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長岩城の第四軍

九月五日 戌一つ刻(1900)


第四軍は豊前に侵攻した。大石峠を抜け長小野村(大分県中津市山国町)より豊前に入り、街道を山国川沿いに東進して小友田村(大分県中津市耶馬溪町小友田)で野営した。五日の戌一つ刻(1900)である。


長岩城下までは、小友田村から川沿いに北西の川上に登れば着く。しかし道幅も狭く大軍を移動させるのには適さないためだ。


先の下高橋城の戦闘で損壊した大砲五十一門のうち、十一門は修復できた。砲撃が可能だ。残りは残念ながら使い物にならなかったので、二個大隊と共に本国に返している。車輪が壊れ移動が困難な物は、道中人を雇い手伝いをさせた。


今回の事を踏まえ、木製ではなく壊れにくく燃えない金属製の砲架を開発しなければならないかもしれない。重く移動には人も馬も必要だが、敵の攻撃で使えなくなるのでは意味がない。


深作大佐はかなり落ち込んでいたが、起こった事は致し方ない。警戒を厳にし、再発せぬよう務めるだけだ。陸軍の残存兵力は一個砲兵大隊三百名(大砲二十門五個中隊)、三個歩兵連隊千五百名、一個騎兵大隊五百名合計二千三百名が陸軍兵となる。



■九月六日 卯の一つ刻(0500)


第四軍司令となった龍造寺純家は降伏の使者を送った。


第三軍が由布院山城を越え府内に迫っている事。第五軍が北肥後の国人衆と阿蘇を従えて豊後南山城から攻め入る事。そして香春岳城の戦況や、戸次道雪や臼杵鑑速が豊前三城を落として筑前に侵攻し、山鹿城を落とした事。


それに対して小佐々純正が援軍を送った事なども含めて、知りうる彼我の状況を文にしたためて送ったのだ。


豊前長岩城の城主は野仲鎮兼で、今から十二年前、弘治二年(1556年)に毛利元就が陶晴賢を倒して北九州に侵攻してきた際、呼応して大友と戦ったが敗れ、降伏して恭順していた。


交戦となれば耶馬渓に囲まれた要害。かなりの苦戦が予想されたのだが、あっさりと降伏受諾の返書が届いたのは、わずか二刻半後の巳の三つ刻(1000)であった。衆寡敵せず大友に下ったものの、やはり納得ができぬ事が多かったのだろう。


大体大友は国衆の扱いが横柄すぎる。命をかけて戦ったものを、本当に考えて労い、恩賞を与え、しかるべき役につけて用いているとは思えない。


そう純家は思いつつも、城主の野仲鎮兼に訪ねた。なぜ降ったのか、と。


その答えは、

「普通、自軍に有利な報せばかりを伝えるものじゃ。だが、今回は有利な報せも不利な報せも総て記されておった。信用に足ると見受けたのじゃ。そして以前より大友の仕来りには不満を抱いておった。本領を安堵し、しかるべく用いてくれるのなら、喜んで降伏いたす」。

というものであった。


純家の狙いが当たったのである。無論、この情報も全ての軍団と総司令部に送る。純家は小佐々領内諸法度にある国人衆の扱いについて説明し、選ばせた。そして次の城井谷城へ向かう。


『ハツ ヨンシ(四軍) アテ ソウシ、ゼンシ(総司令部、前線司令部) ヒメ ナガイワジヨウ カウフクス コレヨリ キイダニジヨウヘムカウ ヒメ マルロク(六日)ウマイチ(1100)』


ちなみに小佐々軍では、降伏して小佐々領となった土地で、工兵による信号所の設営が一里、二里間隔で(4~8km)行われている。街道の整備がされていないので本国ほどではないにしろ、馬、人も使い迅速な信号通信ができるようになっているのだ。


城井谷城へ着いたのは二日後の八日、巳の三つ刻(1000)である。

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