縮まる距離と不穏な朝 2
私の手をジュリアスさんが掴んでいる。
ロジュさんに握られた時はぞわぞわしたけれど、ジュリアスさんの硬くて武骨なのにどことなく繊細さもある手に掴まれても、嫌な感じはしなかった。それどころか、とても安心する。
私は胸の底に生まれた感情から必死で目を背ける。
それは良くないものだ。ジュリアスさんの迷惑になってしまうかもしれない。
心の中で言い訳を繰り返して、私は私の感情を否定した。それでも、繋がれた手を離したいとは思わなかった。
「……ジュリアスさん、待ってください、歩くのが、速くて」
ジュリアスさんが歩く速度は私よりも速くて、私は大抵後ろを追いかけているのだけれど、今は繋がれた手をぐいぐい引っ張られているせいで転びそうになってしまう。
未だ灯りが燈るいくつかのお店の前を通り、大通り広場の噴水の前でジュリアスさんはようやく足を止めてくれた。
私はジュリアスさんの手に掴まったまま、呼吸を整えた。
ご飯を食べた後に早足で歩くのは良くないわね。息が苦しい。良い運動にはなったかもしれない。
暗い広場の空には満天の星が輝いていて、ぽっかりとそこだけ切り取られたような丸い月が輝いている。
絶え間なく水を噴き上げる噴水の水音が小さく響く。揺れる水面に映る月の光が、ゆらゆらと揺らめいて水の中にもう一つの空があるように見えた。
ジュリアスさんの金色の髪も、月明かりに照らされて輝いて見える。ロジュさんが言っていた、異界の中に存在すると言われる天上界を治める熾天使セラフィムを思い出す。
きっとそれはジュリアスさんのような綺麗な姿をしているのだろうと思う。
「あの、……ありがとうございました。ロジュさんに触られて困ってるの、助けてくれたんですよね?」
立ち止まったジュリアスさんは、私の手を離そうとしなかった。
私はもう片方の手でジュリアスさんの繋がれた手を包み込むように、遠慮がちに触れる。
「迷惑だったか」
ジュリアスさんが静かな声で言う。
ヘリオス君と飛んだ青空のような透き通った青色の瞳と、私が作った宝石を元にした赤い義眼が私を見ている。両方とも、同じ色にすれば良かったなと思う。
ジュリアスさんの青い瞳はとても綺麗なのに、余計なものをつけ足してしまったような気がする。
それと同時に、私が作った瞳がジュリアスさんの体にはめ込まれている事が無性に嬉しかった。
そんな風に思うだなんて――今日の私はどうかしている。
お酒は飲んでいない筈だけれど、雰囲気にあてられたのかもしれない。
「迷惑なんて……、嬉しかったです」
私は首を振った。
今まで誰にも話をしてこなかった胸の内を、言ってしまったら楽になれるのかしら。
胸のつかえが、苦しさが、とれるのかしら。
私は――美少女錬金術師クロエちゃんなんかじゃなくて。
ずっと昔から変わらない、臆病者のクロエで。
嘘吐きで、自分を偽っていて。
いつでも愛想笑いを浮かべていて。
どんなときでも強いジュリアスさんとはまるで違う。
だから、ジュリアスさんをきちんと見ることができない。
目の奥が痛い。何故だか、泣きそうになっている。感情が上手にコントロールできないみたいだ。
「……ジュリアスさん、私、男の人、苦手で」
「知っている。……見ていれば分かる」
やっぱり、ジュリアスさんは知っていたから助けてくれたのだろう。
気を抜くと、泣きだしそうになってしまう。
「……でも私、ジュリアスさんだけは、怖くないんです。触られるのも、ずっと一緒にいるのも、怖くない。大丈夫」
「お前は阿呆だ。そのうえお人好しだな。……俺は、人殺しだ。……お前が思うほどに、良い人間じゃない」
ジュリアスさんは当たり前の事実を確認するように、平坦な声で言った。
私はジュリアスさんの手を掴む両手に力を籠める。
「人を殺してなくても、怖い人はたくさんいて……、……私、三年前に突然、牢屋に入れられて……、そのあと、王都の裏通りに、捨てられました。……私を牢屋から連れ出した兵士と、……それから、何人かの男の人たちが、私を……」
「クロエ。黙っていろ」
厳しい声でジュリアスさんに言われて、私は口をつぐんだ。
「いや、ですか……? 聞きたくない、ですよね……」
私はジュリアスさんの手を離そうとした。
そうよね、聞きたくないわよね。嫌な話だもの。聞いたって楽しくないし、気分が悪くなるだけだわ。
話したいと思ったのは、聞いて欲しいと思ったのはただの自己満足で、私の心を軽くしたいと言う理由だけで――自分勝手だわ。
私はいつもの明るいクロエちゃんでいなきゃいけないわよね。
ジュリアスさんを買ったのは、美少女錬金術師のクロエちゃんなんだから。だから、今更、こんな話、打ち明けられたって迷惑でしかないわよね。
ジュリアスさんは離そうとした私の手を引き寄せる。
それから、まるで全ての敵から守るかのように、私の体を抱きしめた。
力が強くて、少し痛い。けれど、温かくてとても安心できる。
「……違う。そうじゃない。……虚勢を張って生きるのも、難しいだろう。お前はよくやっている。だから、全てを話す必要はない」
「なんで、……なんでそんなに、優しくするんですか。狡いじゃないですか……、狡い、ですよ」
この腕の中にいたら、私の虚勢なんてまるで役に立たなくて、いつもの自分じゃいられなくなってしまう。
頼りたくなってしまう。弱い私に、戻ってしまう。
離れようともがいたけれど、力の差はあるし、私の抵抗なんて形ばかりのもので意味をなさなかった。
私はしっかり抱き込まれたままジュリアスさんの規則正しい鼓動の音を聞きながら、緊張していた体の力を抜いた。
「……ジュリアスさん。嫌じゃなければ、聞いて欲しいんです。……私、怖い思いはしましたけど、……師匠が、ナタリアさんがすぐに助けてくれて、酷い目にはあっていないんです。……でも、その時の記憶が、ずっと残っていて。……誰も助けてくれなくて、……男の人は、残酷で、怖くて。何もなかったのに、ナタリアさんに助けて貰ったのに、馬鹿みたいですよね」
「……その連中はどうなったんだ?」
「知りません。あの時は、ナタリアさんが空飛ぶ箒に乗ってやってきて、散りなさい馬鹿ども! って大声で怒鳴ってくれて……、そうしたら本当に散っていきました。……ただ、大声で怒鳴っただけなのに。私は、まともに声も出せなかったんです……」
ジュリアスさんの黒い服に顔を押し付けているせいで、視界が真っ暗に染まっている。
硬い腕も、体も、怖くない。
いつもは皮肉ばかりを紡ぐ少し低くて甘さのあるジュリアスさんの声が、心地良い。
初めて誰かに、あの時の事を話すことができた。誰に聞かれても、「私って路地裏に捨てられちゃったんですよ」と笑ってすませていたけれど、そうしないと口にすることもできないぐらいに、怖かった。
「クロエ、……お前が望むなら、全員探し出して殺してやる」
ジュリアスさんは相変わらずだわ。
確か、奴隷闘技場から買ってきた日も、同じような事を言っていたわね。
私はジュリアスさんの腕の中で、小さな笑い声をあげた。笑い声と共に体が震えて、目尻から涙が零れた。
「ありがとうございます。……もう、大丈夫なので。でも駄目ですね。ひとりで生きなくちゃいけなくて、強くなったと思っているのに、時々昔の自分に戻っちゃうみたいで。……弱くて、駄目ですね」
「弱いお前ではいけないのか? ……強く在ることが正しい訳じゃない」
「そうでしょうか……、こんな風に甘えたり、泣き言を言ったりして。呆れませんか?」
ジュリアスさんは、泣き喚く女とか嫌いよね。
面倒くさい女も嫌いだと思うわ。そもそもうるさい人間が嫌いだもの。
それなのにこんな風に優しくしてくれるから、狡い、わよね。
「クロエ、俺は強い。だから、お前は弱くて良い」
「どういうことですか、それ」
「……お前が弱かろうが強かろうが、どうでも良い。俺はお前の奴隷だからな。契約がある限りお前に従う。それだけだ」
「……うん。そうですよね。……ありがとうございます」
私はジュリアスさんからそっと離れた。
何だか私だけ勘違いしてしまったみたいだ。
ジュリアスさんは私に買われた。契約があるから一緒に居てくれているだけ。
それなのに、優しくしないで欲しい。好きになってしまう。特別だと、思ってしまいそうになる。
それは怖い。私は臆病で、いつだって失う事ばかりを考えていて、恐れている。
ずっと一緒にいられるだなんて保証はどこにもないのだし、ジュリアスさんの自由を私は、奪っているのだし。
だから、やっぱり駄目だわ。
いつもの調子で笑おうとした。「ジュリアスさんが優しいのはお酒を飲んだせい」だと言って、冗談にしてしまおうと思った。
けれど、目尻から涙があふれて、零れ落ちていく。
「……クロエ」
そっと、頬に手が触れた。
私の頬に伝う涙をジュリアスさんの指先が拭う。
私はごしごしと両手で頬を拭うと、なるだけいつも通りの笑顔を浮かべた。
「帰りましょう、ジュリアスさん。ほら、見て下さい。月が真上にありますよ、もう真夜中です。……明日は、……明日はですね、明日? もう、今日、でしょうか。朝になったら、手に入れた最高級素材を使って、最高に凄い錬金物を作って、それを売って……」
「クロエ。……黙っていろ」
ジュリアスさんはもう一度私の手を引いた。
抱きしめられるのかと思ったけれど、私の体はジュリアスさんの背後へと隠された。
それと同時にばらばらと、石畳を鳴らす何人かの人の足音が真っ暗な広場に響いた。




