闇よりいづるもの 3
狭い牢の床を突き破って出てきた真っ黒い蛇の頭の大きさは私と同じぐらい。
つまり隠れている体はもっと巨大だということだ。
私は崩れる床の衝撃にバランスを崩して床を転がり、壁に叩きつけられた。
背中を打った痛みで息が詰まる。弾き飛ばされるようにして蹲った私の前で、シリル様が大きく口を開けて襲いかかってきた蛇に向かい片手を伸ばす。
「豪炎の輪舞、炎龍の息吹!」
私には使えない、炎の最上級魔法の詠唱だった。
シリル様の朗々と響く声と同時に、真っ黒い蛇よりもずっと大きな質量を持った炎の龍が、蛇の体を締め上げるように黒い巨体に巻きつく。
シリル様は崩壊していく足場を蹴り飛び上がると、のたうつ蛇に向かい剣を振りかざした。
ざくりと、蛇の頭に剣が刺さる。
蛇の口からだくだくと鮮血のようなものがあふれ、崩れる床に流れ落ちる。
私は痛む体をなんとか起こすと、両手を前に突き出した。
魔力増幅の杖はないけれど、魔法はつかうことができる。
門の魔物には破邪魔法が有効だった。だとしたら、アリザの天使にも効果があるのではないかしら。
破邪魔法の使い道はとても少ない。
対人間にも獣にも有効ではなくて、魔物相手にもいまいちだ。
唯一破邪魔法が弱点なのが怨霊系魔物だけれど、破邪魔法よりも使い勝手が良い神聖魔法で十分である。
だから、わざわざ破邪魔法を学ぶ者はあまりいない。
けれど、もし破邪魔法がーーより、邪悪な魔物を倒すために有用だとしたら。
私はシリル様よりも魔力に劣る。
そんな私でも、ロジュさんは破邪魔法の才能があると言ってくれた。
試す価値は、あるはずだ。
「熾天使セラフィム、邪なる者に裁きの鉄槌を!」
私の言葉とともに、黒い蛇の体が内側から光が溢れるようにして弾け飛んだ。
弾けた体から白い羽が舞い散り、消えていく。
破邪魔法と共に瘴気がいくぶんか薄れた気がした。
けれど次の瞬間、さらに強く圧倒的な悪意のようななにかに四方を囲まれているような感覚に体が支配されて、喉の奥で、ひゅ、と嫌な音が上がった。
「常世の蛇が一匹だけだと思った?」
アリザが楽しそうに笑いながら言う。
いつの間にか、アリザの足元からは土塊でできた人の手のようなものが何本も生えて、崩れる足場からアリザの体を守っている。
その体には暗い影のようなものが、寄り添うようにして絡みついている。
「天使様の力じゃお姉様を殺せないけれど、事故、なら良いのよね? 良いことを思いついたわ!」
がらがらと、壁が崩れる轟音とともに、四方の壁から四匹の蛇が、壁を突き破り牢の中へと無理やり巨体を押し込むようにして現れる。
私の背後の窓際の壁と、足場が崩れる。
「ぅ、わ……っ」
高い塔から、私の体は投げ出されて真っ逆さまに落ちていく。
体を浮遊感が襲った。
落ちる。
地面に叩きつけられたらーー死んでしまうわよね。
なにかしなきゃ。
なんとかしなきゃ。
でも、何も思い浮かばない。
「クロエ!」
私の手を、シリル様が掴む。
シリル様は半身を塔の外へと投げ出すようにして、私の手を掴んでいる。
私の体は空中でゆらゆらと揺れた。風にあおられるたびに滑りそうになる手を、シリル様が骨が折れるんじゃないかというほどきつく掴んでくれる。
片手は床に突き刺した剣の柄を掴み、不安定な体を支えているようだったけど。
「クロエ、手を離すな。何があってもだ……!」
「シリル様……」
シリル様の背後に、四匹の蛇の姿が見える。
四匹の蛇の真ん中に、アリザの姿がある。
アリザの体に黒い影が重なり、鋭い二本の角と黒い翼の幻が見えた気がした。
「感動して涙がでちゃうわ。今更、お姉様を守ろうとするなんて。あー、おっかしいの!」
アリザは笑いながら、崩れた外壁の奥から私を覗き込んだ。
「どうせ二人とも死んじゃうのに、馬鹿みたい。必死になって。本当、虫唾が走るわね!」
忌々しげにアリザは言って、剣の柄を掴んでいるシリル様の手に、真っ黒い針に似た短剣のようなものを突き刺した。
果物にでも刺さるようにして、凶器はシリル様の手と手首を切り離した。
呻き声と共に、支えをなくした体がずるりと下にずれる。
私の体を支えている手に脂汗が流れる。
「アリザ、やめて……っ」
なんて酷いことを。
アリザは、シリル様を愛しているはずなのに。
「シリル様はアリザの夫でしょう! 私が邪魔なのはわかったから、もう、やめて……!」
悲鳴じみた声で私は訴える。
これ以上誰かが傷つくところを見たくない。
「馬鹿みたいに甘ったるいお姉様! 私を愛してくれているシリル様じゃなきゃ、私はいらないわ。シリル様はお姉様を助けた裏切り者だもの!」
「アリザ、目を覚まして。天使なんていないわ。あなたのそばにいるのは、邪悪なものよ!」
「お姉様は愚かね、天使様の素晴らしさがわからないなんて! もうすぐ天使様の軍勢が異界の門から現れて、世界を素晴らしい楽園にしてくださるの! この腐った最低な世界を、楽園にしてくださるのよ!」
アリザを囲う蛇が、鎌首をもたげる。
それは一斉に、シリル様に襲いかかろうとした。
「光よ! 闇を穿ち黎明を齎せ!」
シリル様が、死んでしまう。
駄目。そんなのは、いけない。
身のうちから魔力が溢れるのを感じる。唱えたことのない詠唱が、よく身に馴染んだ魔法のように、昔から知っているかのようにすらすらと口をついて出た。
黒い蛇をかき消すように光が溢れる。それは激しい光の奔流だった。狭い牢獄を白く覆い尽くすように眩しい光が弾け、蛇の姿もアリザの姿もかき消した。
同時に、ずるりとシリル様の体が空中へと滑り落ちる。
あぁ、落ちる。
シリル様はそれでも私の手を掴んで、引きずり上げようとしてくれる。片手を失ったシリル様の、真っ赤な鮮血が宙に舞った。
地面に、ぶつかる。
私はきつく目を閉じる。
「ジュリアスさん……」
小さな声で呟いた。
ごめんなさい。ジュリアスさんのいうことを聞いていれば。逃げることを選んでいたら、こんな終わりにはならなかったのに。
こんなことになるのなら、ジュリアスさんの首の魔法錠を外して自由にしてあげるべきだった。
奴隷の刻印だってーー方法を調べて、消してあげれば良かった。
「クロエ!」
耳に馴染んだ低い声に、名前を呼ばれた気がした。
私の体には、地面に激突した衝撃も痛みも齎されなかった。
何かに体を掴まれる。それはとても懐かしくて頼りになる、やや乱暴な手の感触だった。
恐る恐る目を開けると、私の目の前には血だらけのジュリアスさんが、私を今にも殺しそうな勢いで睨みつけていてーー私は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
「ジュリアスさん……っ 血だらけじゃないですか……!」
私はヘリオス君の体の上でジュリアスさんに抱えられて、空を飛んでいる。
私を掴んで一気に上昇したのだろう、眼下にお城と、王都の町が見える。
落下しかけていて地面に落ちるところだったのに、その地上がとても遠い。
「お前のせいだ。さっさと魔法錠にかけた呪縛を解け」
ジュリアスさんはとてつもなく怒っている顔で言った。
体の至る所に細かい切り傷があり、そこから血が滴り落ちている。私は無事なのに、ジュリアスさんは満身創痍に見えた。
「ご、ごめんなさい! クロエ・セイグリットの名において命ずる! 私を助けにくることを許可する!」
私は慌てて首輪に手をかざす。
助けに来るなと、魔法錠に誓約をかけておいたんだった。
誓約を違反した場合、ジュリアスさんの体には動けなくなる程の苦痛が齎される仕組みになっている。
つまり、私のせいでジュリアスさんは満身創痍。血だらけというわけである。
私のせいで。
「ごめんなさい……、本当にごめんなさい……! 今回復魔法をかけますから!」
私はジュリアスさんの体に手を翳した。
詠唱を唱えると、暖かな光とともにジュリアスさんの傷が治る。出血が治ったことに安堵の息を吐いた。
非常に申し訳なくて、ジュリアスさんの顔をまともに見ることができない。
けれど、私が馬鹿だったことについて落ち込んでいる場合じゃなかった。
「ジュリアスさん、シリル様は……!」
「あぁ、お前と一緒に落ちた男か。あれなら、ヘリオスに咥えさせて、異変に気付いて集まっていた兵士たちの中心に落としてきた。死にはしないだろう」
「ど、どうして一緒に連れてきてあげなかったんですか?」
「見捨てても構わなかったが、お前がうるさく泣くだろうと思って助けてやった。ありがたいと思え」
ジュリアスさんの最大限の優しさを感じて、私はそれ以上何も言うことができなかった。
私のせいで身体中に激痛が走っていたはずなのに、シリル様まで助けてくれたのだから、ありがたいと思うべきよね。
きっと大丈夫。シリル様は強いし、お城には騎士の方々も魔導師の方々もいるし、何とかなる筈だわ。
私はジュリアスさんに抱えられながら、どこから何を話すべきかを考える。
「……魔法錠の誓約って、絶対だと思ってたのに。助けに来てくれたんですね……」
「苦痛にさえ耐えることができれば、どうとでもなる。……耐えることはできたが、死んだ方がまだ良いと思うぐらいに痛かった。お前のせいで。無駄に血も失った。お前のせいで」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「二度と余計なことはするな、阿呆が」
「はい。私が馬鹿で阿呆で間抜けでした。一人で大丈夫とか、何とかなるとか思って、何ともならなくて……、死ぬかと思いました。……もう、会えないかと、思いました」
ジュリアスさんは、小さく溜息をついた。
それから私の頭を抱えるようにして、抱きしめてくれる。こんな時なのに、胸が高鳴った。
「ジュリアスさん、ごめんなさい。……助けに来てくれて、ありがとうございました」
「あぁ。無事で良かった」
ぽつりと、ジュリアスさんが呟くように言った。
心配をしてくれていたのだろう。
涙腺が緩むのがわかる。泣きそうになるのを、何とか堪えた。
まだ、泣いている場合じゃないのだから。




