空中散歩と異界の門 1
一方的に私が怒ったり拗ねたりしていただけな気もするけれど、私とジュリアスさんは仲直りをした。
ともかく仲直りをしたので、いつものようにジュリアスさんは私のベッドで眠って、私は部屋に運び込んだソファで丸まって眠った。
いつになったら私のベッドを返してくれるのだろうとは思うけれど、ジュリアスさんが寝やすいのなら良いかとも思う。
これは大人げなく怒ってしまった申し訳なさからで、お詫びの印にベッドぐらいあげても良いかという気になっている。私の方が小さいし、ソファでも十分に眠ることが出来る。ジュリアスさんがソファで眠ったら多分足とかがはみ出してしまうので、私の方が適しているのだ。
だからこのままでも良いかなと、薄暗い自室のソファに寝転がりながら思った。別にジュリアスさんと同じ部屋で眠りたい訳じゃない。多分、違う。
多分違うのだけれど、でも「俺はお前の傍にいる」という言葉が何度も頭の中で反芻される。
それは「奴隷として」という意味なのよ、私。ジュリアスさんの事だから他意は無いに違いない。奴隷として傍にいる。契約がある限りは。
そうよね。そう。――でも、胸の奥があたたかい。
今まで、誰も私にそんなことは言ってくれなかったもの。
優しかったお母様が死んでしまって、継母とアリザが来てから、私は愛想笑いを覚えた。まともに自分の意見なんて言わず、何を言われても作り笑いを浮かべて、その場を凌いで逃げ続けていた。
シリル様にとって私は、大人しくて文句を言わずいつも笑っている都合の良い婚約者でしかなかった。気づけばシリル様は休日の度にアリザと出かけるようになり、晩餐会のエスコートも不慣れだから可哀想だといってアリザを優先するようになった。
私は――ずっと、道化だったわよね。
嘘吐きで、自分が無くて、――ひとりぼっちだ。
でも、じゃあ今の私は本当の私と言えるのかしら。今を時めく美少女錬金術師クロエちゃん、だなんて本当にそう思っている訳ないじゃない。でも、そうやって自分を鼓舞しないと立っていられなくて。
ジュリアスさんは私を「凡庸な顔の女」と何度も言っていたけれど、それは私の嘘に気付いていたからなのかもしれない。だってジュリアスさんは私よりもずっと大人で、ずっと、大変な思いをして生きてきた。
「傍に、いてくれるんですか……?」
真っ暗な部屋の天井を見つめて、私は小さな声で呟いた。
きっと聞こえていないだろう。ジュリアスさんは眠っている。
「……俺には奴隷の刻印が刻まれ、お前とは魔法錠による契約も為されている。お前が不要だと言うまでは傍にいる」
囁くような小さな声がした。
私はがばっとソファの上で起き上がる。
恥ずかしいことを言ってしまった。聞かれるなんて思わなかった。頬に熱が集まる。
暗闇で良かった。ジュリアスさんはベッドに横になったままだ。
寝言かしら。それとも空耳かもしれない。ふ、と息を吐いて横になろうとした私の耳に、もう一度声が聞こえた。
「クロエ、眠れないのなら此方に来るか? お前が入る程度の広さはある」
ジュリアスさんが本気なのか冗談なのか良くわからないことを言った。
多分揶揄われているのだろう。ここで私が優しい言葉に誘われるまま一緒に寝ようとしたら、きっとぽいっと投げ捨てられるに違いない。
「それ、もともと私のベッドですし。……大丈夫ですよ、私小さいんでソファでも余裕で寝られますよ。お気遣いありがとうございます。……というか、なんで聞いてるんですか、乙女のひとりごとは聞かなかったことにするのが礼儀ですよ」
「夜中だというのに元気だな、クロエ。なによりだ。俺は眠い」
「今小馬鹿にしましたね……。ジュリアスさん、明日はヘリオス君とお散歩して、ロキシーさんの食堂でご飯食べましょう。美味しいんですよ、ご飯。あと、ロキシーさんは美人です」
私はさっきの言葉を聞かれていた恥ずかしさを誤魔化すために、取り繕うように明るい声で言った。
「あぁ、……早く寝ろ。寝不足で居眠りをしたら、ヘリオスの背中から落ちる」
「そうですね。……おやすみなさい、ジュリアスさん」
「あぁ、おやすみ」
もう一度ソファに横になった私の耳に、ジュリアスさんの挨拶が聞こえた。
おやすみとかおはようとか、そういう挨拶が、妙に愛しく思える。
くすぐったくて、ほんのり温かい。ずっと、こんな穏やかな夜が続けば良いのに。
私とジュリアスさんの関係はお金での契約で、きっと普通の人たちから見たら歪んでいるのだろうけれど、それでも契約だからと言い切ってくれるジュリアスさんの言葉は、私にとってはとても安心できるものだった。
翌日は、いつもと同じ朝になる筈だった。
朝食を摂って、今日は店をお休みにしてヘリオス君の散歩に行こうとしていた矢先の事。
お店の扉を閉めて王都の外れに行こうとしていた私達の前に、豪華な馬車が一台停まった。
そこから降りてきたのは、昨日のコールドマン商会のお嬢様であるエライザさんだった。
エライザさんは従者に重たそうなトランクを持たせて、馬車から降りてきた。
今日も煌びやかな薄水色のドレスに、宝石王の娘に相応しい目に眩しい宝石を首や手首につけている。頭飾りだけでも五十万ゴールドはしそうな一品だった。
ジュリアスさんは総額一千万ゴールドの男だけれど、エライザさんも総額五百万ゴールドぐらいしそうな装いをしている。
「ごきげんよう、ジュリアス様!」
エライザさんは私を完全に無視して、私の隣に立っているジュリアスさんに話しかけた。
ちなみに私は今日はいつも通りのエプロンドレスである。今日は黒だ。因みに黒いエプロンドレスを着ていると、街の人たちが「明日は曇りだね、クロエちゃん! 黒はちょっとなぁ」と不満そうにするので、あまり着ないようにしている。
ジュリアスさんは今日は散歩に行くだけなので、いつもの黒いローブ姿である。首元がゆるっとしているので思いきり魔法錠の首輪と、首の裏側にある奴隷の刻印が見えている。
「……クロエ、行くぞ」
エライザさんが私を無視したように、ジュリアスさんもエライザさんを無視した。
無視したりされたり合戦である。私は不毛な戦いに終止符を打つべく、仕方なくエライザさんに挨拶を返すことにした。
本当はジュリアスさんのように無視しちゃいたいのだけれど、コールドマン商会はお金持ちなので、また依頼をくれるかもしれないしなぁと思うとそう無下にもできない。
「エライザさん、こんにちは。今日は生憎お店はお休みなんですけど、どうしました?」
私もしようと思えば「ごきげんよう」と言って貴族の挨拶ができるのだけれど、しなかった。
いつかジュリアスさんが、私が貴族言葉を使ったら不機嫌になってしまったからだ。似合わないからやめろと言われた。私もそう思う。
「錬金術の店になんて用事はありませんわ。昨日のお約束を果たしにきましたの」
「約束ですか……」
「はい! クロエさんの倍払えばジュリアス様を売ってくださるのでしょう? 倍とは言いません、三倍持ってきましたのよ。総額三千万ゴールドです。いかがかしら?」
「……三千万ゴールド」
庶民が一生働いても稼げない額でエライザさんはジュリアスさんを買うと言っている。
従者の方が持っている重たそうなトランクには三千万ゴールド入っているのだろう。
コールドマン商会にとっては三千万ゴールドなんてはした金なのかもしれないけれど、それにしても随分高値がつけられたものだわね、ジュリアスさん。
エライザさんはそんなにジュリアスさんが欲しいのかしら。
確かに姿形は綺麗だけれど、飛竜愛好家だし偉そうだし皮肉屋だしすぐに人を殺したくなるみたいだし。扱いはとても大変で、でも時々優しいのが少し、狡いと思うわ。
途中からかなり私情が混じっちゃった気がするけど、ともかくそんな人なのに。
エライザさんはジュリアスさんのどこがそんなに良いのだろう。やっぱり見た目かしらね。見た目は大事かもしれないけれど。
「クロエ」
ジュリアスさんの眉間に深い皺が寄っている。私はジュリアスさんを見上げてふるふると首を振った。
三千万ゴールドという額に吃驚しただけで、別に揺らいだ訳じゃないのよ。三千万ゴールドに目がくらんでジュリアスさんを売ったりはしないわよ。
昨日の今日で、そんなことをするような節操なしじゃないわよ、私は。
そこまで考えて、おかしいなと思う。
私はずっと大切なのは信じられるのはお金だけだと思っていたのに、ジュリアスさんをお金に目がくらんで売ったりしないだなんて。おかしいわね。
愉快な気持ちになって私はくすりと笑った。
「何がおかしいの、錬金術師さん?」
エライザさんの事を馬鹿にして笑っていると思われてしまったのかもしれない。
きつく睨まれて、私は口元に手を当てた。
「ごめんなさい、違うんです。……ジュリアスさんは商品じゃないので、売れません。昨日言ったとおりですよ」
今度は迷ったりしないわ。私はジュリアスさんを売ったりしない。
ジュリアスさんは迷うなと言っていた。私は嫌な事は嫌だと、はっきりと言う事ができる。だって、私は美少女天才錬金術師クロエちゃんだ。気が弱くて大人しいばかりだったクロエ・セイグリットは三年前にいなくなったのだから。
私の言葉に、エライザさんは腕を組んでお返しとばかりに私を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「お父様が、錬金術師さんはお金に困っていると言っていたわ。セイグリット公爵家の長女だったんですってね、あなた。三年前にこの広場で首を落とされたセイグリット公爵の娘だというのに、よくもまあ堂々と父親が殺された広場で店を出せるものだわ。守銭奴は血も涙もないというけれど、そのとおりね」
「……そんな言葉で私が動揺すると思ったら大間違いですよ。……だって、知っていますから」
私は溜息をついた。
そんな事調べればすぐわかる。三年前にセイグリット家に起こった事を当事者の私が全く知らないでいると言う方が難しい。
私は見ていないけれど、確かにお父様は王都の噴水広場。この大通り商店街のある中央広場で処刑されたらしい。そんな生々しい跡なんてこれっぽっちも残っていないけれど。
清廉な水を絶え間なく吹上続ける噴水のある、明るく美しい場所なのに。
「ともかくあなたはお金に困っているんでしょう? ジュリアス様を売ってくれたら、三千万ゴールドをあげるし、コールドマン商会があなたのお仕事を斡旋してあげても良いのよ? それにあなた。調べさせたから知っているわ。……捨てられたときに裏通りで、……ねぇ、言っても良いのよ? ジュリアス様に知られたくないでしょう?」
「……っ」
私は唇を噛んだ。
違う。正確にはあれは未遂だし、――酷い事は起こらなかった。
ナタリアさんが助けてくれたから私は、ほとんど無事だった。
背筋に冷や汗が流れる。喉が渇く。
「……クロエ。……この女を殺せと命じろ。一秒で済ませてやる」
「ジュリアスさん、駄目ですよ。……私は大丈夫なので」
ジュリアスさんが物凄く怒っているのが分かり、私の背中を別の冷や汗が流れた。
今は嫌な思い出よりも怒った冷酷無慈悲な黒太子ジュリアスさんの方が問題だわ。
ジュリアスさんはいつだって本気なので、命じたら多分本当にエライザさんを殺す気がする。命じなくても殺す気がする。それは駄目だわ。あっという間に犯罪者よ、私達。そうしたらジュリアスさんと一緒に暮らせなくなってしまう。
「そんな大昔の事どうでも良いですよ。私は師匠に助けて貰って、今じゃ立派な美少女天才錬金術師です。さぁ、帰ってくださいな。ジュリアスさんは売り物じゃないですし、どんなにお金を出されても売る気はありませんので!」
私はきっぱり言った。
それから、エライザさんに背を向けると、ジュリアスさんの手を掴んで王都の外れまで一目散に走って逃げた。
走る必要はなかったかもしれないけれど、一刻も早くエライザさんから離れたかった。
エライザさんはアリザと少し似ている。ああいう人は苦手だ。
ジュリアスさんは何も言わずに大人しくついてきてくれた。多分私よりも走るのが早いと思うけれど、私に手を引かれるまま付き合ってくれるところが結構律儀だ。




