闇よりいづるもの 4
出来る事ならずっと抱きしめていて貰いたかったけれど、私はジュリアスさんの胸にくっつけていた顔をあげた。
ジュリアスさんの顔を見て安心したからか、先程よりもまともに考えることができる。
私は状況を整理するため、口を開いた。
「ジュリアスさん、アリザちゃんが……、私の妹が、異界の門から湧いて出てきた怖いものに操られているみたいなんです」
アリザが異界の門から出てきた天使様と出会ったのは、私がシリル様と婚約したあとで、私のお母様が亡くなる前。
おそらく十歳前後の事だったのだろう。
まだ幼い子供だ。
貧民街で辛く苦しい生活を送っていたアリザが幸せをもとめて縋りついたものが、たまたま邪悪な天使様だった。
どこまでアリザの意思なのかは分からないけれど、操られていると、思いたい。
「王国に異界の門を沢山開いたのはアリザの天使様で、門から天使の軍勢がやってくるって。王国を、楽園に変えると言っていました」
「……お前が連れていかれた後、そこら中に異界の門が現れた。王国のどこかの森に強制的に移動させられた俺がヘリオスを呼んで王都に戻ると、ロジュが手が足りないと大騒ぎをしていた」
「王都の人たちは大丈夫なんですか?」
焦る私とは逆に、ジュリアスさんは落ち着いた声音で続ける。
「騎士団と傭兵団が連携して、各地の門を潰しているらしい。王都のお前の店のある広場の噴水の上にも巨大な門と魔物の群れが。戦える者は応戦し、街の連中を避難させていた」
「アリザの天使が、国を滅ぼそうとしているんでしょうか……?」
「さぁな。魔物の相手はしてこなかった。俺には勝手に俺からはぐれていなくなった主を拾いに行く用があったからな。俺とお前が戻るまでは持ちこたえると、ロジュは言っていた」
ジュリアスさんは「敵国の敗将とお人好しの錬金術師に頼るなど、どうかしている」と言って嘆息した。そんなに――悪くは思っていないようだった。
ロジュさんは、ジュリアスさんが私を助けて戻ってくると信じてくれている。
私はジュリアスさんの青空のような青い瞳と夕方の光のような赤い瞳をじっと見上げた。
「ジュリアスさん、天使様という名前のなにかは、とても怖くて強いものです。怖いものからは逃げなさいとお母様は言いました。でも、……私は皆を守りたい。私一人だけじゃ弱くて、何もできないから」
私はジュリアスさんを巻き込みたくないとずっと思っていた。
北の魔の山でロジュさんを助けようとしたときも、お城に連れてこられた時も、ジュリアスさんには危険な目にあって欲しくないと思っていた。
でも多分そうじゃない。それはきっと間違っていた。
そうやってジュリアスさんは無関係だからと突き放そうとすることの方が、独りよがりで自分勝手だった。
ジュリアスさんは強いから、私が弱くても大丈夫だと言っていた。
その意味がやっと、分かったような気がする。
「……だから、一緒に戦ってくれますか?」
「俺は言った筈だ。お前は命じるだけで良い。俺はお前に買われた日から、お前だけの劔。お前が殺せと言うものを全て屠ってやる」
ジュリアスさんは当然のように、自信に満ちた声音で言う。
一緒にいるようになってから何度も聞いたことのあるようなジュリアスさんらしい言葉に、私は少し笑った。
「返事が物騒なんですけど。倒すのは魔物ですからね。シリル様は敵じゃないですし、アリザちゃんも……多分きっと、操られているだけですから」
「今ならお前を貶めた連中を合法的に殺せる」
「良いですから、大丈夫ですから……! 復讐じゃなくて、人助けですよ、人助け」
「……クロエ。お前の店の箱から、錬金物とやらを適当に掴んで持ってきた。それと、武器屋の店主からお前に餞別だ」
ジュリアスさんはヘリオス君の鐙の後方に縛り付けていた布鞄を渡してくれる。
私の無限収納トランクと繋がっている無限収納鞄は兵士に奪われてしまった。ジュリアスさんが渡してくれたのは、ただの布鞄だった。
中には本当に適当に掴んで入れてきたのだろう。いくつかの錬金物が無造作に入っている。
高級品から安価なものまで様々である。使える物もあれば、全くの不用品もある。
布鞄を肩にかけた私に、杖が渡された。
その杖は私のいつも使っている安価な魔力増幅の杖ではなくて、――個人的には絶対に買わない、高いやつだった。
「こ、これは……、千年樹を加工して神聖なる鉱物を嵌め込んだ、ものすっごく高い魔力増幅の杖じゃないですか……! ロバートさんみたいな守銭奴がただでくれるとか、怖すぎるんですけど。ただより高いものはないんですよ、ジュリアスさん」
「ただより高いものは無い。そうだな。だからお前は、王都を……ひとを、守るんだろう。わりにあわないただ働きだな」
「倒した魔物の落した素材はクロエちゃんが頂きます! ただ働きですが、きっと良い儲けになりますよ! それに、アリザちゃんにくっついてる何かは、異界の門の魔物よりもずっと強い魔物だと思うので、見たことも無いような高級素材を落としてくれるはずですから! よろしくお願いしますね、ジュリアスさん」
「あぁ。……お前は、後ろに。俺は魔法を使えない。お前が援護をしろ」
「はい、任せて下さい! 美少女天才錬金術師のクロエちゃんのサポートがあれば、元々強いジュリアスさんが更に強くなっちゃいますね! さぁさぁ、王都に蔓延る魔物なんて、一網打尽にしちゃいましょう!」
この間みたいにジュリアスさんの後ろ側にぽいっとされるのが嫌だったので、私は自分でジュリアスさんの背後へと体の位置を移動させた。
ヘリオス君の背中は割と広くて、飛び方も安定しているので城の塔から落ちる事を思えば怖くは無かった。
よいしょ、と後ろに座って鐙についている紐を掴む。ジュリアスさんにしがみついていると戦いにくいだろうし、多少の事ではヘリオス君の背中からは落ちたりしないのは前回で証明済みなので大丈夫。
「行くぞ、クロエ。さっさと終わらせる。お前のせいで血を失った。その上朝からまともに食ってないから空腹だ。お前の作った、豆のスープが食いたい」
「もっと良いもの食べましょうよ。悪い魔物をやっつけて、国を守った英雄が豆のスープとか寂しすぎませんか」
「お前の作ったものなら何でも良い」
空を切り裂くように、ヘリオス君が地上に向かって落ちていく。
私は小さな声で「……そういうの、ずるいなぁ」と呟いた。
雲を貫き、地上が近づく。
体を真っ直ぐに伸ばして風を切るヘリオス君の姿は、まるで黒い雷のようだ。
ジュリアスさんの言う通り、王国の至る所に異界の門が開いているようだった。それは、景色の中に唐突に現れた黒い点のように見えた。
王城は、幼い子供が作った粘土細工のようにその姿を不気味なオブジェへと変えている。
小さな家ぐらいの大きさのある人の手足や、顔や胴体を、ちぎりはなし、無造作に重ねてくっつけたような灰色の建造物の上に、アリザがぽつりと立ってこちらを見上げているのが見えた気がした。
空と王城にはかなりの距離があり、きっとそれは錯覚だろう。
けれどアリザはそこにいて、こちらを見ている事がわかる。
アリザの体には、角と羽を持つ何かが、重なって見えた。
口に薄笑いを浮かべながら、その何かは両手を上空へと掲げる。ヘリオス君の周囲の空中に異界の門が開き、鎖に繋がれた、翼を持つ魔物が襲いかかってきた。
それは鳥に似た白い翼を持っていて、獣のような体を持ち美しい人間の女の顔をしている白い魔物だ。眼球の一つが私の体と同じぐらいの大きさがある。
ばさばさと音を立てて空を飛びながら、知性のある瞳が私たちの姿を追いかける。
赤い唇からぶつぶつと呪詛の言葉を吐き続けるその魔物は、数にして十以上はいるだろうか。
魔物の周囲に赤い魔法陣のようなものがいくつも浮かんだ。
魔法陣から熱線が迸る。
放たれる熱線は地上を焼いた。大きく、地面にいくつもの亀裂が走る。
空中に開いた門の魔物と同じ数だけの異界の門から悪食のグリフォンが、何匹も翼を羽ばたかせながらこちらに襲い掛かってくる。
鷹のような上半身と、獅子の下半身を持つ翼のある魔物だ。空から人を襲い、生き物でも無機物でもなんでも食べてしまう危険な魔物である。
熱線を避けながら空を飛ぶヘリオス君の上で、ジュリアスさんが黒い槍を構える。
私は魔力増幅の杖へと魔力を込める。
悪食のグリフォンは氷魔法に弱い。翼を封じてしまえば地に落ちるしかないからだ。
けれど、結局門から溢れる魔物を倒しても、門を閉じなければまた溢れてくるだろう。
門を閉じても、アリザの天使がまた開いてしまう。
だとしたら――
「ジュリアスさん、邪魔な門の魔物を蹴散らして、アリザの元に連れて行ってください!」
「あぁ。……邪魔をするな、不格好な鳥が」
ジュリアスさんは頷いた。
ヘリオス君が悪食のグリフォンの群れに向けて真っ直ぐに飛んでいく。
邪魔にならないように身を竦める私の前で、ジュリアスさんが槍を一振りしたように見えた。
ばらばらと、悪食のグリフォンたちが羽をもがれて地上へと落ちていく。
そのまま醜悪な言葉を囁き続ける門の魔物へと飛ぶ。
私は熾天使セラフィムの名を呼んだ。ジュリアスさんの槍に、破邪魔法の聖なる光が宿る。
ヘリオス君が舞うように空を飛ぶたびに、門の魔物の女の顔面が切り裂かれる。
宙に苦悶の声と怨嗟の言葉が満ちる。あまりの醜悪さに、酷い吐き気がした。
「最悪に気持ち悪いですね……!」
「お前の店先にいるあれも、同じようなものだろう」
「瞳ちゃんは可愛いじゃないですか、ジュリアスさんわかってませんね……!」
切り裂かれた門の魔物たちから、甲高い悲鳴が幾重にも重なるようにして上がる。
私は両手で耳を塞いだ。ヘリオス君の体がぐらりと傾く。音波のせいで平衡感覚が乱れたのかもしれない。広がる翼から力が抜けるのが分かる。
私は急いで布鞄から、安眠用騒音除去錬金物を取り出した。
こんなの絶対使わないと思っていたけれど、ジュリアスさんが持ってきてくれて良かった。
いつ何が役に立つか分からないものよね。備えあれば憂いなし。痒いところに手が届く、クロエちゃんの錬金物は天才的だわ。
「完璧な静寂をいまここに、安らぎの空間とそして心地良い子守唄ちゃん!」
私は小さなくまのマスコットのようなものを空へと放り投げる。
くまのマスコットから心地良いオルゴールのメロディが流れ出し、魔物の悲鳴をかき消した。
ヘリオス君の体に力が戻る。まだ子供のヘリオス君は子守唄が嬉しいのか「きゅいきゅい」と楽しそうな声をあげながらちらりと私を見て目を細めた。
可愛いわ。我が子、可愛い。お母さんは頑張っちゃうわね、ヘリオス君。
「間抜けな音だな」
ジュリアスさんのお気には召さなかったらしく、舌打ちをされた。
やる気を取り戻したヘリオス君は先程よりもずっと早い速度で苦悶の表情を浮かべてのたうつ門の魔物へと向かう。
空を縦横無尽に飛びまわり、その度にジュリアスさんの槍に貫かれて門の魔物が一体一体消滅していく。
異界の門がぼろぼろと崩れる。
空を分断するような熱線の数が減っていく。
そして再びヘリオス君は、アリザに向かって急降下しはじめた。




