61.古樹森林戦②
イルヴァ視点→エリアス視点です。
霧光の鹿の姿を視認した瞬間、イルヴァは身体強化をかけて全力で霧光の鹿に向かって跳躍し、剣を振り下ろした。
しかし、その剣は、別の生物の堅い皮膚によってはじかれた。魔装狼だ。
魔装狼は牙をむいて飛びかかってくる。イルヴァは咄嗟に身をひねり、紙一重でそれをかわした。
頬をかすめた風に、遅れてぞくりとした悪寒が走る。
霧光の鹿がいる場では、魔装狼も魔法は使ってこない。
ただし、魔装呪符で強化されたその皮膚の堅さは健在である。
イルヴァは一度後ろに飛んで体制を整えると、魔装狼の心臓に向かって短剣を投げた。短剣ははじかれることなく、心臓にあった魔装核を貫いた。
ーーー通った!
一発で砕けるとは、運が味方してくれたようだ。
「今度こそ……!」
後ろにいる霧光の鹿は、魔法を使う予備動作を見せる。
間に合え、という祈りにも似た気持ちで、地を蹴って間合いを詰め、その首を跳ね飛ばした。
神秘的な光を放っていた毛並みは、ふわりと色を失った。
その体が勢いよく横に倒れ、地面には青色の血だまりが広がった。
霧光の鹿の死を確認し、イルヴァはすぐに魔法を使えるか探知を試した。しかし、魔法は使えそうにない。
別の個体がいるのだ。
魔法でしか戦えない隊員がいる数多くいるこの森で、この状況は最悪だ。
判断を誤れば、確実に死人が出る。
「総員、退避を!」
イルヴァは振り返りながら言った。
「二手に分かれてリンデル大尉とレンダール少尉にそれぞれ状況を伝えなさい。身体強化以外の魔法は、霧光の鹿に居場所を知らせることになるので、禁止よ」
「フェルディーン大尉は?」
「霧光の鹿を倒しつつ、魔法が使えたら派手なのを使って、できるだけひきつける努力をするわ」
「ですが、魔法も使えないのに一人でだなんて……!」
エリサが食い下がるが、問答をしている時間はない。
「私が指揮官よ。意義は認めない。はやく退避を!」
エリサは納得できていなさそうだったが、ヴァールはうなずいた。
「承知しました。エリサとマティアスは僕と一緒にリンデル大尉のいる西側へ、残りは東側のレンダール少尉の元へ。行くぞ!」
ヴァールが退避の指示を出したーー次の瞬間。
森に嫌な風が吹いた。
その音は、確実に近づいてきていて、この場を離れようとした隊員たちの足を止めた。
「下がって!」
叫ぶのと同タイミングで現れたのは、魔装狼――二体。
イルヴァ一人なら適当に逃げても良いが、今は守るべき隊員がそこにいる。
退避は許されない。
一体目がヴァールにとびかかる。彼はとっさに剣を抜いて、攻撃を受け止めた。
その横で、エリサとサーラが魔装狼と見つめ合いながらゆっくりと後退していたが、サーラが木の根につまづいて転倒する。
魔装狼はその瞬間、高く跳躍した。
ーーー間に合えっ!
イルヴァは転んだサーラの前に飛び出し、宙から降ってくる魔装狼の攻撃を、剣で受け止めようとした。
しかし、微妙にタイミングが合わず、鋭い爪が左腕を切り裂いた。
左腕から飛び立った血がサーラの頬についた。
「フェルディーン大尉!」
左腕の痛みを気にしている場合ではない。
右腕で剣を振い、まずは首を狙った。
しかし、強化された硬い皮膚にあたり、剣が弾き飛ばされた。
右手が衝撃でじんじんと痛み、左腕は痛みも血も止まらない。
しかし、不幸中の幸いにも、剣はエリサの後方に落ち、見える範囲だ。
剣を取りに行かなければ。
ーーーでも、私が離れたらサーラは?
一瞬の迷いがイルヴァの判断を遅らせた。
魔装狼が跳躍の構えを見せ、左腕を一度諦めるか悩んだ時だった。
「くらえっ!」
叫び声と共に、硬い金属音が鳴り響いた。何かが魔装狼の背中にあたり、魔装狼の注意が逸れた。
マティアスが魔法銃を魔装狼に投げつけたのだ。
「剣を!」
エリサがイルヴァの剣を持って走ってきた。拾ってくれたようだ。
イルヴァはそれを受け取ると、マティアスに襲い掛かろうとしている魔装狼に後ろから切り掛かった。
今度は負傷している左腕も添えたので、剣が跳ね返される衝撃を殺しきる。
痛みを堪えながら、イルヴァはそのまま、魔装狼の足首に剣を叩き込んだ。
足首の魔装核を砕いた手応えと共に、魔装狼の断末魔が響く。
「アンドリス!」
悲鳴の上がった方を見ると、ヴァールが地面に背をつき、のしかかられている。
その鋭い牙に貫かれないように、なんとか剣を硬い首に当て、防御している状態だ。
近くにいた隊員が、ヴァールの上の魔装狼をロッドで殴るが、気を逸らすことさえできず、ヴァールに噛みつこうとするのをやめない。
そして、そのすぐそばの茂みから、更に5体の魔装狼が現れた。
すると突然、魔力を歪められている不快感が一瞬消えた。
【光よ!】
イルヴァは咄嗟に光魔法を試す。
すると、眩い光がその場に満ちた。
イルヴァは持っていた魔法銃で、ヴァールにのしかかっている魔装狼の頭に魔法弾を打ち込んだ。
途端に頭が弾けて、その体は崩れ落ちる。
魔装呪符さえ解除されていれば、攻撃し放題だ。
後からきたの5体に向かって、強い氷魔法を放つ。
目も眩むような青い光と共に、3メートル級の氷の柱が5本立ち上がり、近くにあった木々と同時に凍りついた。
深い緑に覆われた空間は、一瞬にして薄青の氷に包まれた世界へと一変した。
「すごい……これが、フェルディーン大尉の魔法……」
誰かが感嘆しているが気を抜いている場合ではない。
「ここはすぐ、霧光の鹿に探知されるわ! 総員、急いで退避を!」
イルヴァが叫ぶと、今度は隊員たちも迷わなかった。
隊員たちは立ち上がると、二手に分かれて走っていく。
イルヴァはまだ霧光の鹿テリトリー外にいることを確認し、治癒魔法と浄化魔法を同時に使った。
左腕の血は止まり、痛みもなくなった。避けた服は戻らないが、血はひとまず浄化して綺麗になる。
「また使えなくなったわね」
魔力が歪む不快感と共に、再び魔法は封じられた。
治癒が間に合ったのが幸いだ。
探知できないので正確にわからないが、魔物の気配はまだない。
イルヴァは投げつけた短剣を、魔物の亡骸から回収し、腰におさめた。
他に武器になりそうなのは、マティアスが投げた魔法銃だ。
イルヴァはそれも回収すると、ふと、兄イクセルの言葉がふと心に浮かんだ。
『イルヴァって、これ、してても魔法打てる?』
あの時出した結論は、魔封じの腕輪をしていても訓練すれば魔法を使える、だ。
魔法式が単純であれば、より望みがある。
普通の魔法は今のイルヴァでは魔法式を描き切ることができない。
しかし、魔法銃の起動だけであれば、魔力操作はより簡単にシンプルになる。
「魔法銃だけでも打てれば、かなり時間を稼げそうなんだけど……」
イルヴァはこれから、最低でも30分は1人で時間を稼がないといけない。
しかも、エリアスの助けは見込めない。
霧光の鹿が出現した時点で、赤い花火や狼煙をあげるのは諦めた。
ここが合流地点になると死人が増えるからだ。
エリアスの心配そうな顔が浮かんだが、イルヴァは首を横にふって、その幻想を掻き消した。
今はより多くを生かすために集中すべきことがある。
イルヴァは自身が作り出した氷の壁に向かって、魔法銃を構えた。
そして、魔力を集めて魔法式を構築する努力をした。
急激に気持ち悪さが襲ってくるが、幸いにも、魔力の乱され方は、魔封じの腕輪と変わらない。
意識を集中して、魔法式を描き、そして、引き金を引いた。
眩い光が一直線にほとばしり、氷の柱にぶつかって弾けた。
氷砕ける音が響いて、あたりにその破片が散って、解けていく。
「撃てた……」
相変わらず、魔力は歪んでいて、探知もできない。だから今のは、霧光の鹿のテリトリーで魔法を使うことができたということだ。
「来たわね」
魔法銃の音のせいか、あるいはこの魔力を帯びた巨大な氷の建造物のせいか。
あたりの魔力の歪みが激しくなり、さきほどまで晴れていた森が急激に霧に包まれた。
霧のなかでも薄く輝く銀青の毛並みの鹿ーーー霧光の鹿が3体現れた。
霧で姿は見えないが、経験則から考えるに、おそらく魔装狼も10〜20体ぐらいは出てくるはずだ。
ーーー他の隊員は、逃げれているかしら。
イルヴァは大きく息を吸って、魔法銃を構えた。
ここで多くの霧光の鹿をおびき寄せ、屠ることこそが、1人でも多くの隊員の生存につながると信じて。
*****
「おかしい」
エリアスは現れる魔物を魔法で倒しながら、今の状況を訝しんでいた。
先ほどから倒しても倒しても魔物が森の奥から出てくる。
しかも、魔物の挙動がおかしい。
【切り裂け!】
風の魔法で影狼の群れを攻撃すると、あっけなく倒れた。
本来はもう少し戦いづらい相手だ。影と影を移動する魔法で敵を翻弄するのが影狼だが、今日は一度もそれを見ていない。
「影狼はどうして影に入らないんだろう」
エリアスの独り言に、隊員の一人が答えた。
「まるで、魔法が使えることを忘れてるみたいですよね」
その観察は、言い得て妙だった。しかし、そんなことは起きうるのだろうか。
魔封じ状態の世界にしばらくいたらそうなることもあるかもしれないが、古樹森林帯ではそんな危険区域は存在しない。
「緊急事態というほどでもないですが……今日は何かがおかしいですね。レンダ―ル少尉はどう思われますか?」
周囲を警戒しながら、この部隊の隊長が問いかけてくる。
「嫌な予感がしますね。試験の一部という形でないのであれば、撤退したほうがいいとは思います」
理屈ではそういえる。
しかし、それは現場の感情からすると、難しい判断だ。
「……そこが悩ましいところです。自分たちの部隊だけ撤退すると減点になるかもしれませんから」
隊長は苦い顔をした。気持ちは理解できる。
魔物の量が多く、エリアスの見ているこの部隊は、本来の討伐地点にすら、まだたどり着いていない。
しかし、出てくる魔物は当初よりもランクは高い魔物だ。
撤退する理由も、撤退しない理由もある。
今の状況は、決定打に欠ける状況だ。
「他の部隊の様子がわかるといいのですが」
隊長のつぶやきに、エリアスの脳裏に、美しいワインを思わせる赤い髪がよぎった。
ーーーイルヴァって、どのレベルの魔物が出たら緊急事態だと思うんだろう。
彼女は、けた違いに強い。
それに、彼女がちらほらと漏らす情報から察するに、フェルディーン領に出てくる魔物は、明らかに王都の魔物よりレベルの高い魔物が多そうだ。
王都で危機を感じることなどないのではないだろうか。
「フェルディーン大尉は、ほとんどのケースで緊急事態を宣言しないと思います。リンデル大尉か、この部隊で判断しないといけなさそうですね」
エリアスの返答に、隊長は少し考えた後、提案をした。
「リンデル大尉と合流するのはどうでしょうか? これだけ数が多いのであれば、討伐域が被っても、あまり問題ないのでは?」
良い案だ。
エリアスも、リンデル大尉の判断を知りたいところだった。
エリアスは頷くと、部隊全員で動こうとした時だった。
森の奥で、鈍い地響きのような音が連続して響いた。
音と共に足元が揺れる。
低く、重い振動が、規則正しく近づいてくる。
「総員、十時方向に警戒を!」
隊長がそう叫んだ時だった。
十時方向の木々の隙間から、大型の熊がゆっくりと姿を現した。
「岩熊……! 氷魔法を!」
隊長はそう叫びながら、すばやく赤い花火を打ち上げた。
有事を知らせる合図だ。
【氷の鎖よ、行動を阻害せよ!】
エリアスは反射的に詠唱し、岩熊の足止めを試みた。
岩熊の足が凍り付く。しかし、エリアスは氷魔法は苦手なほうだ。この威力では完全に動きを封じることはできない。
中途半端に動きを封じられ、怒った岩熊が、拳を振り上げる。
その太い腕が地面についた途端、あたり一帯を衝撃波が襲った。
エリアスは身体強化と防衛魔法でなんとかその場に踏みとどまったが、ほとんどの隊員が吹き飛ばされた。
「誰か脇腹に氷魔法を!」
エリアスはそう叫びながら、剣を抜いて岩熊に駆け寄った。
肌を岩に覆われた岩熊だが、首の付け根と脇腹には岩がない。
【凍てつく息よ、大熊に打ち込む楔となれ!】
後ろから飛んできた青白い光が、岩熊の脇腹を凍らせた。さきほどのエリアスの氷魔法より数段威力が強い。
「グオォォォォ……!」
岩熊が咆哮とともに苦痛に身をよじった。
エリアスは、地面を蹴って、脇腹へとその剣を叩き込んだ。
剣がぶつかる衝撃とともに、脇腹を凍らせていた氷が、岩熊の全身を覆っていく。
岩熊が薄青の彫像となる前に、エリアスはその首に剣を突き刺した。
「グウゥオォォォォン……!」
断末魔とともに、氷と岩が同時に砕け散り、岩熊の岩肌が崩れ落ちた。残った熊の本体は、ゆっくりと体が傾いて地面に倒れていく。
その体に巻き込まれないように後ろに飛んで回避すると、エリアスが先ほどまでたっていた場所に、その巨体が倒れこんできた。
「みなさん、大丈夫ですか!?」
吹き飛ばされていた隊員に、隊長が駆け寄って起こしていく。全員、意識はあるようだ。
体をかばいながら起き上がった。
「な、なんとか……。あれは何なんだ?」
「岩熊です」
隊長に助け起こされた隊員が質問したが、どうやらその名前には聞き覚えがなかったようだ。
怪訝そうな顔をして問い返した。
「岩熊?」
「アルファウルフと同程度のクラスの魔物です。王都で出たのはおそらく初めてかと」
「今日はツいてなさすぎるな……撤退だよな?」
「はい。ただ……どうしますか? 本来であれば3隊合流ですが、これ以上、森の奥に進むのは難しいかと……」
隊長に問われて、エリアスはイルヴァの指示を思い出す。
有事の際の基本方針に従うなら、イルヴァたちの部隊のところまで行く必要がある。しかし、それは現実的ではない。
「定期的に赤い花火を打ち上げながら後退しましょう。花火で位置が分かれば、他の2隊もここを目指して移動してくるかと」
「承知しました。今は有事ですから、レンダ―ル少尉の判断に従います」
話がまとまり、撤退行動を開始しようとした時だった。
「0時の方向から何か来ます!」
北西を向いていた隊員が叫び、エリアスはそちらを振りむき、剣を構えた。
先ほどの足音とは違い、もっと軽い音だ。それでも、かなりの素早さをもって近づいてくる。
そして、茂みが揺れて、人影が飛びだした。
「見つけた……!」
「アンドリス!?」
飛び出してきたのは、イルヴァに勝負を挑んだアンドリス・ヴァ―ルだ。
彼に続いて、隊員2人が姿を現した。しかし、それ以外は人の気配はない。
「どうして3人だけ?」
「霧光の鹿がでたのでご報告を!」
「霧光の鹿!?」
エリアスは思わず叫んだ。霧光の鹿は最も今回の部隊構成で相性が悪い相手で、考えられうる事態で「最悪」と言っても良い。
「フェルディーン大尉より退避命令が出ています。霧光の鹿は魔力を探知し、より強い魔力の方へ向かうため、身体強化以外の魔法は極力避けて退避せよと。残り3人はリンデル大尉のところに伝令を!」
「イルヴァは!?」
仕事中であることも忘れ、思わず名前を叫んでしまう。
「フェルディーン大尉は……霧光の鹿の囮として、その場に残りました」
そうして告げられた返答に、エリアスの手の中で、剣の柄がきしんだ。
嫌な汗が背中を伝う。
「では撤退しましょう。先ほどの方針と同じく、花火は上げますが、戦闘でもできるだけ魔法は控えめに」
部隊長の言葉で、部隊員は撤退行動の準備を始めた。
この状況では、監督官としてやるべきことは明確だ。
イルヴァは当初の作戦を捨てて、赤い花火を上げないことで、合流はしないという意思を伝えてきた。
つまり、エリアスも撤退行動を手伝うべきだ。
それでも、どうしても、エリアスは足を動かすことができなかった。




