縮まる距離と不穏な朝 1
ロジュさんの前にビールの注がれたジョッキが置かれた。
常時口元に微笑みを浮かべているロキシーさんにしては不愛想な様子で「はい、どーぞ」という言葉もどこか棒読みでおざなりだった。
ロジュさんは気にした様子もなく「ありがとう!」と愛想良く言って、一息にビールをジョッキ半分ぐらいまで飲み干した。大柄で筋肉質な見た目の通り、ロジュさんはお酒に強いのだろう。
「あぁ、生き返るなぁ! 死んだかと思ったから、なおさら酒がうまい」
ご機嫌な声音でロジュさんが言った。
ロジュさんは私のお店に来てくれた時に何回か話したことがあるけれど、こうして一緒にご飯を食べると言うのは初めてだ。
そこまで親しい間柄じゃない。ロキシーさんのお店に来ている人たちと私は挨拶をする程度の顔見知りではあるけれど、一緒にご飯を食べる程は親しくない。ロジュさんもその中の一人だった。
「ロジュさんでも勝てないぐらいに、異界の門の門番は強い魔物なんですね」
ジュリアスさんの機嫌が悪いのが気になるのだけれど、ジュリアスさんがロジュさんに挨拶をしようともしないので、私は雰囲気が悪くなるのを危惧してなるだけ明るい声音で言った。
ジュリアスさん、エライザさんには私のお客さんだからと多少の気遣いを見せてくれたのに、ロジュさんには明らかに静かな敵意を向けているわ。縄張りに入られたことに対して怒る狼みたい。
「そうなんだよ、強いんだよ。俺も強いんだけど。……クロエちゃんに俺が強いところ、見せたかった。よりによって死にかけてるところをみられるとか、情けないよな」
「そんなことはありません。命は大事にしないと。無事で何よりでしたよ」
「クロエちゃん……、天使なのか……、やっぱり天使なのかクロエちゃんは……」
「ロジュさん、もう酔いましたか?」
知り合い程度だった時は私と二歳しか違わないのに、大人の男性だなぁぐらいの印象しかなかったのに、ロジュさんは感情表現の激しい子供みたいな人だわ。
涙目になりながら私を見つめるロジュさんに、私は苦笑した。
「俺もジュリアスみたいに、門の魔物をざくっと、ずばっと、倒しているところをクロエちゃんに見せたかった」
「そうなんです。ジュリアスさん強いんですよ、ロジュさん。この間も慧眼のミトラを一撃で倒してくれて、ともかく強くて凄いんです」
ジュリアスさんがロジュさんに褒められた。
傭兵団の団長さんをしているロジュさんがジュリアスさんを認めてくれたのが嬉しくて、私はジュリアスさんに視線を送った。
目が合うと、思いきり舌打ちをされた。
何故なのかしら、今の会話に怒る要素があったのかしら。うるさい、とかかしら。
「クロエちゃん、俺も慧眼のミトラ程度なら、一撃で倒せる」
「そ、そうですか、それは凄いですね……」
ロジュさんは私の片手をそっと握りながら、何かを訴えかける様な眼差しで私を見つめる。
皮膚を通して伝わってくる体温に戸惑う。触れ合う肌にぞわりとした。あまり良い感覚じゃない。
私は極力意識しないようにする。これはただの手だ。ただの男の人の手。
体も大きければ手も大きいわね。皮膚があつくて硬い。褐色の肌に太い骨の形が浮き出ている。私の手の倍ぐらいはありそうだわ。
ただの手だと思いながら観察するためにしげしげと眺めていると、ひゅん、と私の前を銀色の何かが横切り、とすりとロジュさんの目の前のテーブルへと突き刺さった。
テーブルに真っ直ぐに突き刺さっているのは、銀色のナイフだった。
「わぁ……」
「おお……」
私とロジュさんの声が重なる。良く見えなかったけれど多分ナイフを投げたのはジュリアスさんだろう。無闇に人にナイフを投げては駄目だし、ロキシーさんのお店のテーブルに傷をつけてはいけないわ。
注意をしようとした私の口を、ジュリアスさんの大きな手が塞いだ。
「むぐぐ……っ」
ジュリアスさんを注意しようとした言葉はくぐもった声へと変わった。
「……触るな。こいつは、男に慣れていない」
信じられない言葉が聞こえて、私は目を見開く。
ジュリアスさんが私を庇う様なことを言ってくれた。
多分これは、助けてくれたのだろう。私がロジュさんに触られて困っている事に気付いてくれたらしい。どうしよう、凄く、嬉しい。
ロキシーさんのお店を傷つけてしまった事が凄く申し訳ないけれど、それ以上に嬉しくて、どうしよう、私、これじゃあまるで本当に――ジュリアスさんが、好きみたいじゃない。
私の口を塞ぎながら、私の体を引き寄せるようにしてジュリアスさんは私をロジュさんから引き剥がした。
「そう怒るなって。別に俺はお前と喧嘩しに来たわけじゃないんだ、ジュリアス。きちんと話そうと思って……、そうしたらクロエちゃんが可愛くて、つい触っていた。俺は自分に正直なんだ」
ロジュさんは肩を竦める。
ナイフを投げつけられたというのに、怒っている訳じゃなさそうだった。
「お前と話すようなことは何もない」
ジュリアスさんは心の籠らない声で言った。聞いたことのない声音だ。いつものジュリアスさんとは違う。冷たい声。
ロジュさんはテーブルに刺さったナイフを引き抜くと、手の中でくるくると回した。
ジュリアスさんのビールジョッキに入っていた葡萄酒はいつの間にか空になっている。ジュリアスさんの頬はいつものように白い。酔っているというわけじゃなさそうだ。
私の口塞いだまままるで人質のようにしながら立ち上がろうとするジュリアスさんの腕の中で、私はいつもと違う感覚に戸惑っていた。
胸が苦しい。心臓の音がうるさいぐらいに、高鳴っている。
こんなのは違うのに。意識してしまったら、辛くなるのは分かっている。お金は裏切らないけれど、人も物も、信用できないから、人と距離を置くことを心掛けていたのに。
だって、もう一度大切な何かを失くしてしまったら、辛くて苦しくて、私はもう立ち直れないかもしれないもの。
「悪かったって。あぁ、もう、上手くいかないなぁ。異界の門の討伐部隊に勧誘に来たのに、駄目かぁ……」
ロジュさんは深く溜息をついた。
私は聞き捨てならない言葉が聞こえたので、ジュリアスさんの手を引っ張ってなんとか口元から剥がした。
立ち上がったジュリアスさんに背後から抱えられたまま、ロジュさんに尋ねる。
「勧誘? ジュリアスさんをですか?」
「そうそう。あんまりにも強いから、手伝って欲しいなって思って。最近、王国の各地に異界の門が出現しているんだ。騎士団だけじゃ対処しきれなくて、傭兵団にも依頼が来てる。あとは、物好きな冒険者にもな。賞金を払うから討伐して欲しいっていう、国からの依頼がギルドに通達されてるようなんだ。……とはいえ、異界の門を閉じに行くのは危険だし、異界の門までたどり着いたところで門の魔物に殺される兵が後を絶たない」
ロジュさんは先程とは違う真面目な口調で言った。
「そうなんですか。……で、でも、駄目ですよ。ジュリアスさんは私の大切な、ええと、お仕事の相棒、ですし、……危険な事をするのは駄目です」
私はちゃんと否定した。
今日異界の門の魔物を倒しに行ったのはあくまでもロジュさんたちを助けるためで、普段からジュリアスさんにあんな危険な事をして欲しいとは思わない。
あくまでも、私がジュリアスさんを買ったのは錬金術店を大きくするため。お金を稼ぐためだ。
人助けの為じゃない。
「そうか、そうだよな。残念。……ジュリアスを借りるってことは、クロエちゃんも一緒に来ることになるもんなぁ……、クロエちゃんにそんな危ない事はさせられないけれど、でも俺はあれ程強力な破邪魔法を使える人間を初めて見た。クロエちゃんには素質がある」
「ロジュさんは、門の魔物に破邪魔法を使えって言ってましたね、そういえば」
私がジュリアスさんの槍に乗せる魔法に破邪魔法を選んだのは、ロジュさんに言われたからだ。
あの時は夢中だったけれど、初めて唱えたのに、ずっと前から体に馴染んでいるような魔力の巡り方をしていた。
「うん。門の魔物は、異界の怨念の塊と言われていて、ラシード神聖国の異界研究者たちの研究結果では、破邪魔法が有効だって言われてる。神聖魔法と破邪魔法は少し違う。神聖魔法は、世界に巡る力を借りるものだけど、破邪魔法は異界にある天上界に住まう天使の力を借りると言われていて……、熾天使セラフィム。詠唱の時に、名前を呼ぶからクロエちゃんも知っているよな」
「詠唱だけは。……天上界の話も、少しは。授業で習ったので」
自慢ではないけれどセイグリット公爵令嬢だった時代、学園に通っているときの私の成績はかなり良かった。愛想笑いを浮かべあまり自分から話すことも無く、勉強だけは真面目にする。それぐらいしか取り柄のない女だった。
ロジュさんは、知っているとでもいうように頷いた。
「……クロエちゃん。俺はクロエちゃんの二歳年上で、元々は王国騎士団に居たんだ。つまり、騎士科の生徒として、クロエちゃんと一緒に学園に通っていた時代があって、クロエちゃんの事はその時からずっと知っていた。俺が騎士団を辞めた理由も、クロエちゃんが……、なんでもない。……ともかくクロエちゃん程に破邪魔法を使える人間を俺は知らない。だからもし気が変わったらいつでも傭兵団に来て欲しい。ちゃんと給料は払うし、大歓迎だ」
「話は終わりか? あの程度の魔物を殺すために女の力を借りようとするとは、傭兵団が聞いてあきれる。随分と脆弱なものだな」
「なんとでも言ってくれ。異界の門が閉じられずに放置されたら、そこから無数の魔物が湧くんだ。魔物は人を襲う。手に負えない数になる前に、どうにかしなければいけないんだよ。こっちとしては、……お前がどれ程憎かろうが、力を借りたい。見た限りクロエちゃんにしか従わないんだろう、お前。だったらクロエちゃんの力も借りたい。それだけの話だ」
「……魔物から守るほどの価値のある人間が、この世界にはいるのか?」
ジュリアスさんはぽつりと言った。
ロジュさんは深く傷ついたような表情を浮かべる。私も、心に棘が刺さったような痛みを感じた。
「ロキシーさん、ごちそうさまでした。その、ごめんなさい、テーブル、弁償しますので……!」
ジュリアスさんに引きずられるようにして店を出る前に、私は慌ててロキシーさんに話しかけた。
「良いのよ、クロエちゃん。血の気の多い男しか来ない店だもの、テーブルも椅子もしょっちゅう傷つくわよ。それに、中々良かったわ。その調子でクロエちゃんを守ってね、王子様」
ロキシーさんは女神みたいに微笑んで、ひらひらと手を振ってくれた。




