4.噂の渦中で
イルヴァが学校へ着いた瞬間、空気がいつもと違うのが分かった。
廊下を歩くたびに、ひそひそ声が背中にまとわりつく。噂話を本人の目の前でするのはタブーであるのに、だ。
ーーー原因は、言うまでもないわね。
昨日、公爵家の目立つ車がフェルディーン家の門に来たのだ。
それだけで、婚約の噂が一晩で学内に広まるには十分だった。
もっと厄介なのは、イルヴァ自身の立ち位置だ。
“高嶺の花”が、よりにもよって女子生徒全員の憧れの的であるエリアスに選ばれた。その組み合わせが、火に油を注いでいた。
視線が刺さる。囁き声が止まない。
大講義室で明らかに教室全体が集中力を失っていた。
——ここで癇癪を起こしてはだめ。ダメよ。
深く息を吸って吐き続ける。
気持ちを整えるための深呼吸だが、このまま叫んでしまいそうだ。
なんとか授業が終えるまで耐えて、人波をかき分けて外に出ようとした時だった。
「イルヴァ嬢!」
聞き覚えのある声が聞こえたと思ったら、人の波が一斉に左右に割れた。
その先にいる人物は、美しい金髪と青い瞳の貴公子、エリアスだ。彼は周囲の視線などまるで気にならないといわんばかりにイルヴァの方に駆け寄ると、にっこりと笑って言った。
「昼食を一緒に食べようと思って誘いに来ました」
「エリアス様。お誘いありがとうございます。食堂でなければ構いません。今日は静かな場所で食事をしたいので」
イルヴァはあえて名前を親しげに呼んで、エリアスの誘いに返事を返す。噂が本当だと確信づけられた方が周囲の騒ぎも収まるだろう。そうおもったが、周囲は一時的に騒然となった。
逆効果だったかもしれない。
「婚約したのですから、私も二人でゆっくりと話したいと思いまして、学内にあるカフェの個室を押さえました」
「では、ご一緒させていただきます」
知れば知るほど、エリアスは察しの良い男だ。
イルヴァの意図を汲んだのか、あえて婚約のことをはっきりと口に出した上で、エスコートのように手を差し出してきた。
イルヴァは迷わずその手を取ってその場を後にした。
2人でカフェに入ると、フェルディーン伯爵家でもエリアスの護衛として付いていた黒髪の男が、個室の扉の前に立ち、扉を開いて押さえた。
彼はエリアスの専属の護衛なのだろうから、これからも関わりが多いだろう。
そう思ったイルヴァは、彼の紹介を求めることにした。
「彼は護衛でしょうか?」
「紹介がまだでしたね。護衛であり、我々と同じくこの学校の生徒でもあるアスト・ベンゼルです」
黒髪で精悍な顔つきをしているのでパッと見は近寄りがたい印象だが、紹介されると、ふと相合を崩した。
「アスト・ベンゼルと申します。以後、お見知り置きを」
流れるような礼は、護衛というよりは従者のようだった。
その整った所作を見る限り、おそらく彼も貴族だろう。ベンゼルという名前からすると、ベンゼル子爵家の本家か分家筋かどちらかである可能性が高い。
「イルヴァ・フェルディーンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。私は扉の前におりますので、お二人でごゆっくりなさってください」
扉を押さえたアストに目で礼をしながら、イルヴァはエリアスとともに学内併設のカフェの個室に入った。
おそらくは高位貴族がゆっくりと食事をとれるように作られた部屋なのだろう。室内のあしらいも品のある作りだった。
その気になれば30名ぐらい入れそうな部屋に、ソファとローテーブル、書斎のような机、そしておそらく食事用のテーブルと椅子が配置されていた。
家具はどれも華美ではないが品のあるものが揃えられており、特にテーブルは見事な泡杢のある上質な木のテーブルで、丁寧にやすりがけされてはいるが、側面が木材本来の凹凸を感じさせる見事な一品だった。
イルヴァがどこに座るか悩んでいると、エリアスがそんな迷いを見透かしたかのように言った。
「ここで隣に座りましょう。食事は適当に頼んでしまったのですが、気にいらなければ追加で頼みます」
「ありがとうございます。私は特に嫌いなものはないので問題ありません」
エリアスが椅子を引いてくれたので、イルヴァはそれに従って座った。エリアスはイルヴァを座らせたあと、自身も隣に座った。
テーブルの上には魔法石の埋め込まれたハンドベルがあった。エリアスがそれを手に取り小さく振ると、音が鳴る代わりに魔法石が淡い光を放つ。
ハンドベルの内部には振子がないので、物理的には音が鳴らない仕組みになっているが、魔法石が振動を感知してお知らせしてくれる。
5分も待てば、食事が運ばれてくるだろう。
そう思って一息ついた瞬間、扉がノックされて、昼食が一気に運ばれてきた。
魔法石がなるまで透明になって部屋の隅にいたのではないかと疑うほどの速さだ。
5名ほどで手際よく食事を全て並べると、一斉に退出していった。
「この部屋はどういう用途で用意されているのですか?」
「侯爵家以上の家の人間であれば、基本的には誰でも予約できます。ただ王族の方も使われることがあるため、基本的には爵位が高いものの予約が優先されます」
「同伴者の身分は問わないのですか?」
「貴族であれば問題ありません。ただし、申請時に記入が必要です。今回はイルヴァと私、アストの名前しか書いていないので、配膳のとき以外、いかなる人間も入ってくることはできません」
王族も利用するということなので、セキュリティはしっかりしているのだろう。個人を認証できる結界が貼られているのだとしたら、かなり高度な魔法だ。侯爵家以上など、利用者を限定しないと運営が回らないであろうことは想像に堅くない。
「軽食を一通り並べさせましたが、お気に召すものはありそうでしょうか?」
貴族の食事で全ての料理を並べる形式の料理は、基本的に軽食である。
ただし、ここが王族にまでも利用されるカフェの提供するスペースであるからなのか、軽食というには手の混んでいそうに見える料理も多く並んでいた。
「どれも美味しそうです。こんなに数があると悩ましいですね……」
「一緒に食事をするのは初めてなので、あまり気を使わなくて良いように、簡単につまめるものにしました」
確かに手掴みで食べれる食事も多い印象だ。
手のひらにのりそうな小さな丸いパンにチーズとトマトとベーコンが挟んであるものや、焼きたてのスコーンなどティータイムでよく出る軽食から、タルトのようなサクサクそうな生地の上に、色とりどりの野菜と卵が添えられているようなものや、あまり見たことのない珍しい野菜や果物がいっしょにピンにさされたピンチョスなど、見た目も美しいものが多い。
悩んだ末に、イルヴァは一口サイズの野菜のタルトのようなものを皿にとった。
「野菜のセイボリータルトですね。実はそのビーツは、レンダール領で名産のものなんです。そちらのスコーンはレンダール領の小麦を使っていて、そのタルトは、私もよく好きで家で作ってもらっているんですよ」
あまりにも詳細な料理の説明に、面を食らったイルヴァは、心の中で疑問に思うよりも先に口に出した。
「料理を食材から監修されたのですか? カフェの通常料理にしては、あまりにもお詳しいですよね……?」
「ああ。これはカフェの料理ではないんです」
「カフェの料理ではない?」
「場所はカフェの所有ですが、食事は公爵家のシェフに作ってもらったものです」
「公爵家の? どうりで美しく手のこんだ料理が多いと思いました」
料理にも食材にも詳しいことにも合点がいった。
公爵家の料理人が作ったのであれば手のこんだものなのも頷ける。エリアスの料理の説明が、ただ単にカフェで料理をオーダーした人のものではなかったので驚いたが、納得である。
「約束をしていたわけではなかったのに、ここまで準備をしていただいてありがとうございます」
先ほどの手際の良い配膳の謎も解けた。公爵家の料理人が作り、公爵家の使用人が持ってきたのだろう。彼の配下だから、ハンドベルで呼んでから瞬く間に現れたのも、この場のために待機できる人員だったからだ。
そして、それをわざわざ手配してくれていたエリアスの気遣いが、イルヴァには好印象だった。
「喜んでいただけたなら良かったです。
「ありがとうございます。では、エリアス様もお気に入りというこのタルト、いただきますね」
一言そう断ってから、野菜のタルトを口に入れた。
ほんのりとしたビーツの甘みと、塩気を感じるサクサクのタルト。チーズとハーブで作られたフィリングが絶妙にマッチして絶品だ。
エリアスが気にいるのも分かる。
「美味しいです。甘くないタルトは初めて食べましたが、食事としても良いですね」
「このタルトを気に入っていただけて嬉しいです。他のものも遠慮なさらず召し上がってください」
エリアスはそう言いながら、彼自身もいくつか軽食を皿にとり、口に運んでいく。
顔が整っているのはわかっていたが、エリアスは食事の所作も美しかった。誰もが見惚れる美青年は、何か欠点はないのだろうか。
ーーーこの人、なんで私を選んだのかしら? 顔が良くて気遣いもできて、パーフェクトな貴公子? それが本当なら、私を選んだ理由が分からないわ。いっそ詐欺だったという方が納得できる。でも、それならここまで心を尽くす必要はないわよね……。まるで私のことが好きみたいだわ。
考え事に耽っていて食事の手がとまったことが気になったのか、エリアスがじっとこちらを見つめてきた。イルヴァは思わずエリアスを見つめ返すと、エリアスがいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「まだ、ご納得いただけてないみたいですね。そんなに疑われるとーーー」
「疑われると?」
「ーーー悲しいです」
おやつを目の前にして待てをされた犬のように刹那げな表情をしたエリアスに、イルヴァの心臓が跳ねた気がした。
恋愛感情があるかどうかはさておき、これだけ顔のよい男にそんな顔をされると、どうしても落ち着かなくなってしまう。
「そもそも、イルヴァ嬢は他人にあまり興味がなさそうですよね。私のことで知っていること、何がありますか?」
「エリアス様は、本当に鋭いお方ですよね。私のことをよくわかっていらっしゃいます。正直なところ、レンダール公爵家の長子で、この王国で結婚したい貴族男性No1だ、ということぐらいしか知りません」
イルヴァの言葉にエリアスが絶句していた。
その顔を見てピンときた。
おそらく誰もが知っているようなエリアスの基本情報がまだ他にあるのだ。
イルヴァは知らないが。
「その……そんな顔なさらないでください。エリアス様に興味がないというか、本当に誰にも大して興味がないのです」
「ちなみに、イルヴァ嬢は学校での成績掲示などを見ていますか?」
「いえ。見ませんね。他人の成績に興味がなく」
学校には名前が30位まで掲示されるらしいのだが、他者の順位を知ったところで、自分の順位に影響するわけではない。
「誰かに勝ちたいと思うことはありませんか?」
「勝ちたいとは思いますね。ですが、何人に勝っているかは自分の順位でわかっているので、誰に勝つかは重要ではないですね」
ここまで話していてふと、もしかしてエリアスは成績上位者なのではと思い当たった。
イルヴァは非公開にしているが、首席なので成績掲示は見る必要がない。
しかしそのことはまだ打ち明けたくない。
となると、話を逸らすしかない。
「ですが、今日、一つ知ることができました」
「え?」
「エリアス様が、とても素敵な心遣いができる方だということです。今日は朝から遠慮のない視線にさらされて苛立ちを覚えていたのですが、このような素敵なお部屋とお料理を準備してくださって、私の心が晴れました。本当に感謝しています」
話題を逸らそうと思って始めた話題だったが、イルヴァが言っていること自体は自分の素直な気持ちだ。
今日、あの場にエリアスが現れなかったら、苛立ちを抱えたまま午後の授業を受けることになっただろう。あるいは、もしかすると午後の授業を放棄したかもしれない。
だから、イルヴァは心からの感謝を込めて、微笑んで言った。
「エリアス様のそういうところ、素敵だと思います」
隣に座っていたエリアスが、目を見開いて、小さく息を呑んだ。そんなに驚かせることを言っただろうか、と不思議に思っていたら、エリアスがそっとイルヴァの手に自身の手を重ねた。
「ありがとうございます。たとえ気を遣っていただいたのだとしても……そうやって褒めていただけると、嬉しいです」
噛み締めるようにいったその様子から、エリアスが思いの外喜んでくれたことを知る。
「私は率直なタイプですから、気を遣って褒めたりしません。本当にエリアス様に感謝していますし、私はそういう気遣いができる方、好感を持てます。それにそもそも……」
「そもそも?」
「私にこんなに自由に話しを許してくださる方というだけで、私にとっては特別です」




