縮まる距離と不穏な朝 4
シリル様と私の婚約が決まったのは私が十歳の時のことだったかしら。
王太子殿下の婚約者を決めるために何人かの貴族の娘が王城の庭に集められてご挨拶を行った。
その時には既にお母様の具合が悪かったから、私はお父様に連れられて王城に向かったように思う。
もう十年も前の事だから記憶がおぼろげだけれど、薄らとお父様と馬車に揺られていたことを覚えている。
お父様は相変わらず寡黙で、私はお父様が怖くて体を小さくしていた。
嫌われていたというわけではないと思いたいのだけれど、良く分からない。
その日はシリル様とご挨拶と顔合わせだけを終わらせて公爵家へと帰った。私はご挨拶以上の会話をシリル様と交わせなかった。緊張していたし、自分からシリル様に話しかけにいくような性格をしていなかった。
他の子供たちはシリル様を取り囲んで一生懸命話しかけていたけれど。
そのことについては特にお父様に怒られたりはしなかった。そうして数日後に、王家からの手紙が来て婚約者に選ばれたのである。
まさか、という気がした。けれど、身分と年齢を考えると妥当だという気もした。
お母様は戸惑う私の髪を撫でながら「シリル様は王子様でしょう。王子様はお姫様を守るものと決まっているわ。クロエは、私のお姫様。だからきっと、大丈夫」と歌うように言っていた。
お母様の声は春風のように軽やかで、いつも歌を口ずさんでいるような不思議な響きがあった。
私はお母様の声が好きだったような気がする。
ジュリアスさんが私の声を気に入ってくれているように、私も、お母様の声を聞いていると落ち着いた。
「私とシリル様は、……その、なんていうか……、情熱的な、恋とか、愛とか、そういうのはなかった気がします。普通の婚約者……、普通の婚約者っていうのも良く分からないんですけど、季節ごとにお手紙が来たり、お誕生日に贈り物がきたり、その程度でした。王都と公爵家のある公爵領はすこし離れていますから、会いに来ようと思わなければずっと会わないままでいられましたし」
「……お前は? ……お前は、シリルを」
「好きとか、愛してるとか、そういう気持ちってよく分からなくて。……十三歳の時にアリザちゃんが来てから、私はいつも怯えてて。いつ、自分の場所が……、居場所がなくなるのかなぁって、そればっかり考えていました。お父様やリザリアさんや、アリザちゃんの邪魔にならないように、いつも作り笑いを浮かべて、はい、とか、そうですね、しか答えなくて。……居場所なんか、最初からどこにもなかったのに、馬鹿みたい」
私は溜息をついて、少し笑った。
ジュリアスさんが私の方を振り返る。月あかりを背にして私を見つめるジュリアスさんは、空から舞い降りた神様の使者みたいだ。
何だか胸が切ない。私はジュリアスさんの顔を見ていられなくて、ころんと寝がえりをうった。
「学園でも、私は似たようなものでした。お友達……、お友達、じゃないですね、あれは。同級生の貴族の女生徒達の集団の中で目立たないように、していて。邪魔にならないように、いつも作り笑いを浮かべてました。……私は無害ですよって、必死になって取り繕っていたんです。居場所、なくなるのが怖くて。……でも結局、どこにいっても私の居場所なんてありませんでした」
「そうか」
情けないと言って呆れられるかなと思ったけれど、ジュリアスさんは短い返事をしただけだった。
嘲るような響きも、小馬鹿にするような響きもそこにはない。
だからといって、同情も憐憫もない。淡々と事実を受け入れているような声音だった。
「シリル様は学園の中で私に話しかけてくれましたけど、……なんていうか剣術とか馬術の好きな、男性らしい方でしたので、お休みの日には遠乗りにでかけたりしていたみたいですね。一緒に過ごした記憶、ありません。文句を言わない、大人しいだけが取り柄の婚約者だと思われてたんでしょうね。貴族女性の在り方としては、正しいのかなって思いますけど」
「そういうものか。なんにせよ、学園というのは面倒な場所だな。……戦場に出ていた方がまだ良い」
「ジュリアスさんには向いてなさそうですね。学園に通うジュリアスさんとか、想像できませんし」
「わざわざそんなところに行かなくても、十歳を過ぎるまでにはある程度の教育はすんでいるものじゃないのか?」
「学園で習うのは、基礎教育よりももう少し踏み込んだ教育といいますか、……あとは、歴史とか、文学とか、ジュリアスさんにとっては役に立たないって思うような事ばかりかなって。それと、貴族の間の礼儀とかマナーとかを学んだり、人脈を広げたり、ですかね。そんな三年間でした」
「無駄だな」
「無駄な事をしないと、時間がいっぱいあり過ぎて退屈になっちゃうんじゃないですか? よくわかりませんけど」
ジュリアスさんらしい返答に私は口元に手を当てて、くすくす笑った。
さっき泣き顔を見せてしまった事を忘れてしまったかのように、いつも通り話してくれることが有難かった。
できれば忘れて欲しい。情けなく、泣いてしまうだなんて、今日だけにしたい。
「アリザちゃんが入学してくると……、アリザちゃんはシリル様とすぐに仲良くなったみたいですね。活発な子ですから、一緒に遠乗りにでかけたりしていたみたいです。アリザちゃんは貴族になったばかりで、だからなるだけそばにいてあげていたみたいですね。私は相変わらずです。ずっと、大人しくしていました。……たぶん私はアリザちゃんに嫌われていたんでしょうね。……そのうち、私がアリザちゃんにつらくあたっているって噂が広まって。……それでも私は黙ってました」
「くだらないな。それに、愚かだ」
「そうですよね。今にして思えば、ものすごくくだらないです。……でも、その時の私は、家と学園が世界の全てでした。怖かったんです。居場所、なくなるのも。……なにかに立ち向かうのも。怖いものから逃げろってお母様は言いましたけど、逃げすぎですよね」
「お前を責めている訳じゃない。愚かなのは、お前の婚約者だ。……お前がお人好しの善人だということぐらい、少し話せばわかる。ひとは変わらない。昔のお前も馬鹿みたいに善良だ。それを理解できないお前の婚約者が愚かだと言いたかった。……俺は言葉がいつも足りないらしい」
ジュリアスさんの言葉には、少しだけ困惑した響きがあった。
私を傷つけてしまった事を心配して、言葉の意味を説明してくれたみたいだ。
優しい、わよね。優しくされるとまた泣いてしまうし、やめて欲しい。
「ありがとうございます。それからは、お話した通りです。私は王都に捨てられて、ナタリアさんに拾って貰いました。ナタリアさんは凄腕の魔導士で錬金術師でした。金色の髪に、薄桃色の目をした、三十代ぐらいの女の人で、一か月ぐらい一緒に住んで、錬金術の基礎を教えて貰いました。私はナタリアさんの名前しか知らなくて、……それで、ナタリアさんはある日突然いなくなっちゃったんです」
「王都の民は、罪深いセイグリット家のお前を許したのか?」
「最初の頃は嫌われてましたよ。ナタリアさんに言われてお使いにいっても、みんな何も売ってくれなかったし、嫌がらせもされましたね。……でも、悪い人ばかりじゃないんですよね。ジュリアスさんは、魔物から守る価値のある人間がいるのかってさっき、ロジュさんに言ってましたけど……」
「あぁ、言ったな」
「でも、ジュリアスさん。そんなに捨てたもんじゃないんですよ、ひと、って。ロバートさんは最初から私に対してみんなと同じように話をしてくれて、平等でしたし。ロキシーさんはぼろぼろだった私においでって言って、ご飯食べさせてくれました。ロジュさんは……、お店開いたら、武器を強化して欲しいって最初に来てくれて」
「……それで、三年か」
「はい。三年です。三年目で、ジュリアスさんを買いました。……お金持ちになりたいって思ったんですよ。その為に強いジュリアスさんが欲しいなって、軽い気持ちでした。……ごめんなさい。そんな理由で、ジュリアスさんを買うだなんて、私……」
口にしてしまうと、凄く軽薄で――自分が酷い人間に思えた。
ジュリアスさんは私に手を伸ばして、何かとても大事なものに触れるように、私の髪を撫でてくれた。
気持ち良くて、少し緊張する。
けれどそれは嫌な緊張じゃない。
「俺はお前に買われて良かったと、思っている。……久々に人間に戻ったような、妙な気分だ。……クロエ、これからは俺がいる。俺は強いから、お前が多少弱くても、守ってやることができる。……だから、お前はそのままで良い」
「ジュリアスさん、……ありがとうございます。一緒に、錬金術店を大きくしましょうね。ヘリオス君にお嫁さんを選んであげて、卵を育てて……、うん、絶対に楽しいですよ、ジュリアスさん」
明るく楽しい未来を考えると、心が軽くなる気がした。
髪を撫でる手のひらが心地よくて、口元に自然と笑みが浮かぶ。
私は多分、ジュリアスさんが好き。
認めるのは怖いけれど、ジュリアスさんの体温を感じると、どうしようもなく胸が高鳴った。
けれど今のまま、こうして一緒にいられるのならそれで良いと思う。いつか失うのは怖い。多くを求めることは、とても怖い。いつかくるお別れの日まで、笑って一緒にいられたら、それで良い。
ジュリアスさんが少しでも幸せだと思ってくれるのなら、それで。
ジュリアスさんは私の体を抱き込むようにしながら、ベッドに横になった。
私は吃驚して目を見開きながら、体を棒みたいに硬くした。
「どうしたんですか……、今日は、一緒に寝る日ですか? 確かにこれは私のベッドですけど、これはちょっと恥ずかしくて、ジュリアスさん、どうしましたか、やっぱり酔ってますか?」
慌ててしまって、良く分からないことを口走ってしまった。
冗談にもならないし、頭が上手くまわらない。
ジュリアスさんは私の言葉に取り合わずに、腕の中に私を閉じ込めるようにしながら、抱きしめる腕に力を込めた。
私は唇を結んだ。混乱のあまり間抜けな声が漏れてしまわないように気を付けた。
「クロエ。……お前は、俺が守る。何があっても」
「……なんだか、本当に王子様みたいですね。頼りにしてます」
「……もう、眠れ。おやすみ、クロエ」
ジュリアスさんの声があまりにも優しいから、私は抜け出そうかどうしようか悩むのをやめて、体の力を抜いた。
きっと今日は私を抱き枕にして眠りたい日なのだろう。
そういうことにしておこう。
ジュリアスさんの体はあたたかくて、一緒にいると安心できる。
だから私は「おやすみなさい」と返事をした。いつもの挨拶が、何か特別な、素晴らしいものになったような気がした。




