴があいているように見えた。
おそらくあれが異界の門なのだろう。
ロジュさんは、皆は無事だろうか。
早くアリザの体に巣くっている天使とやらを何とかしないと。
巨大なオブジェと化した王城の一番上に、幾重にも重なり開いた手で出来ている台座がある。
その上にアリザは立って、空を、私達を見上げている。
大きく伸びた影にはやはり鋭い角と羽がある。あのような形状の魔物を私は知らない。
影は人の形に見えた。魔物とは、人型をしていない。人に近い形をしているものの、ぐちゃぐちゃに崩して適当にはりつけたような、気味の悪いものが殆どだからだ。
アリザの姿が目視できたあたりで、ヘリオス君が突然降下をやめてぐるりとアリザの真上を回旋しはじめる。
良くは見えないが、何か見えない壁のようなものがアリザの周囲に張り巡らされているようだ。
「……近づけないな。飛び降りるぞ。結界を破り、中に降りる」
ジュリアスさんは旋回をするヘリオス君の上で立ち上がろうとする。
アリザの立っている場所とヘリオス君の飛ぶ空とでは二階建ての屋根の上ぐらいの距離があるのだけれど、降りられる気がまるでしないわ。
私は魔法がちょっと使える程度の天才錬金術師なので、肉体労働はあまり得意じゃないのよね。
「飛び降りますか、この距離で……! 良いですけど、頑張りますけど、私はジュリアスさんと違って普通の人間なので、そのあたりを考慮して頂けるとありがたいんですが……!」
「防護壁を破れるだろう、お前なら。あとは掴まってろ」
「絶対的な信頼ありがとうございます! 私別に大魔導士とかじゃないんですけど、頑張りますね!」
結界を破る、結界を破る。
そんな高度な魔法が使えるかしら。
私はごそごそと布鞄を漁った。
こんなこともあろうかと、準備しておいたのがこちらです~!
などと心の中で呟いてみる。
ジュリアスさんが適当に突っ込んできたせいで布鞄の中がごちゃついていて気持ち悪い。無限収納トランクと繋がっている無限収納鞄はきちんと整理整頓されているので、必要な錬金物をすぐにみつけられるのに。
「……あった! やってみましょう! なんとかなるかもしれません!」
そうこうしているうちにもアリザの周囲に巡る結界のようなものから、黄色く丸い球体がいくつも立ち昇ってきて、ヘリオス君に向かって光線をまき散らしている。
ヘリオス君は素早くそれを避けているが、永遠にというわけにはいかないだろう。
「封魔の印! 魔力封印!」
私は布鞄から『封』と書いてある判子を取り出した。
これは別に魔力封印と、印鑑の印をかけたとかそういうわけではない。偶然です。
金色の小さな印鑑は結界に向かって投げると、両手を広げたぐらいの大きさへと姿を変えた。
結界に、『封』という文字がぺたりと押される。
そこからひずみが出来て、卵の殻が割れるようにして人一人通れるぐらいの穴が開いた。
封魔の印よりもアリザの魔力の方が強いのだろう。全て封じるまでには至らなかったが、ジュリアスさんは十分だとばかりに私を肩に担ぎ上げるようにしてヘリオス君の背中の上で立ち上がった。
「クロエ。連れていくぞ」
「はい! 私も戦えますので!」
ジュリアスさんに信用されているのは嬉しい。
荷物みたいに担ぎ上げられているのが情けないので、少しだけでも良いから空を滑空できる錬金物を作りたいところだわ。私も格好良く、高いところから地面へと降り立ってみたい。
ジュリアスさんは迷わずヘリオス君の背中から飛び降りた。
落ちていく感覚に息を呑む。城の塔から落ちた時の感覚と同じだけれど、まるで違う。私は死ぬつもりはない。天使様とやらを倒し、みんなを守って、シリル様が失ってしまった手もできれば作ってあげたいし、――できることなら、アリザも助けたい。
路地裏に捨てられたときに私が味わった恐ろしさを、多分アリザはずっと、抱えて生きているのだから。
結界の隙間を抜けて、私達は巨大な手の台座の上へと降り立った。
すとん、と軽々と着地したジュリアスさんは私を床へと降ろした。今回は投げ捨てられなかったわ。良かった。
アリザは無防備な様子で、剣を抜いて構えるジュリアスさんを見て愛らしく微笑んだ。
「あの飛竜は話をするのに邪魔だから、二人だけを招待してあげたのよ。お帰りなさいお姉様、はじめまして、黒太子ジュリアス・クラフト様」
スカートの裾を抓んで、アリザは貴族の礼をした。
こんな状況でなければ、とても優雅な仕草に見えただろう。私はロバートさんから貰ったお高い魔力増幅の杖をアリザに向ける。
「アリザ、いい加減になさい! あなたが辛い思いをしたことは分かりましたが、国に住むひとたちを苦しめて良い理由にはなりません!」
「だって、誰も助けてくれなかったもの。私を助けてくれたのは、天使様だけだったもの。だから、こんな国、どうなっても良いのよ。異界からの軍勢で溢れて、世界は楽園になるの。アストリア王国を楽園に変えたら、他の国にも軍勢を送るわ。全てを楽園に変えてあげるの」
「他の国を?」
ジュリアスさんが訝し気に尋ねた。
アリザは嬉しそうに微笑んで頷く。
「そう。ジュリアス様のディスティアナ皇国も楽園にしてあげるわ。生も死も無い、楽園よ。死ぬことを憂う必要はないし、死んでしまったことを嘆く必要もない、楽園。どう? 天使様の考えは素晴らしいでしょう?」
「くだらないな。死ねば終わりだ。その先は必要ない。だから嘆く必要もない」
「そうかしら。まぁ、良いわ。お姉様たちは邪魔だから、ここで死んでしまうもの。……先にジュリアス様を殺してあげましょう。私の操り人形になったジュリアス様が、私に愛を囁くの。さぞお姉様は悲しむでしょうね。楽しみだわ。お姉様の絶望した顔を、私と同じ絶望を味わった顔を、私に見せて。善人の仮面を脱ぎ捨てて、私を憎んで、憎悪するお姉様が私は見たいのよ」
ジュリアスさんの舌打ちが聞こえた。
私はアリザが怒りそうな言葉を選んで、大声で伝える。
「アリザちゃん……、私はアリザちゃんを助けます。天使様を倒してあげますから、待っていてください」
「馬鹿な事を言わないで! 物分かりの良いふりをして、良い人ぶって、へらへら笑って。王都の連中なんて、お姉様に石を投げつけた冷酷なやつらばかりじゃない。それなのに守ろうだなんて。本当に、反吐が出るわ。お姉様なんて大嫌いだわ!」
「ジュリアスさん、殺さないでくださいね!」
「お前が望むなら我慢してやる」
私は魔力増幅の杖をジュリアスさんの剣へと向けた。
「熾天使セラフィム、聖なる福音を授けよ、全てを打ち払う光をここに!」
杖から放たれた神聖な輝きが、ジュリアスさんの黒い剣の刀身を白色へと変える。
アリザの周囲に黒い蛇が何匹も現れる。ジュリアスさんは全ての蛇を切り伏せながら、アリザの元へと駆ける。
私も破邪魔法を使い、ジュリアスさんを飲み込もうとする蛇を数体消し去った。
圧倒的だった。
ジュリアスさんは強く、アリザは天使の力はあるけれど戦い慣れているわけじゃない。
一瞬のうちに蛇は消え失せて、ジュリアスさんの剣の切っ先がぴたりとアリザの首元へあてられた。
「……弱いな」
小さな呟きと共に、剣の柄の部分でジュリアスさんはアリザの首筋をとん、と叩いた。
それだけで、脳震盪でも起こしたようにアリザの体がふらつく。
倒れ込むアリザの体を抱えようとしたジュリアスさんは、考え直したように一歩後ろへと飛びのいた。
「アリザ……!」
私は悲鳴を上げる。
アリザの腹から人の手が生えている。
尖った爪。長い指。赤い血に塗れた手は、アリザの背後に伸びていた黒い影のなかから突き出ていた。
ぐらりと、アリザの体が揺れる。
糸の切れた人形のように、地面へと倒れるアリザの背後に、二本の角と黒い四枚の翼を持つ男が立っていた。
男は倒れたアリザを徐に蹴る。細い体は転がって、手の形をした台座の端へとぶつかった。腕や足が奇妙な方向に曲がっている。駆け寄ろうとした私を「動くな、クロエ」とジュリアスさんの厳しい声が制した。
「……お前が、天使か」
ジュリアスさんが問う。
黒く長い髪に、頭の両脇から角の生えた男だった。青白いぐらいに色の白い肌に、紫色の瞳をした美しい姿をしている。
背中には鳥の羽に似た四枚の羽が生えて、大きく広がっている。
男は血に塗れた指先をぺろりと舐めとった。
「……はじめまして、セレスティアの子供。それから、ただの、人間の男」
男は執事のような燕尾服に身を包んでいる。中低音の良く通る声が、気安く私のお母様の名前を呼んだ。
「アリザちゃんを、どうして……!」
アリザの天使様だったのに。
少なくともアリザは天使様を信じていた。それがどんなに醜悪なものであっても、アリザの唯一頼る事のできるものだった。
それなのに。
「どうして……、飽きたからだよ。いささか退屈になってしまった。この国の王妃になるまでは見ていられたけれど、それからはどうにも、楽しくない。所詮は、か弱い人間の女だよね。折角私の力を貸してあげたのに、そこの男にあっさり負けてしまったから、もう要らないなと思って」
男は自分の喉に手を当てると「あー」とか「うん」とか小さな声で繰り返した。
「人と話すのは久しぶりだけれど、私の言葉はきちんと聞こえている? 人の言葉は、これで良かったのかな。理解はできる? 教えて、クロエ」
「あなたは、誰なんですか……?」
私の方を見て、男は話す。
久々に会った友人みたいな、気安い話し方だった。
「私? ……私の名前は、メフィスト。異界に住んでいる、天使だよ」
男は綺麗に微笑んで言った。
それは確かに天使と言われても信じてしまうぐらいの美しい姿だった。
けれどその身からあふれ出るあまりにも残酷で邪悪な魔力に、私は奥歯を噛み締めた。




