クロエ・セイグリットについての考察 1
ざわざわとやけに騒がしい。
奴隷闘技場が騒がしいのはいつもの事だが、今日の騒がしさはいつものそれとは異なっているような気がした。
奴隷闘技場で戦わされる奴隷というのは、殆どが犯罪者か、戦争中に捕まえた隣国の捕虜ばかりだ。当たり前だが、小汚い男が揃っていて、血の気の多い馬鹿ばかりである。
俺はいつものように、奴隷たちに与えられている居室とは名ばかりの牢獄のような場所で、怠惰に日々を過ごしていた。三年前にディスティアナ皇国で命令を受けた兵士たちに捕えられたときに、抵抗をした俺は捕縛に来た兵士たちを何人も切り殺した罪で片目を抉られた。
それからは残った左目だけをよすがに生きてきたが、最近では栄養不足もあってか景色が霞んでいるときの方が多い。
気配と音と殺気を探り、何とかこの三年、敵国に売られてから見せしめのためか連れて行かれた奴隷闘技場で、奴隷剣士としてだらだらと生命を繋いできた。
死ぬ気はなかった。死にたいと思ったことはない。けれどどうしても生きていたいという強い思いもなく、何もかもがどうでも良くなる時は度々あったが、俺を殺せるほどに力のある相手が現れる気配が、今のところなかった。
生きていたのはただそれだけの理由だった。
ざわめきと共に何人かの足音が俺の元へと近づいてくる。
石造りの何もない小分けにされた空間で、俺は鎖に繋がれたまま硬い剥き出しの土のままの床に座って、冷たい壁に背中を預けていた。屋根があって雨がしのげるだけ外よりはまし、という程度の黴臭く埃っぽい場所だ。
復讐を、考えていたこともある。俺を裏切ったディスティアナ皇国になんとしても舞い戻り、敵国に俺を売った皇帝の首をとることを考えたことは何度か。
けれど、だから何になるとも思う。ディスティアナ皇国には何もない。大切な人間は一人もいない。
俺にとっては卵から育て上げた飛竜のヘリオスだけが唯一信頼できる友人であり家族だった。また共に飛べるのなら、他の事はどうでも良い。
だから、どうでも良かった。いつもと違うざわめきも、足音も。そう思って、視線も向けずに目を閉じていた。
「この人が、黒太子ジュリアスさんですね!」
響いたのは、場違いな明るい声だった。
若い女の声だ。それほど高いというわけでもなく、だからといって低いというわけでもない。
明るいと言えば明るいが、耳障りに響く甲高い若い女の声とは少し違う。そんな声音だった。
「黒太子ジュリアスです。停戦協定を結ぶために、三年前に皇国に捕縛され我が国に売り渡された、百戦錬磨の常勝将軍、黒太子ジュリアスです」
男のいやらしい声が続けて聞こえる。
奴隷闘技場の支配人の声だ。両手にごつごつした指輪をこれでもかというほどに隙間なく嵌めて、口を開くと金色の歯が見える、筋肉質で巨大な男。その声を耳にするだけでも苛立ちが募った。
「きっかり五百万ゴールドですよ、クロエさん。ただの錬金術師のあなたに、そんな額が払えるとは思えませんが……」
「買います! 即買いです、なんてお買い得なんでしょう!」
「え……?」
女の声のあと、支配人の戸惑った声が聞こえた。
薄く目を開くと、目の前にひらひらとなびく赤いスカートが見えた。
小柄な女が、支配人と共に俺の目の前に立っている。
春に咲く花のような薄桃色の混じる金色の髪に、赤い布を頭につけている。大きな瞳もやはり花のような桃色で、派手さはないが愛らしい容姿をしている。
とうとう俺の元に天からの使者が迎えに来たのかと思った。やっとこれで終わるのか。誰かに殺されるというわけでもなく、栄養不足のせいで終わるとは、なんてあっけないと自嘲した。
女は布鞄の中から何かをごそごそと取り出した。それは重たそうな袋だった。袋を支配人に押し付けるようにして、女は渡した。
「はい、きっかり五百万ゴールドです。契約書はありますか、契約書。契約書は大事です。持ってきてくださいな。五百万ゴールドで売るっていう契約を違反したら、クロエちゃん特製契約違反取締爆弾が炸裂するので、気を付けてください」
にこにこ笑いながら、女はしつこいぐらいに契約書と連呼した。
契約違反取締爆弾とは、一体何だ。
よく分からない単語に俺は眉を顰める。女は自分のことをクロエ、と呼んだ。おそらくそれが名前なのだろう。
死ぬのは初めてだから天からの使者を見るのも初めてだが、死人を連れていくにも契約書とやらが必要なんだなとどうでも良い事を考える。
「け、契約書ですね……! クロエさん、しかし本当に良いのですか? この男は残虐な黒太子ジュリアスなんですよ。何人も人を殺している、冷酷な男です。あなたのような可憐な女性に扱えるような人間ではありませんよ」
焦ったように支配人は言った。
クロエという名前の女は、両手を胸の前で軽く握りしめた。
「支配人さん、私は希代の天才美少女錬金術師クロエちゃんなんですよ! 命令に従わない凶暴な人だったら、それなりに、相応な、錬金物などを作ってなんとかします! ちなみに構想は考え済みです。この間お散歩しているときに、凶暴なわんちゃんにつける口枷を見ていたら思いついたんです。口にはめ込む形で、棒状で、悪い事をすると電撃が流れるようなもので、余計な事は話せないようなやつです。ほら、大丈夫そうでしょう?」
「クロエさん、……私も長らく奴隷闘技場の支配人をしてますが、そんな残酷なものを奴隷剣士たちにつけようと思ったことはありませんよ……」
「そうなんですか?」
「まぁ、あなたがそこまで言うなら良いです。正直、ジュリアス・クラフトはあまりにも強すぎて扱いに困っていました。私は強い者には敬意を払いたい人間なので、ここで終わらせるのは惜しいなという気持ちもあります。クロエさんがどうしてもというのなら、売ってさしあげましょう」
「わぁい、ありがとうございます! とっても強い人がちょうど欲しいなって思ってたんです。そうしたら奴隷闘技場でジュリアスさんが売りに出されてるって言うじゃないですか。食堂のロキシーさんが教えてくれたんですよ。これは運命だと思って買いに来てよかったです。もう売れちゃったんじゃないかと思ってたんですよ」
女は場違いに明るい声音で言った。よく喋る女だった。
不思議と、その声を聞いていても苛立たなかった。よく喋る人間は好きではないが、女の声が耳当りが良いせいなのかもしれない。
「値段もありますし、わざわざ敵国の将だったジュリアスを買いたいと思う物好きは中々いませんよ。王家からは、ジュリアスの奴隷闘技場での扱いは私に一任されています。つまり、売っても良いということ。クロエさん、どうぞお持ち帰りください。……あなたなら、大丈夫かもしれません」
「どういう意味ですか? クロエちゃんが美少女で優秀で天才な錬金術師だから大丈夫ってことなら納得です。クロエ錬金術店には、奴隷闘技場を盛り上げる素敵な錬金物も揃ってますので、是非買いに来てくださいね! 支配人さんの指にいっぱいつけてる宝石も、錬金術があれば立派な錬金物に早変わりです。どんな能力でもつけ放題、お金次第で!」
「それは、……是非、そのうち。さぁ、クロエさん。魔法錠の権利をあなたに譲ります。使い方は分かりますか?」
「はい。これでも魔法もそこそこ使えますので。私の名前で契約を結び直せば良いんですよね?」
「そうですね。契約の内容には気を付けて。哀れだと思って解放でもしようものなら、寝首をかかれないとも限りませんからね」
「心配してくれてありがとうございます。奴隷闘技場なんて怖いところって思ってたんですけど、支配人さんが案外普通の人で良かったです」
どこが、普通の人だ。
俺は心の中で舌打ちをした。
この女は頭が悪いのではないだろうか。数々の奴隷を殺し合わせて、それを見世物にして金を稼いでいるような男が、普通の人間の筈がないだろう。
「ジュリアスさん、ジュリアスさん。こんにちは!」
女は俺に何の躊躇いもなく近づいてくると、俺の前にしゃがんだ。
飾り気はないが愛らしい顔立ちの女の、春に咲いた花のような綺麗な瞳が熱心に俺を見つめている。
「今日から私がジュリアスさんのご主人様です。はじめまして。天才錬金術師クロエちゃんですよ、よろしくお願いしますね!」
「……無駄に、よく喋る女だな」
そう思ったからそう言った。
クロエは目を丸くすると「ジュリアスさんが喋った」と、驚いたように言った。どういう意味かと思う。まさか人語さえ理解していない獣のような人間だと思われていたのだろうか。
それにしても昨今の天からの使者というものは、無駄口が多いものだなと思う。
俺は死ぬわけではなく、薄々女がきちんと生きている人間だということには気づいていたのだが、やはり――クロエは、死にかけた俺の元へと降りてきた、天使に見えた。




