9/2 11:00 電光石火 雷神戸次道雪②
九月 開戦二日目 午の一つ刻(AM11:00) 門司城
開戦二日目 戸次道雪の進撃は止まらなかった。松山城から二里の距離にある門司城まで二刻半で詰め、一気呵成に攻め立てた。
門司城は豊前と長門の間にある馬関海峡を北と西に望む、橋頭堡とも言える城である。毛利と大友が長年に渡って争奪戦を繰り返してきた。それゆえ決して攻めやすい城ではない。もともと山城は守るに安く攻めるは難しである。
しかし、折からの松山城落城と、戸次道雪来襲の報に城兵の士気は下がっていた。
城主の仁保隆慰は企救郡の代官でもあり、知勇兼備の名将として名高かったが、相手が悪い。あの雷神である。守備兵を奮起させ、善戦したが、衆寡敵せず、三刻に及ぶ戦闘で、落城した。
「常陸介殿。ただいまよりこの門司城は、大友が領する様になった。わしは殺生は好かぬゆえ、貴殿の命は取らぬし、なにより惜しい」。
「焦る事はない。じっくり考えられよ。妻や子供の命は取らぬし、城兵も武器を捨て抵抗をやめている者は殺しはせぬ」。
戸次道雪はそうゆっくりと話しかけ、後ろ手に縛った仁保を牢に連れて行くよう兵に指示を出した。(大人しく服属してくれればよいが)。
「鎮実よ。われらはここで一晩休み、明朝小倉へ向かう。おぬしは兵千とともにここに残り、門司城を守れ」。
斎藤鎮実は道雪の言葉に『ははあ!』と元気に返事をした。以前より道雪に心酔していたが、松山城の夜襲以来その感情はさらに高まっている。
なにより松山城と門司城を、二日で落としている影響が大きい。その証拠に、冷泉元満をはじめとした企救郡の土豪が、各地から集まってきているのだ。降伏した兵も合わせると、二千あまりにのぼる。
無論、兵の年齢にもバラツキがあるし練度もまちまちだ。しかし、松山城に攻め込む前と兵の数が変わっていない。実質増えているのである。恐るべし道雪。勝てば、勝ち続ければみな付いてくる。
松山城で十時連貞に言った道雪の言葉が、現実となって兵の数に現れている。しかし、兵力と国力は小佐々が圧倒しているのは事実。長引いては中央の横槍も入るだろうし、尼子の残党を制圧して、また毛利がやってくるかもしれない。
眠る時間は惜しい、しかし眠らなければ明日戦えぬ。矛盾を抱えたまま、兵には交替で食事と睡眠を取らせ、みずからも眠りにつくのであった。
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開戦三日目 卯の一つ刻(AM5:00)
明朝日の出とともに出立すると命を出しておったので、起きて体を慣らしている者もいた。遅くとも四半刻後には皆起きて準備を始めるはずじゃ。城内を見回り、兵の様子を観察する。何か異変がないか注意深く見て回る。
戦の最中、緊張で眠れぬ者もいれば、逆に寝る事は大事とばかりにぐっすり寝ている者もいた。卯の三つ刻には朝食をとる。食事が終われば出陣だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・卯の四つ刻(06:30)に門司城を出陣して、小倉城に着いたのは巳の二つ刻(09:30)頃だ。距離にして四里足らず。一刻半で着いた。
・・・・・・・・・。驚いた。
もぬけの殻だ。杉重良は逃げ出したらしい。城内はいたるところに武具や兵糧が散乱しており、急いで逃げ出した事を物語っていた。兵の逃散に歯止めが効かなくなったのだろう。
戦においては勝てぬとわかれば一旦引き、態勢を立て直して再戦を図るというのは重要な判断である。しかし、時には兵を鼓舞し、踏みとどまって戦う事も必要である。いかに兵力差があっても、一度はともかく二度も逃げるとは。
そういうところで門司城の仁保隆慰どのは惜しい人材だ。自らが踏みとどまらなければ小倉も危うい事がわかっておった。時間稼ぎをして守りの準備をさせたのだ。しかし、主が逃げてしまってはどうにもなるまい。仕える主を間違えておる。
「申し上げます!」
息も絶え絶えに伝令が走り込んできて叫ぶ。
「なんだ!」
伝令に確認すると、信じられない言葉を口走った。
「日田城、降伏にございます。あわせて周辺の支城すべて降伏し、日田郡はすべて敵の手に落ちましてございます!」
なんと!予想はしておったが・・・。恐れていた事がやはり起きたか。これはまずい。このままでは府内まで無傷で敵を招き入れる事になるかもしれん。
「誰かある!」
小野鎮幸がきた。
「鎮幸よ、人を集め伝令を送るのだ。豊後主要の二十二城に使いを送れ!」
「豊前はよろしいので?」
「豊前は良い。われらがせずとも城を三つ落とした事はすぐに伝わろう。問題は豊後だ。急げ!」
ここで国人たちの造反が相次げば、わしがどれだけ勝とうが意味がない。豊後国内から崩れるぞ。それほどまでに今の大友は弱い。急げ、日田降伏の報より後でも先でもいい。国人衆が決起する前に届けなければ。
「いや待て!鎮幸待つのだ!」
「はは!」
陣幕を出て人を集めようとしていた鎮幸を道雪が止める。
「まずはじめに、松山城落城の報を一人が届けるのだ。そして一刻後、もう一人が同じ城に門司城落城を伝える。そして最期、もう一刻してからさらに別の者に小倉城落城を伝えさせよ。都合一つの城に三人。時間を置いてそれぞれの城の落城の報を知らせるのだ。臼杵城の殿にはまとめてでよい」。
なぜ分けるので?兵は一人でも多いほうが良いのでは?そう鎮幸が尋ねると、
「よいか。物事には優先順位がる。確かに今、兵は一兵でも惜しい。ここで百名弱の兵を伝令に使うのは普通考えたらありえぬ。しかし、事は大事なのだ。同じ事を伝えるにも、必ずその成果を上げねばならぬ。であれば、一度に三城の落城の報を聞くよりも、間をあけて三度、三人から落城の報を聞くほうが、印象に残りやすい。無論、三刻で三城を落としたわけではない。しかしその様な事は枝葉末節なのだ。要はどの様に伝わり、事を起こさせぬ様に出来るかなのだ。よいな!」
はは!再び鎮幸が出ていった。
まずいな。ここは一刻も早く筑前を平定し、宗像、秋月、立花、高橋の領地を脅かすほどには勢いを伸ばさねば。花尾城に向かっている臼杵どのと合流して策をねろう。香春岳城の吉弘どのならば、その間、持ちこたえてくれるはずだ。
道雪が筑前花尾城の臼杵鑑速のもとに向かったのは、伝令を全て送り終えた未の四つ刻(PM2:30)であった。




