闇よりいづるもの 1
音も立てずに、扉が開いた。
巨大で昏くて恐ろしいものが部屋の中に入り込んでくるような幻影を見た気がした。
けれど扉の前に立っていたのは、アリザ・セイグリット。私の腹違いの妹だった。
アリザは私よりも一つ年下で、顔は母親であるリザリアさんに似たのだろう。私やお父様にはあまり似ていない。
冷たい湖のような青い髪は綺麗に結われて、薄青い大きな瞳は丁寧に施されたお化粧のおかげで余計に大きく見えた。
豪奢な濃い青色に金糸で刺繍がされて、宝石の散りばめられたドレスに身を包んでいる。
昔はーー明るくて、天真爛漫で、青空みたいな髪の色の子だと思ったのだけれど。
それは私がアリザをきちんと見ていなかったせいなのかもしれないし、それともこの三年でアリザが変わってしまったからなのかもしれない。
薄寒い恐ろしさは変わらないけれど、どことなく妖艶で酷薄な印象を受ける。
開いた扉の前に立っているアリザの顔には、なんの感情も浮かんでいなかった。
シリル様がアリザから私を隠すように、一歩前に出る。
剣の柄に手をかけるシリル様に、アリザは不思議そうに首を傾げた。
「お姉様、お久しぶりですね! シリル様、何をそんなに怒っていらっしゃるの? 私をお部屋に閉じ込めて鍵をかけるだなんて酷いことをなさるのね!」
先程までの無表情が嘘のように、アリザは言った。
甘えるような、拗ねるような言葉だった。
私の知っているアリザのものだ。そうしてよく、アリザはシリル様に甘えていた。「お姉様ばかりにかまって、ずるいです。私もシリル様とお話ししたい!」などと言って、シリル様の腕に纏わりつくアリザを私は遠くから見ていた。
なんだか、懐かしくて滑稽だわ。
あの当時は私の世界は家と学園しかなくて、アリザがそうしてシリル様に甘えているのを見かけるたびに最低な居心地の悪さを感じていたものだけれど、今はーー馬鹿馬鹿しくて、どうでも良いと思うことができた。
「アリザ、どうやって出てきた? 部屋には外側から魔法錠をかけたはず。お前の魔力では私の錠前にかけた魔力には敵わないはずだ」
「まぁ、酷い。シリル様、それは私を侮りすぎというものです! 私だって魔力はありますし、お姉様よりも優秀だってシリル様も認めてくださっていたではありませんか!」
シリル様に睨みつけられても、アリザは気にした様子もなく両手を口にあてて困ったように眉尻を下げた。
「魔力鍵は外してきましたよ。それぐらい、できますので」
「……何故クロエを捕縛した? あれから、三年だ。今更どういうつもりだ」
「だってお姉様ってば、恐ろしい敵国のひとごろしを使って、エライザさんを襲ったんですよ? エライザさんが邪魔だったから、殺そうとしたんです! お姉様、きっとジュリアスを取られるのが嫌だったんですよ、昔からそういう心の貧しい人でしたから!」
「心の貧しい私ですが、ジュリアスさんは私のいうことなんて聞いてくれないので、そんな理由でエライザさんを襲ったりしませんよ。そんなことをお願いしたら、阿呆だの馬鹿だの言われて耳を引っ張られますよ」
私はシリル様の後ろから顔を出して言った。
エライザさんなんて嫌いだから殺っておしまい! などと私は言わないけれど、言ったとしても多分呆れられるだけだろう。
でもジュリアスさんエライザさんのこと嫌いみたいだったから、喜んで殺しちゃうかしら。
しないわね。ジュリアスさん、あれで結構常識人だもの。
いざとなったら躊躇わないのだろうけれど、それでも不必要なことはしたりしないわ。
多分。あんまり自信ないけど、多分。
「ふぅん、お姉様ったら、三年前は小さくなって震えて、意味もなくへらへら笑って私に媚びへつらってばかりいたのに、随分と言うようになったのね?」
アリザは人差し指を唇に当てて、小馬鹿にしたように私を嗤った。
「人は三年もあれば変わるんですよ。全く、アリザちゃんはシリル様と幸せになったんですから、私のことなど放っておいてくださいな! 錬金術師としてお金持ちになる途中だったのに、順風満帆、前途洋々だった美少女錬金術師クロエちゃんの邪魔しないで欲しいんですけど」
「うふふ、おかしいわね。臆病者のクロエ・セイグリットのくせに強がって。一人じゃ何にもできないくせに」
「アリザ、お前は一体なんなんだ? お前の部屋で異形を見た。異形とお前は、クロエを殺すと話をしていたな」
シリル様はアリザに向けてすらりと剣を引き抜いた。
白刃が煌めく。切先を向けられたアリザは、冷めた瞳でシリル様を見据えている。
「クロエには私がいる。三年前私は、クロエの話をまともに聞こうとせずに傷つけてしまった。……今度こそ、私が守る」
私はシリル様の背中を俄に目を見開いて見つめる。
こんなこと、シリル様に言われたのは初めてだわ。
でも、有難いとは思うけれど、それ以上のことはなにも感じなかった。
ジュリアスさんに言われた時は、どきどきしたし嬉しかったのに。
「酷い、シリル様! 愛する妻である私ではなくて、元婚約者のお姉様を守るだなんて! 酷いわ、酷い男だわ。酷くて、とっても間抜け!」
アリザは腹を押さえながら、体を捩るようにして笑った。
けたたましい声が小さな牢獄に響く。
魔力増幅の杖も、錬金物の入った布鞄もなにもないことがこんなに不安だとは思わなかった。
杖がなくても魔法は使える。私はいくつかの攻撃魔法について思い浮かべる。
部屋の気温が下がったような気がした。ここに閉じ込められたのは朝だったのだから、今はまだ昼に差し掛かった頃だろう。空は青く晴れ渡っているのに、牢の中はどことなく薄暗い。
「全く、私の言うことを信じて、私の言うことだけ聞いていれば幸せでいられたのに。どうしてみんな邪魔をするのかしら? ねぇ、お姉様。そう思わない? 私は幸せになりたいだけなのに、みんなが私の邪魔をするの。だから、……邪魔だったから、消してあげたのよ?」
「アリザちゃん、何をしたんですか……? お父様はアリザちゃんに優しくて、何不自由なく暮らしてたじゃないですか。シリル様と結婚して……、それなのに、何がそんなに邪魔なんですか?」
同意を求めるようにアリザは私をお姉様と呼んだ。
けれど私にはアリザの気持ちが少しも分からなかった。私のことが、そんなに邪魔ーーなのかしら。
けれど、どうして。
「邪魔、だわ。お姉様が一番邪魔。……ねぇ、お姉様。私のお母様、リザリアと私は、セイグリット公爵領の貧民街で育ったのよ。貧民街の暮らしがどんなものか、お姉様は知らないでしょう? 私が、どれほど苦しくて辛い思いをしてきたか、知らないでしょう?」
「……アリザちゃん」
違う。
リザリアさんとアリザは、お父様の計らいで別邸で暮らしていてーー
けれどそれを私は、誰から聴いたのかしら。
お父様とはまともに話をしていない。アリザの身の上なんてアリザと話したことなど一度もない。
リザリアさんは怖くて、私は逃げ回っていて。
誰からもまともに二人の話なんて、聞いていない。
聞こうともしなかった。
「お母様は何度も言っていたわ。私は、セイグリット公爵の子供だって。一度だけ……、公爵が貧民街に視察に来たときに悪い男の人たちから助けてもらって、それで、愛し合ったのだって。でも、公爵には奥さんと子供がいるから、だからいつか迎えに来てくれるって!」
「それは、本当なんですか……?」
私はお父様の顔を思い浮かべる。
お父様は寡黙で、いつも不機嫌そうで、けれどいつも体の弱いお母様のことを気遣っていた。
男の人のことはわからないけれど、お父様がお母様を裏切っていたとは思いたくない。
けれどもしそれが本当だとしても、アリザは公爵家に来てからは大切にされていたはずなのに、私の何がそれほど邪魔だったと言うのだろう。
生きているだけで目障りだと思われるほど私はアリザに嫌われていたのだろうか。
「本当よ。でも、お姉様。いつまで経ってもお父様は迎えに来てくれなかった。……そうして、お姉様とシリル様の婚約が決まったと、貧民街まで伝わってきた。私は塵屑みたいな生活をしているのに、お姉様は王太子様と結婚するだなんて許せないでしょう? 私は何度もお母様に言ったわ。公爵様の元へ行こうって」
「それは、私が十歳の時ですね」
「……あぁ。……私は、控えめで愛らしい君を妃にと望んだ。あの時は、……まさかこんなことになるとは」
シリル様が言った。
自分から話しかけにいけない私を選んでくれたのは、家柄が理由だと思っていたのだけれど、そんな風に思っていてくれたことも知らなかった。
「……きっとお母様は、生活が苦しくて気がおかしくなっていたんだわ。そんな事実はなかったって。私は公爵様の子供ではないし、父親は誰なのかもわからないって言うの。……お母様は、私が幸せになろうとしているのに、邪魔をしようとしたのよ。おかしいでしょう?」
喉の奥で、アリザは笑った。
アリザの影が、風もないのに揺れてぐにゃりと形を変えたような気がした。
「それでね、私は毎日願っていたの。どうか幸せにしてくださいって。……そうしたら、あるとき異界の門から天使様が現れたわ。天使様は私に言ってくれたの。邪魔だったら殺しちゃえば良いって。天使様の力で、殺しても生き返るし、生き返った人は嘘みたいに私に従順になるから、だから私はお母様を殺してあげたの」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
なんの悪びれもなく無邪気にまるで当たり前のようにアリザは言った。
アリザの影がずるずると壁際まで伸びていく。それは黒い、頭に二本角の生えた異形へと姿を変えていった。




