初日PM9:00 龍造寺純家と兵一万
開戦初日 亥一つ刻(PM9:00) 勝尾城
「申し上げます!毛利領国境信号所より信号あり。『発 杉長良様 宛 小佐々弾正大弼様 メ メイト マツヤマゼウキウエン モトム メ 午三つ刻(12:00)』となります」。
上座に座っている筑紫惟門(どの)が伝令の報告を受けている。その隣には神代長良(どの)や千葉胤連(どの)、江上武種(どの)までいる。私は今、殿ではなく、一国人としてこの戦に参加しているのだ。
三年前の永禄八年十一月、父隆信が戦に敗れ討ち死にした。しかし、直茂の働きでかろうじて本領の佐賀郡十三万石は維持できたのだ。ただ、かつての配下と同列にいるのは、頭ではわかっていても、なかなか心の奥底まで落とし込み、受け入れるのは、難しい。
完全にはまだ、できていないのだろう。
そして私は元服し、小佐々の殿から偏諱にて『純』の一字をもらい『純家』となった。妻は小佐々の殿の叔父上、沢森利三郎様の長女、静だ。これにて私は小佐々の親族衆となったのだ。
時間はかかるが、慣れるしかない。かつての配下と同列に扱われるのは正直堪えるが、あえてこういう環境を用意してくれたのかもしれない。本来、肥前の国衆の中でも、禄で言えば龍造寺は筆頭である。
しかも親族衆となれば、大将は誰もが私だと考えるだろう。しかし、あえて殿はそうしなかった。本来ならあり得ぬ境遇にわたしを置いて、育てようとしているのかもしれない。ともかく、これがわたしの初陣であり、副将として初めての仕事である。
一人なら心細いだろう。しかし成松遠江守もいれば百武志摩守、木下四郎兵衛尉に江里口藤七兵衛尉、円城寺美濃守の重臣五人が支えてくれる。
ここで武功をあげて、龍造寺の名を轟かすのだ。
「~ですが、ご一同よろしいか。~どの。太郎四郎どの!」
筑紫どのが聞いてくる。
「ああ、ああ、わかっています。筑後国北部の大友直轄地、三潴郡、竹野郡、山本郡、御井郡、御原郡の平定でござるな。手始めに下高橋城、そして周りの城を降しながら久留米城を落とす、と」。
「さよう。本日は遅いゆえ明日の朝出立いたします」。
なんだろう。ぎこちない。やはり向こうもやりづらいのだろうか。
「われら第四軍は、全五軍の中でもっとも兵力が多い。ゆえにその結果も求められております。そして制圧後は独自の判断にて軍を運用いたすゆえ、各方面軍の動向と戦況も把握しておかなければなりません」。
「明日早朝出立いたします。今宵はしっかりと休息をとるように」。
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二日目 辰二つ刻(AM7:30)
翌朝卯三つ刻(AM6:00)に出発した。下高橋城の東、南北に流れる大刀洗川に沿って北に十町(1km)ほど、水神宮付近に陣を構えている。
城主は三原紹心。大友氏直参家臣で、豊饒美作入道永源とともに筑後守護代官として、大友氏の軍事、行政を担当した有力被官である。
直参も直参。龍造寺で言うところの、成松、百武、江里口、円城寺であろうか。直茂配下の木下も同列であるがな。一里ほど離れた三原城と対になっており、吉弘鎮理が城主となっている。歩いても半刻ほどだ。
さて、これをどう攻めるか。軍議が開かれた。
まず発言したのが、陸軍第四混成旅団長の深作宗右衛門大佐である。
「定石ではありますが、索敵しつつ大砲の射程まで砲兵を移動させ、砲撃いたします。敵方が混乱して打って出たところを銃歩兵で銃撃しつつ騎兵にて殲滅いたします。こちらが最も被害を少なく成果を最大にあげられる戦術かと存じます」。
「なるほど」。
筑紫殿がうなずく。
「他に意見はないか?」
「こちらに大砲があり、相手が持っていないなら、使わないと損ですね」。
そうだ、そうだ、と諸将が言っている。
宗右衛門どのは不服そうだ。まるで(大砲の有効性がわかってないのか?)というような顔をしている。ともあれ深作大佐の策で行こうと満場一致で決まった。
降伏の使者を送る。




