◆40 穢れを纏う
現実を見ていないような恍惚とした顔をするリリアン。
ブリジットはリリアンから恐ろしさを感じた。ここからすぐにでも離れたい。でも、キースは苦しそうで立っているのが精いっぱいだ。彼が倒れないように全身で受け止め、支える。
どうしたらいいのか。
剣を扱えず、魔法も使えない。
この状況で、ブリジットが出来ることが一つもなく、途方に暮れた。
「ブリジット」
キースは痛みに歯を食いしばりながら、ブリジットの名を呼んだ。彼女はリリアンを気にしながらも、キースの方へ注意を向ける。
「何?」
「僕のことは放っておいていい。すぐにここを離れろ」
「でも」
「あれは普通じゃない。司教、護衛騎士、誰でもいい。呼んできてほしい」
キースの言いたいことはわかった。
でも、ここにキースを置いていく?
リリアンの異常とも思える顔を見ていれば、その選択肢を選べない。
リリアンの肌は徐々に黒いしみのようなものが広がり、通常の状態ではない。しかも、肌が黒くなるにしたがって、瞳孔が縦に割れてくる。徐々に変化をしていく彼女の姿に、ブリジットは息を呑んだ。
「どうなっているの?」
「多分、穢れの影響だろう。しかも僕と同じだと思う」
キースの苦しみとリリアンの様子から、同じ穢れであることは想像していた。そして、封じなければあんな風に変化する。人間の穢れによる変化に、体が震えた。
「そうだわ」
キースに封じられている穢れと同じものであるのなら。
ブリジットは小さな声で、歌を歌い始めた。流石に大声で歌えないから、鼻歌のような小さなもの。
それでも散々辺境の地で使ってきたからなのか、すぐさま浄化の魔法陣が穢れの側に浮かび上がる。一つはキース、もう一つはリリアンの側に。
「何よ、これは」
うっとりとした顔をしていたリリアンは魔法陣が放つ銀色の光を浴びて、苦しそうに呻いた。光が当たったところの黒い染みはすっと消える。彼女は魔法陣の光を遮るように、腕で自分の顔を隠す。
「今のうちに奥まで行くぞ」
穢れの動きが抑えられたのか、動けるほどになったキースがブリジットの肩に腕を回した。そして、そのまま彼女を横抱きにした。
近い位置にキースの顔があって、驚きに歌が止まる。
「キース!?」
「走るから、しっかり掴まって」
ブリジットが返事を返す前に、キースがものすごいスピードで走り出した。その勢いにブリジットはしっかりとキースの首にしがみついた。
魔法陣に気を取られているリリアンの横をすり抜け、奥へと進む。
「どうして逃げるの!? わたくしたち、運命なのに!」
キースの動きに気が付いた彼女は、大声を上げた。リリアンもキースを逃がしたくないのか、黒く染まった手を握ると勢いよく魔法陣に叩きつける。ぱりんと薄いガラスが割れるような音がして、魔法陣が粉々になった。
「嘘、魔法陣って叩いたら割れるの!?」
「くそっ」
魔法陣を砕いたリリアンがものすごい形相をしてこちらに向かってきた。顔の右半分は黒く変色し、瞳孔は縦に割れている。口も先ほどよりも大きい。唇の隙間から覗くのは牙だろうか。
キースは呪文を唱え、リリアンに向かって魔法を放つ。ここは教会の敷地内。それほど大きな魔法は使えず、彼女の足をほんのわずかだけ止める程度だ。それでも、何もしないよりはいい。
「ブリジット、歌!」
「あ、はい!」
キースに促されて、慌ててブリジットは歌い始めた。先ほどよりも少し大きめな声で、そして、こちらに近づいてこれないように祈りを込めて。
歌えば魔法陣が現れ、リリアンを取り囲む。先ほどよりも大きく数の多い魔法陣はそれだけリリアンが穢れているということ。
だが歌えば歌うほど、どんどんと穢れがリリアンから溢れ出し、次第に魔物の形を取り始めた。リリアンの背中から生えているようにも見える。
今までとは違う反応に、ブリジットは歌うのをやめた。
「歌ったらひどくなったわよ!?」
彼女の変化に、ブリジットが不安の声を上げた。キースもその変化を目の当たりにしていたが、訳が分からないというように、首を左右に振った。
「この状態があり得な過ぎる。とにかく、奥に行くぞ。僕たちには手に負えない」
「待ちなさい!」
リリアンの甲高い引き留める声と、彼女の背中に生えた魔物が魔法陣を叩き割り、こちらに向かって襲いかかってくるのは同時だった。
大きな口を開けて襲ってくる魔物に怯みながらも、ブリジットはキースの首に巻いていた両手を前に突き出す。ただキースにこれ以上穢れに触れさせたくないという気持ちだった。
それが良かったのか。
穢れがキースに触れる前に、ブリジットの両手から光が溢れ出る。何でもいい、これ以上キースが苦しくならないように。それから魔物も穢れも消えてなくなるように。
パニックに陥りながらも強い拒否の気持ちで、ブリジットは両手で向かってきた穢れを掴んだ。
「なんで掴むんだ!?」
「だって、キースに触れたらだめだと思って!」
でも、掴んでしまった魔物をどうしていいかわからない。
初めて触れる魔物。
触れている両掌から、じょりじょりと神経に触る何かが入り込むような感覚。全身が粟立つ。
魔物はブリジットから放たれる光が苦しいのか、逃れようと必死に体をくねらせた。ブリジットはますます手に力を入れた。短い腕がキースを掴もうとするから余計に手を離せない。
「うえええ、なんか気持ち悪い」
「魔物から手を離せ!」
「無理!」
どうしたらいいのか。
解が見つからないまま、ブリジットは必死になって魔物を握りしめる。手の光を当て続けた場所がどろりと溶け始めた。
「ひいいい、なんか、溶けてきた!」
「浄化」
これ以上は握っていられないと思っていたところで、カツンと硬い音がした。
「ここは聖なる場所。穢れは消滅すべし」
「エルバ司教様」
彼の持つ司教杖を中心に大きな清めの魔法陣が現れる。それはブリジットの作り出す魔法陣とは異なり、力強い輝きを放っている。
「ぎゃあああ」
浄化の魔法を浴びたリリアンは悲鳴を上げる。苦しそうに両手で顔を押さえた。黒く変色していた肌から水蒸気が立ち込め、穢れが溶けていく。背中に生えていた魔物も同じように悶えながら徐々にその姿を消していく。小さくなるにしたがって、リリアンの持つ穢れの勢いが弱くなった。
浄化の魔法から逃れたいのか、リリアンは手当たり次第に穢れを飛ばした。あちらこちらに飛ばされた穢れはそのままの勢いで木々や建物に当たり、黒く溶かしていく。
「おっと、これはひどい。折角の庭が破壊されてしまう」
庭が荒れることを心配したエルバ司教は再び司教杖の先で硬い床をカツンカツンと叩いた。先ほどとは違う魔法陣が浮かび上がると、彼女に向かって飛ばす。
「今日の所はお引き取り願おう。もしあなたが抱える穢れを浄化するつもりがあるのなら、別の窓口へ」
にこやかに告げると、カツンともう一度床を叩いた。
リリアンはその場から弾き飛ばされて、消えた。
「え? どこに行ったの?」
「教会の外に出しました。あれだけの穢れをもつ女性にここまで入り込まれているとは。少し教会の結界を見直した方がいいかもしれませんね」
少しの気持ちの揺れも見せずに、エルバ司教は飄々とブリジットに応えた。
キースはブリジットを丁寧に下ろすと、そのまま地面に崩れ落ちる。
「キース!」
「先ほどの令嬢の持っていた穢れに刺激されたのだろう」
キースの傍らに膝をつくと、エルバ司教は彼の肩に手を当て、呪文を唱える。仄かに手が輝き、すっとキースの中に溶けて消えた。ブリジットの歌よりもよほど効いたのか、随分と呼吸が楽になっている。
「エルバ司教、ありがとうございます」
「こちらの落ち度もあるから気にすることはない」
キースが礼を言えば、エルバ司教は苦々しい笑みを浮かべた。




