最後の戦い
ナタリアさんの声にジュリアスさんはぴたりと剣を止めた。
剣の切っ先が、ミンネ様の首筋に浅く食い込んでいる。
その首からどす黒い泥のようなものが血のように吹き出して、ジュリアスさんは素早く一歩後ろに下がった。
「下がりなさい!」
ナタリアさんの有無を言わせない声音に、ジュリアスさんは素早く引いた。
地を蹴って、サマエルから離れる。
ヘリオス君が私を守るようにして、翼で私を包むように隠した。
翼の影から見えたのは、サマエルから吹き出した黒い血の雨に触れた大地が、ぐずぐずと溶けて腐っていっているところだった。
腐臭が鼻につく。
僅かに吹き出した液体がかかったのだろう、ジュリアスさんの服や肌も、ところどころ溶けて爛れている。
隷属の首輪の呪縛はミンネ様に向けていた剣をおろした所でもう失われて、出血は止まっていた。
「あぁ、惜しいことをした。折角ジュリアスを連れて行こうとしたのに、台無しだよ」
「連れていく? どこに連れていくつもりですか……?」
私はなるだけはっきりと尋ねる。
嫌な予感に、声が震えてしまわないように。
「さてね、答える義理はない」
軽く肩をすくめて、サマエルは言った。
サマエルの皮膚に直接触れたからだろう、ジュリアスさんの持っている剣が半分以上、強酸にでも漬けたように溶けてしまっている。
もう使い物にならないと判断したのか、ジュリアスさんは剣を砂漠に捨てた。
ナタリアさんは箒の先に引っ掛けるようにしていた少年を、私の隣にどさりと下ろす。
それから、軽く手を上げて、引き寄せるように動かした。
ナタリアさんの手の動きに連動するようにして、離れたところに倒れたままだったエライザさんとコールドマンさんが宙に浮き上がり、少年の横に寝かされる。
あっという間に皆を一箇所に集めると、ナタリアさんは丸腰のジュリアスさんや私を庇うようにして、ジュリアスさんの前に出た。
「私が何故死の蛇と呼ばれているか、君たちに教えてあげよう」
サマエルは、ミンネ様の姿のまま低い声で笑った。
首の傷はするりと治り、黒く吹き出していた血のような液体も消え失せる。
ふわりと、その体が宙に浮き上がる。
華奢な体から、黒い六枚の翼が青い空を汚すように広がっている。
「それは私が、死、そのものだからだよ」
空が、暗く濁っていく。
真っ青だった空が、雲もないのに暗く黒く、まるで日蝕のように世界が夜に染まっていく。
黄金色の砂漠に灰色の影が落ちる。
濃い瘴気が、サマエルを中心に渦巻き始める。
「さぁ、飲み込め。全てを腐乱させる死の毒よ、生あるものを、溶かせ、殺せ」
「天に在られる全ての神よ、あらゆる厄災からこの身を守れ、神龍の守護繭!」
サマエルが両手を広げると、嵐のような瘴気が一気に私たち目がけて吹き荒ぶ。
ナタリアさんの詠唱と共に、光り輝く半円状の壁が私たちを包んだ。
壁の中に瘴気は入り込めない。
瘴気に混じり何匹もの翼のある黒く長い蛇が、輝く守護壁に牙を立てては消えていく。
ジュリアスさんは怪我を負った体を気にすることなく、ヘリオス君の背中から黒い槍を手にした。
私もよろめきながらも、ヘリオス君の体に手をついてなんとか立ち上がる。
美しかった砂漠が、瘴気に舐められて今はまるで見る影もなく、どす黒く溶けて腐っているように見える。
ナタリアさんの魔力が尽きたら、私たちも砂漠のように、腐って溶けて、死んでしまうのだろう。
座り込んでいる場合じゃない。
私が、なんとかしないと。
「長く持たない……、どうする、考えなさい私、このナタリア・バートリーに、不可能なんてないはずよ……!」
大きな魚に沢山の小魚が食らいつくようにして、瘴気を泳ぐ蛇たちが、守護壁に食らいつくたびに、ピシピシと守護壁にひび割れができ始める。
ナタリアさんの切羽詰まった声音に、限界が近いことがわかる。
私は力の入らない手でなんとか杖を掴み、掲げる。
ヘリオス君が私が倒れないように、首で背中を支えてくれている。
いつの間にかジュリアスさんが私の隣に立って、杖を掴む私の手に、手を添えた。
「瘴気を消せ、クロエ。お前のせいであれを殺し損ねた。次は仕留める」
真っ直ぐ前を見ながら、少しも疑っていない声で、ジュリアスさんが私に言った。
ーーミンネ様を助けなきゃと思った。
けれど、全てを守るなんて、私にはできないのだろう。
今の私は助けられてばかりで、力不足で。
それならせめて、できることをしないと。
サマエルはきっとこのままでは、多くの人を苦しめる。今ここで、倒さなければ。
「本当にごめんなさい。反省を込めて頑張ります、私に任せてください……!」
触れたジュリアスさんの固い手のひらから、空っぽだった魔力が注がれて満たされていくような気がした。
まだ、大丈夫。
あと一度だけ。一度だけで良いから、私の声を、どうかーー
「熾天使ガブリエル、我が呼び声に答えよ! 全てを浄化する聖水よ、天の聖杯より溢れ地上を濯げ!」
目の前が真っ暗になるような、激しい脱力感に襲われる。
それでも私は、立たなければ。
私が倒れたら、皆を守る事ができない。
私はーー大丈夫。
一人じゃない。
ヘリオス君や、ジュリアスさん、ナタリアさんが、私を守ろうとしてくれたように、私も皆を、守りたい。
『ええ、クロエ。力を貸しましょう』
涼やかな女性の声が、頭の中に響いたような気がした。
深く暗い空から、白い光が、雲間から差し込む天使の階段のように、世界を明るく照らしはじめる。
ひらひらと舞い落ちる白い羽が、腐り爛れた地面を撫でる。
地面に触れた白い羽は、清らかな水となって砂漠に広がった。
羽に触れた途端に、瘴気の中を泳ぐ蛇たちが、燃えるようにして消えていく。
ナタリアさんの守護壁が、消え失せる。
それと同時にジュリアスさんが、浅い湖面を蹴るようにして、まるで水面を走るように、サマエルの元まで一気に駆けた。
ジュリアスさんが空に舞い上がる。
振り上げた槍に天から差し込む光が落ちて、白く美しく輝く。
振り下ろされたその白く変化した槍は、サマエルの胸を、真っ直ぐに貫いた。




