空中散歩と異界の門 2
王都の門から外に出て、街道から逸れて草原まで辿り着く。
ジュリアスさんの手を離して突然走り出したことを謝ろうと思った。
けれど私の手はジュリアスさんの手に強く握られた。腕ではなく、手のひらを握り締められる。ジュリアスさんの手は大きくて、私の手のひらはすっぽりとおさまった。
力が強いので少しだけ痛い。
「来い、ヘリオス!」
ジュリアスさんは左手の薬指に嵌められた飛竜の指輪を空に掲げるようにしてヘリオス君の名前を呼んだ。
指輪は光り輝き、宝石から立ち上る光は、空を貫くような光の柱となった。
ヘリオス君の姿が光の真上に現れる。大きな羽と流線型の引き締まった体つきのヘリオス君は、ばさりと空中で自由を謳歌するようにして羽ばたいた。
そのまま私たちに向けて急降下してくる。
かなりの速さで真っ直ぐ降りてくるヘリオス君の姿に戸惑っていると、私の手をジュリアスさんが強く引いた。
腰を抱えるようにして片手で抱き上げられる。ジュリアスさんは急降下してくるヘリオス君の手綱を掴んだようだ。ようだ、というのはよく見えなかったからだ。
目を白黒させていると、あっという間に私はジュリアスさんに抱えられるようにしてヘリオス君の背中の上に乗っていた。
手綱を掴み地面を蹴って高く飛び上がって、背中に跨ったような気がする。
私は反転しぐるぐる回る景色に「ぅあ……っ」と色気のない悲鳴をあげることしかできなかった。
真っ直ぐ急降下してきた勢いと同じぐらいの勢いで、ヘリオス君は急上昇していく。
しっかり鞍に座っているジュリアスさんに比べて私の体は不安定だ。ジュリアスさんに横抱きにされるようにして、足がぶらぶらと空中に浮いている。
ヘリオス君の体に装着されている馬具は、衝撃軽減と防御の壁、肉体固定の追加効果が施されている錬金馬具だと、この間ヘリオス君に乗ってみて気づいた。
ちょっとのことじゃ落ちないようにできているとわかっているのにほぼ直角の角度で急上昇していくのは、視覚的に結構怖い。
「ジュリアスさん、落ちる、落ちます……っ」
「落ちない。怖いならしがみついていろ」
ジュリアスさんが落ち着いた声音で言って、片手で私の体を抱いた。それだけでは心許なくて、私はジュリアスさんの腰にしがみつく。「動くな」と怒られたので、なるだけ動かないように体を縮めた。
かなりの速度で上昇しているのに体への負担も衝撃も、ほとんど感じない。ぐんぐん景色が小さくなっていく。青空の中に吸い込まれていくようだ。雲を突き抜けて空高く上昇すると、ヘリオス君は得意げに「キュ」と鳴いて大きくぐるりと一周旋回した。
上昇が収まりヘリオス君の角度が平らになったので、私はほっと息をつく。
もう王都の街が豆粒ぐらいにしか見えない。先程まであの場所に立っていたのが嘘みたいだ。エライザに絡まれていたことも、ジュリアスさんを引っ張って走って逃げたことも、本当にあったことなのかと疑いたくなってしまうほど、ヘリオス君の背中から見る景色は現実離れしている。
私はジュリアスさんにしがみついていた腕の力を少し緩めた。
前回乗せてもらった時はジュリアスさんの後ろ側で、乗り心地が良過ぎて寝ちゃったんだったわね。
気づいたら落ちないようにとジュリアスさんの正面に抱えられていた。
今回はなんというか、横抱きにされている。所謂お姫様抱っこという形に近い。ジュリアスさんは女性を荷物みたいに抱えるか放り投げることしかできない残念な人だと思っていたのに、衝撃的だわ。
私はジュリアスさんの精悍な顔を見上げた。色の違う瞳が真っ直ぐ前を見つめている。どことなく楽しそうに口角が吊り上がっているのは、ヘリオス君と飛べて嬉しいからだろう。
金色の髪が風に靡いて煌めいている。それは威風堂々とした戦場の黒太子の姿だった。
「……今日は特に目的はないんだろう、クロエ。好きに飛ばせてもらうぞ」
「は、はい、……どうぞ、ご自由に……っ」
ジュリアスさんが視線を私に向ける。
ぱちりと目が合った。もしかして今私、ジュリアスさんに見惚れていなかったかしら。
慌てて視線を逸らしてこくこく頷いた。少しだけ声が上擦った。動揺していることに気づかれているだろうけれど、ジュリアスさんは何も言わなかった。何故だかほっとした。
昨日から、私は少しおかしいみたいだ。
ジュリアスさんに対して拗ねたり怒ったり、かと思えば安心したり、嬉しくなったり。
嵐の到来を予感している時のように、胸がざわざわする。
窓を全部閉めて、ランプを準備して、食料を準備して、がたがたと風で軋む窓や外の音を気にしている時みたいな落ち着かなさ。でも、嫌なものじゃない、不思議な感覚だった。
なんだろう、この気持ち。
初めて感じるものだ。よく、わからない。
ジュリアスさんは軽く手綱を引いた。それだけで全て伝わっているかのように、ヘリオス君は長い首を真っ直ぐに伸ばす。首と体と尻尾が直線に伸びて、大きな羽が水平になった。
ばさばさと羽ばたいているわけじゃないのに、ぐんぐんと速度が上がっていく。高く飛び上がっていた上空から空を滑るようにして高度を落とし、何度か大きく翼を羽ばたかせて高度を上げることを繰り返す。
最初は「ひえ」とか「うわわ」とか言っていた私だけれど、だんだん景色を見る余裕も出てきた。
錬金馬具の効果はかなり確かなもののようだ。どれほど飛んでも体に負担はなくて、安定している。落ちるという感覚もない。あるとしたらそれは視覚的なもので、私の思い込みだ。頭がくらくらしたり、体が浮いているような感じは全て錯覚のようだった。
ジュリアスさんは私の腰に手を回してくれている。私も掴まるところがないのでジュリアスさんの背中に腕を回して、黒いローブを掴んでいる。折角しがみついていても良い許可を頂いたのでお言葉に甘えることにした。
森や、街や、川。今まで見たことのない王国の景色が眼下に見え、風を切る音とともに目まぐるしく景色が変わっていく。
深い森の上を一瞬で通り過ぎ、テーブル状の切り立った崖の上に広がる平地から流れ落ちる巨大な滝の横を舞い上がる。水飛沫が体にかかるのがヘリオス君は心地良さそうにくるくると回った。
北の魔の山の雪深い山頂の上を横切って、人で賑わう港町の上をゆったりと飛ぶ。ヘリオス君の姿に気づいた子供達が手を振っているのが見える。アストリア王国は外洋に面している。港町の先にある広大な海の上を飛ぶと、世界は水だけになった。ぐるりと旋回して街に戻る。さらに飛び上がると隣国に広がる砂漠が見える。
ジュリアスさんはずっとこんな世界を見てきたのかと思う。
空の上はどこまでも自由なのに、その筈なのにーージュリアスさんは生まれてからずっと誰かの奴隷だったと言っていた。
ヘリオス君と二人きりで空を飛んで来たジュリアスさんは、捕縛されてヘリオス君を失った時どれほど絶望しただろう。
嬉しそうに自由に空を駆けるヘリオス君と、楽しそうなジュリアスさんを見ていると、私も幸せな気持ちになった。
ーー私は、ジュリアスさんとヘリオス君の自由を奪っているのかもしれない。
不意に、そう思う。
奴隷というものはそういうものだ。お金で人を買うという行為なのだから、当たり前だけれど褒められたものじゃない。
仕事のために強い人が欲しいと思って軽い気持ちでジュリアスさんを買った私だけれど、ーーこのままで良いのかしらという感情も、ふと胸に湧き上がってくる。
「クロエ、ヘリオスは速いだろう」
ジュリアスさんが言った。少しだけ得意気な声音だった。
「……はい。普通の飛竜の飛び方と、少し違う気がします。この速さで戦場に飛び込んできたら、さぞ怖かったでしょうね」
「飛竜は攻撃にも離脱にも優れている。機動力も、騎馬よりずっと上だ。……扱いが難しいから、一部隊を作るというだけでかなりの手間がかかる。皇国には、まともな竜騎士は俺だけだった」
私は戦争や騎士については詳しくないのだけれど、そういうものなのかしら。
過去を懐かしむように話すジュリアスさんの声に静かに耳を傾けた。




