クロエ・セイグリットについての考察 2
魔法錠で両手を不自由に繋がれた俺の、手枷から伸びる鎖を握りしめてクロエは奴隷闘技場から出た。
石造りの薄暗い奴隷闘技場の外には、透き通るような青空が広がっていた。
夜明けから恐らく左程時間は経っていない。時間の感覚も麻痺していたが、恐らく早朝なのだろうということは分かる。円形の建物の正面は開けた場所だ。立木が並び、その奥には橙色の屋根の家々が連なっている。
人の気配はない。早朝に奴隷闘技場を訪れるような奇特な人間は、クロエぐらいしかいないのだろう。
「ジュリアスさんが危ない人だったら困るので、手枷は外してあげられません。ごめんなさい」
俺を見上げて、クロエは申し訳なさそうに言った。
俺は返事をしなかった。特に言うべきことは思い浮かばなかったからだ。
片目に映る景色は未だ薄ぼんやりとしている。至近距離に寄れば焦点は合うが、回復するだろうか。クロエは強いからという理由で俺を買ったようだが、焦点の定まらない片目ではまともに生活できるのかどうかも怪しい。
「奴隷闘技場から大通り商店街にある私の家までは、少し遠いんですよね。馬車で帰ろうかなって思ってたんですけど、帰りもお願いしますって言ったのに乗り合い馬車のおじさんは奴隷闘技場が怖いって言って逃げちゃうし。仕方ないので、帰還の鍵を使いましょう」
一人でぶつぶつと言って、クロエは肩から下げている簡素な布鞄から金色の鍵を取り出した。
「これは帰還の鍵です。クロエちゃんの錬金部屋に一瞬で帰れるという優れもので、残念ながら使い捨てですし、非常に高級なのであんまり使いたくないんですけど、……ジュリアスさんに鎖を繋いで街を練り歩くような趣味はないので、奮発して使っちゃいましょう」
長い説明のあと、クロエは鍵を何もない空間に向かって回す仕草をした。
すると、ガチャリという音と共に、透明な扉が現れた。開かれた扉の先には別の世界が広がっていた。
それはさほど広くない部屋だった。
部屋の奥には大きな黒い釜がある。手前には長椅子があり、カウンターテーブルが一つと、無造作に置かれたトランク。果物の形をしたランプがいくつか。
部屋の隅には書棚が並び、分厚い本がひしめいている。薄ぼけてはいたが、奴隷闘技場よりも色が多いせいか、物の形がはっきりしていた。
「ジュリアスさん、椅子に座ってくださいな。ジュリアスさんは背が高いので、座ってくれた方が話しやすいです」
クロエは一人がけ用の椅子をずるずるひっぱってくると、部屋の中央に置いた。
拒否する理由もないので、椅子に座る。
興味深そうにしげしげとこちらを眺める瞳をもっとよく見ようと目を細めると、睨まれたと勘違いしたらしいクロエは、両手を腰に当てると胸を反らせた。
なるだけ偉そうな態度をとろうとしているようだ。
野うさぎが虚勢を張っているようにしか見えず、俺は口元を笑みの形に歪めた。
クロエの説明によると、セイグリット家はクロエの妹とやらに悪事を告発されて取り潰された公爵家だったらしい。
長らくアストリア王国に侵略の手を伸ばしていたディスティアナ皇国で将をしていたが、他国の貴族事情については左程詳しくはない。じわじわと国境付近の街を掌握し占拠は行っていたが、劣勢が続く他の戦場へと加勢に行くと占領した土地は取り返されていて、兵の数も減っている。そんなことの繰り返しだった。
七年という月日、ヘリオスと共に戦地を転戦して回っていたが、いっこうに戦争が収束する様子は見られない。皇帝からのいつまで時間をかけるつもりかという叱責の手紙を握りつぶし、何度も火にくべた。兵も武器も、手を広げ過ぎて中途半端な数しかない。俺が出向けば勝ちに導けることは分かっていたが、結局それは多少の領地を広げる程度にしかならなかった。
一つ所に兵力を固めてひとつずつ国を落としていけば良いものを、それをしなかった愚策だ。ディスティアナ皇国の周辺には敵国しかない。守りが手薄になった領地に攻め込まれ、奪った土地は奪い返される。皇国の中央の貴族たちは肥え太っていたが、国境に近づくほどに貧困による治安の悪化は顕著だった。
アストリア王国でも内情はそう変わらないのだろうが、けれど戦場に立つのは良く統率のとれた騎士であるというだけで皇国よりはまともなのだろう。ただ、セイグリット公爵という名前は聞いたことがなかった。
俺も同じ公爵姓だが、俺の場合は名ばかりのものだ。俺はただの、皇国の奴隷に過ぎない。
クロエは第一王子シリル・アストリアの婚約者という立場でありながら、三年前に投獄されて王都に捨てられたのだと言う。どこか他人事のように軽薄な口ぶりで語る様子が、痛々しかった。
俺を買い取った新しい主であるクロエの為に、その妹とやらと、シリル・アストリアを殺してやろうかと思った。けれど、クロエは復讐は望まないと言う。
それならば――俺は何をするべきなのだろう。
湯船に浸かり、丁寧に俺の髪を洗っているクロエの指先の心地良さに目を閉じながら考えていた。
他人に触られることは好きではなかったが、クロエの小さく細い指先は不思議と受け入れることができた。
まともなベッドで眠ったのは、いつぶりだろうか。
野営地ではヘリオスの腹に体を預けて眠る事が多かった。公爵家には自室もあったが、滅多に戻ることは無かった。奴隷闘技場ではじゃりじゃりと硬い土の上に座り込んで微睡むことはあったが、寝首をかこうとする馬鹿も多かったためまともに眠った記憶は無かった。
クロエのベッドは柔らかく、温かい。酷い眠気を感じた。クロエは怒っているようだったが、本気で嫌がってはいないようだった。人が良いのだろう。
目覚めると、虚のまま放置していた右目に赤い義眼が嵌められた。
特に痛みも何もなく、目の中へと義眼を入れられる。引き攣れた皮膚を治すために治療魔法がかけられた。
何度か瞬きを繰り返す。あっという間に、驚くほどに視界が鮮明になった。
はっきりとはものが見えなくなっていた左目の視力も義眼が補強をしてくれているようだった。
鮮明になった視界に映ったクロエの姿は、やはり愛らしかった。
本人が言うような美少女でも妖艶な美女でもないが、控えめな色合いの春の花のような地味ながら可愛らしい顔立ちをしている。
クロエは俺を買った主であり、俺はクロエの奴隷。
こんな無害そうな女が俺の主人。
実際クロエは無害な女だった。復讐は望まず、俺に対しても高圧的な態度をとる事もなく、むしろ甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。長く命を取るか取られるかといった生活を送っていた俺は、多少の戸惑いを感じた。
失われた瞳も、――もう二度と会えないかと思っていたヘリオスも、クロエが取り戻してくれた。
クロエに買われた日、俺は自分の死を受け入れていた。
一度死んだつもりの命だ。クロエの為にいつでも捨てるつもりではいるが、命を大事にしろとうるさいので最近は少しはそのことについても考えるようになっている。
いつ死んでも良いと思っていたが、クロエと共にもう少し生きるのも悪くない。
そう思っていたのに、なんとかという商人の家で俺に纏わりついてきた女にクロエが俺を売ろうとしているのを感じて、苛立った。
クロエは普段は人の良い阿呆の癖に、今日に限ってはやたらと不機嫌になったり、悲しそうにしている理由が分からずに、クロエの部屋で一人きりになってどうしてなのかと考えていた。
できることなら、何をするわけでもないが傍に居てその姿を見ていたい。
クロエはお人好しだ。いつ誰かに騙されるとも限らない。俺を買ってしまった事で、面倒事に巻き込まれる可能性もある。何よりも、よく喋るクロエの耳当たりの良い声を聞いていると落ち着いた。
良く変わる表情や、忙しなく動き回る姿を見ている事は好ましいと感じた。
あぁ、多分――大切、なんだろう。
ヘリオス以外に親愛を抱くのは初めてだ。俺と同じ形をした人間は嫌いだった。クロエは俺と同じ形をしているが、俺と同じではない。上手く説明できないが、そう思う。
いつまでも機嫌が直らないクロエの様子を見に行くと、錬金部屋の長いすに小さく丸まってクロエは眠っていた。
小さく苦し気な声が聞こえて、顔を覗き込む。
「……ぃや、……ぃや、……たすけて……」
悲壮な声音に、俺は眉根を寄せた。
長い睫毛が涙で光っている。華奢な肩や腕が、震えていた。
「……クロエ」
長椅子の横に膝を突いて、名前を呼んだ。
ぴくりと瞼が動く。目尻に溜まっていた涙が頬を伝って流れ落ちていく。
時々寝苦しそうに、苦し気にしているのは知っていた。けれど、泣いているところを見たのは初めてだ。
苦しい事があったのだろう。王子の婚約者に選ばれるほどの良家の娘が、一人きりで街に捨てられて、何事もなく無事でいられるとは思わない。
命じてくれるのなら、いつでもお前を苦しめた人間たちを殺してやることができるのに。
恐る恐る、頬に触れる。指先で涙を拭い、濡れた指を舐めた。
口付けたいような気がした。
弱っている女を見て欲情するなど、血迷っている。
俺は額に手を当てると頭を振った。クロエを起こそう。
いつも通り話をして、きちんと伝えよう。俺はクロエの傍にいる。契約がある限りは、ずっと。




