縮まる距離と不穏な朝 5
お母様が体を休めている部屋のベッドのシーツは白くて、私と同じ桃色がかった金色の髪をゆるく編んで首の横に垂らしていたお母様は、私がお部屋に入ると体を起こしていつもにっこりと笑ってくれた。
窓には薄いレースのカーテンがかけられていて、窓の下の飾りテーブルの上には花瓶がある。花瓶には毎日新しい花がいけられていた。
「お母様の花瓶のお花、私も摘んできて良い?」
私はお母様を喜ばせたくて、お母様に聞いてみた。
お母様は困ったように眉尻を下げて微笑んでくれる。
「嬉しいわ、クロエ。……でもね、花瓶のお花を選ぶのは、お父様の唯一の楽しみなの。だから、取り上げたら可哀想ね。クロエのためにもう一つ、小さな花瓶を用意しましょうか」
お母様はいつものように、歌う様な声で言った。
「お父様は怒ってばかりよ」
私はお父様が苦手だった。
口数が少ないし、たまに話したと思ったら「セレスティアの部屋に行ってはいけない」ばかり言うからだ。
「お父様は言葉を話すのが、上手じゃないのよ。……でも、お父様も私も、クロエを愛しているわ。……きっと大丈夫。お母様は、いつでもクロエを見ているわ」
「……お母様はご病気で、お部屋から出られないんでしょう? どうやって、見ているの?」
「そうね。……空は、どこまでも広くて、繋がっている。お母様は空からクロエを見てるのよ」
「空から? お母様の目が、空にあるの?」
「そうなの。お母様の目は空と繋がっているのよ。凄いでしょう?」
お母様の小さくて嫋やかな手が私の髪を撫でる。
私はくすぐったくて、目を細めた。
「クロエ。あなたは、特別。特別で大切な、私のお姫様。あなたは、いつだって一人じゃない。お母様にお父様がいるように、クロエにも王子様が……、いつか必ず、現れるわ」
「……王子様というのは、シリル様のこと?」
「そうね。シリル様かもしれないし、そうじゃないかもしれない。未来のことは分からないわ。未来は希望にあふれていて……、なにも、決まっていないのよ」
お母様のベッドの端に座って、お母様の声を聞いている幼い私を眺めながら、私は「そうね」と呟いた。
幸せな夢を見るのは、どれぐらいぶりだろう。
夢を見るのは嫌な事でしかなかったのに。
夢の中のお母様が、部屋のどこか高いところから幼い私とお母様を見守っている私を、ふと見た気がした。
「……クロエ、あなたなら大丈夫」
「お母様……!」
私は夢の中のお母様に手を伸ばす。
お母様は美しく微笑んだ。優しくて儚くて――とても切ない、笑顔だった。
朝の光の眩しさに、私は目を開いた。
まだ頭がぼんやりする。
昨日は随分と夜更かししてしまった。ずっと一人でいたから、誰かと夜中まで話すような事もなかったので、私にしてはとても珍しい事だった。
ナタリアさんとは暫く一緒にいたけれど、部屋は別だったし、ナタリアさんは私に用事を言いつけたり、錬金術について教える時以外は怠惰に眠ってばかりいたので、そこまで話すようなことも無かった。
ジュリアスさんと一緒にいるようになってから、私の今までの人生で話した言葉よりもずっと多くの言葉を交わしたように思う。
ジュリアスさんは私のことを「うるさいぐらいによく話す」と言うけれど、実際の私はそこまで話し好きというわけじゃない。お店をしていると必要だから、日常会話をしたり接客をしたりはするけれど、自分の事を打ち明けたりしたことはなかった。
自分自身の事を話すのは難しいけれど、心の中に飼っていた真っ黒な何かが薄らいで消えていくような感じがした。心が軽くなっているのが分かる。
今日の夢にはお母様が出てきた。
幸せな夢を見ることができたのは、ジュリアスさんと沢山話をしたからなのかもしれない。
それに――昨日ジュリアスさんは私を抱きしめてくれた。恥ずかしかったけれど、嬉しかった。
ジュリアスさんに抱きしめられて眠った事を思い出し、私はすっかり覚醒して体を起こした。
隣で眠っていた筈のジュリアスさんは、もう既に身支度を整えて窓の外を眺めている。
いつもは私が「起きて下さいな、朝ですよ」とか「朝ごはんですよ」とか言わないと、起きる気配がないのに、珍しい事だ。
お気に入りの黒のローブはぼろぼろになっていて取り上げてしまったからか、今日はアドリアネの外套を身に纏っている。
アドリアネの外套は軽くて丈夫で丸洗いもできるし、布地自体に自動修復効果があるので、勿論普段使いしても大丈夫だ。お高いけど。
どこかに戦いにでも行くつもりなのかしら、腰にはベルトをつけて帯剣している。
今日は昨日手に入れた珍しい素材で新しい錬金物を作ろうかと思っていたので、魔物討伐の予定はないのだけれど。
「ジュリアスさん、おはようございます」
「クロエ、起きたか。……さっさと着替えろ」
「どうしました? 何かありましたか?」
私はベッドからのそのそと起き上がると、いつものエプロンドレスにぱぱっと着替えた。
今日は赤にしてみた。黒は評判が悪くて、青はそこそこ。赤は縁起が良いと、街の人たちが喜んでくれるからだ。
髪を整えて、ついでに頭に赤い三角巾をつける。
毎日同じ服を着ているので、私の着替えは素早い。ものの数分で準備が整った。
「ジュリアスさん、外になにかあるんですか?」
着替えを済ませてジュリアスさんの横に並んで外を見下ろした。
窓の外に見える広場の噴水の前に、王家の紋章のある馬車が停まっていた。
王家の紋章は二つの角のある獣に似た形をしている。
ちょうどジュリアスさんの首の後ろにある奴隷の刻印の骸骨の獣に、肉付けをしたような姿だ。
アストリア王国の神獣である羊に似た獣である。羊に似ているけれど、羊ではない。
神は羊飼いの姿をしている――という伝説から、王家の紋章になったのだと、学園の授業で習ったのを覚えている。
「王家の馬車ですね。……どうしたんでしょう、こんなに朝早くから」
「……クロエ、逃げるぞ。……ラシード神聖国まで行けば、俺たちの事を知っている人間はいない」
「なんでまた逃げる必要があるんですか? 私は何にもしてませんし、ジュリアスさんだってもう自由じゃないですか。大丈夫ですよ、王家の馬車が停まっているだけで、私達に関係があるとは思えません」
「寝不足だからか、よりいっそう阿呆だな、クロエ。どう考えても、……お前か、俺。どちらかに用事だ」
昨日はあんなに優しかったのに、いつも通りジュリアスさんは辛辣だわ。
急に私に甘ったるく優しくなるジュリアスさんなんて、想像できないから良いんだけど。
「ともかく、様子を見ましょう? 大丈夫ですよ。普通に暮らしているだけなのに、捕まえたりしませんって。シリル様ともアリザちゃんとも、三年会っていないんですよ? それに、私はもう逃げたくないです」
「……そうだな」
ジュリアスさんが心配してくれるのは有難いのだけれど、このお店だってナタリアさんが私に残してくれたものだ。
ナタリアさんがどこに行ってしまったのかは分からないけれど、帰ってくるまでは私が守る義務があると思う。
見ず知らずの私をナタリアさんは助けてくれたのだから、恩を返さないといけない。
それに街の人たちだって、ロバートさんや、ロキシーさんはとても優しくて、ロジュさんはちょっと変わっているけれど、良いお客さんで。それ以外にも、話しかけてくれる人たちは沢山いて。
色々あったけれど、今はとてもお店も街も居心地が良くて。それに、ジュリアスさんも一緒にいてくれて。
――これから、なのに。
王家の馬車が来たというだけで、全部を捨てて逃げるだなんてしたくない。
天才美少女錬金術師クロエちゃんは、権力に負けて尻尾を巻いて逃げたりしないのだ。
王家の馬車から何人かの兵士の方々が降りてくるのが見えた。
彼らは真直ぐに私のお店に向かってきて、扉を叩く音がした。
『クロエちゃん、お客さんがきたわ』
お店の前の鳥籠の中に浮かんでいる瞳ちゃんの可憐な声が、頭に響いた。




