空中散歩と異界の門 3
王国の空を切り裂くように飛んでいたヘリオス君は今は雲の合間を縫うように、やや速度を下げて飛んでいる。翼の羽ばたきは最小限で風を羽で受けるようにして滑るように飛ぶ姿はとても優雅だ。
私は飛竜に詳しくは無いけれど、巨体を支えるためにばさばさと音を立てながら飛ぶイメージが強いので、それに比べたらやはりヘリオス君の動きは洗練されている。
「……軍事的な事はあまりよく知らないんですけど、アストリア王国の騎士団も基本は騎兵だったと思いますよ」
「そうだな。竜騎士が多いのは、隣国のラシード神聖国だろう。国土の半分は砂漠で出来ているから、騎兵では戦えない。竜騎士と移動に優れた魔導士の多い国だ。あまり戦う気はないようだが、アストリア王国よりもずっとあの国は防御が堅い。ラシード神聖国が本腰を入れれば、ディスティアナ皇国など飲み込まれていただろうな」
「ラシード神聖国の方が小さいのに?」
「国土が小さいからといって武力で劣るというわけじゃない。ディスティアナ皇国はそもそもまともな軍隊など有していなかった。……お前に買われるまでは全てがどうでも良かった。……だから、こうして国力や状況について考えるのは初めてかもしれないな。……目の前の戦いに勝てば良い。それだけが全てだった」
国境の森の向こう側に広い砂漠が広がっている。それは黄色い砂の海に見えた。
ラシード神聖国は信仰に支えられた神の国だと、学園の授業で学んだ。皆朝と昼と夜に必ず祈りを捧げ、温厚な方々が多いのだという。
ラシード神聖国では異界の門と異界についての研究が進められていて、異界の門が何なのかをいち早く解明したのもラシード神聖国の異界研究者たちだと習った。
だから、異界の門から溢れてくる魔物たちが死者の怨念だと解明させたのも、ラシード神聖国の研究者である。彼らの中には異界の門の閉じ方を研究するために、門の中、つまり異界に入り戻ってこなかった者も多いらしい。
そんな怖い事をよくやるものだと、授業を聞きながら私は思った。
それから、異界には亡くなったお母様もいるのかしらと考えていた。
「でもジュリアスさん、ジュリアスさんはもう私の……なんというか、……その」
私の奴隷なので、というのは違う気がする。
確かにジュリアスさんは私の奴隷なのだけれど、今はその言葉を使いたくない。
「ええと……、その、……お仕事の、頼りになる相棒なので! もう戦争は終わったので、大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのか分からなかったけれど、ジュリアスさんにとっての辛い時代が終わってくれると良いと思う。
私はきっと良い雇い主になるし、ジュリアスさんは強いので頼りになるし。
「……そうだな。お前の言う通り、終わった事だ」
「そうですよ! もしかして……、ディスティアナ皇国に大切な人とか、います? 私、ジュリアスさんの迷惑になっていたり、しませんか……?」
ジュリアスさんにも婚約者の方がいたかもしれない。
もしかしてジュリアスさんはその方を人質に取られていて、だから只管皇帝の言う事を聞いて戦っていたりとかするかもしれない。
だとしたら、私のジュリアスさんに対する『相棒』という言葉はただの押しつけよね。迷惑でしかないわ。
そこまで考えて、心がずしりと重くなった。
でも、黙っていると何の良いことも無い。気になるのなら聞けば良い。私はエライザさんがジュリアスさんを欲しがったときに何も聞かずに黙っていたから、思い込んで一方的に拗ねてジュリアスさんと喧嘩になってしまった。
同じことは繰り返すべきじゃないわよね。
ジュリアスさんは不思議そうに私を見下ろした。
「いない。迷惑にもなっていない。……クロエ、俺はお前の奴隷で良い」
ジュリアスさんはあっさりと皇国に大切な誰かがいるかもしれないという私の危惧を否定した。
私はほっと息をついた。邪魔になっていなくて良かった。
ジュリアスさんがホントは皇国に帰りたがっているとしたら――私は、契約を終わりにして、帰って貰うつもりでいた。
それを考えると胸の奥に針が刺さったように痛むけれど、仕方のない事だと思っていた。
「相棒、嫌ですか? もしかして相棒枠はもう埋まってます? ヘリオス君が居ますもんね。ヘリオス君は相棒枠じゃなくて愛妻枠だと思ってたんですけど……」
安堵した私は、自分でも苦笑したくなるぐらいの明るい声で言った。
分かりやすいわね、私。ジュリアスさんが傍にいるようになるまでは、こんなに分かりやすい人間だなんて、思っていなかった。
他人となるだけ本音で関わらないようにしていたというのが正しいのだろうけれど。
「お前はうるさいな。少しは静かにできないのか?」
「ジュリアスさんが喋らない分喋ってあげてるんですよ、感謝してください」
「……そうだな」
ジュリアスさんが私の顔を見下ろして、口元に笑みを浮かべた。
それは皮肉げでも小馬鹿にしたような笑みでもなくて、思わず笑ってしまったというような純粋な笑みで、綺麗な顔でそんな風に笑うジュリアスさんは、なんだかまるで同じ世界の人間だとは思えないように見えた。
私は驚いて暫くその顔を見つめていた。
永遠とも思えるぐらいに長い間、私達は見つめ合っていたような気がする。どこを向いても青空しかない世界には、ヘリオス君と私と、ジュリアスさん三人だけしかいない。
地上で起こっている何もかもを忘れて、このまま時が止まってしまえば良い。
そう思ってしまうぐらいには、空の上は静かで穏やかで満ち足りている美しい場所だった。
天上界というのは、こんな感じなのかしら。
異界研究者の方々の説では、異界には怨嗟で溢れた下層と、幸せで満ち足りた天上界があるのだという。罪人たちが落ちるのが下層。良き人間は天上界に昇ることができる。
魔物に成り果てるのは、下層の人々なのだという。
「ジュリアスさん、……それじゃあ、私の奴隷でも相棒でもなんでも良いですけど、私と一緒に錬金術店を大きくしましょうね? ヘリオス君が二、三人、飼えるぐらいの広い敷地の家を建てるのが目標です」
沈黙が気恥ずかしくて、私は口を開く。
うるさいと言われるかと思ったけれど、ジュリアスさんは小さく頷いてくれた。
「……ヘリオスにも、嫁が欲しい。つがいになれば卵ができる。飛竜は卵を生涯一つきりしか産まない。無事に育てて、騎乗用の飛竜をもうひとつ作りたい」
「じゃあ三人ですね。大きな庭が必要ですね、別に王都に住まなくても良いのかなって、空を飛んでいたら思いました。世界は広いですね、ジュリアスさん」
ジュリアスさん、飛竜の話になると生き生きしてるわね。
私はジュリアスさんが嬉しそうなのが嬉しかった。色々あったけれど、全ては過去のこと、終わった事だ。
これからは私たちは自由で、なんでもすることが出来る。
だから、大丈夫。
エライザさんに言われた言葉は確かに私の心臓に大きな傷をつけた気がしたけれど、もう大丈夫だと思う事ができた。
「……世界は広い。そうだな」
ジュリアスさんは、初めて知ったとでもいうように、私の言葉をかみしめるように繰り返した。
「ジュリアスさん、そういえばどうして飛竜の卵を育てたんですか?」
「……昔、父親が殺される前、……俺がもっと幼い時だ。ラシード神聖国に何かの用事で行って、父が俺に土産として買ってきた。育てるのが難しいと言われたから、絶対に育て上げると決めて……、それで、ヘリオスが産まれた」
「ジュリアスさん、負けず嫌いですね」
「無理だと言われると、やり遂げて見返してやりたくなるものだろう」
「そういうものですか? 私は結構、諦めちゃいますね」
「お前はそれで良い。無理をして傷つく必要はない」
「……昨日からやけに優しいですね」
私は俯いた。
赤くなった顔を見られたくなかったからだ。




