2.結婚の申し込み
イルヴァ・フェルディーンは貴族としては致命的な性質の持ち主だった。
それが故に、熟成したワインを思わせる深い赤色の髪と瞳をもつ美しい造形の顔立ちなのにも関わらず、18歳までも婚約の話をまとめられずにいた。
鏡の前に映る自分を見ながら、そっとため息をつく。
「この美貌で婚約できないなんて……」
我ながら顔は整っている自負がある。しかし致命的な社交能力のなさが仇になって、イルヴァは婚約はおろか、友人と呼べる相手も1人しかいない。
男性と仲良くなろうにも、口を開こうものなら、むしろ逃げられる可能性が高くなるのだから、どうにもならない。
「お嬢様!」
イルヴァの思考は、伯爵家の侍女とは思えない慌てぶりでかけられた声により寸断される。
返事をするより先に、扉を開けると、専属侍女であるマリアが青ざめた様子で立っていた。
「どうかした?」
「旦那様がお呼びです。レンダール公爵家から手紙が来たことの説明をとおっしゃっています」
「レンダール公爵家?」
レンダール公爵家といえば、イルヴァの同級生に、かの家の嫡子であり長子のエリアス・レンダールがいるが、彼とはこの前の学校のパーティーでダンスしたぐらいの接点しかない。
ダンスの時も社交辞令にしてはイルヴァに好意的すぎる発言をしてくれたので、謝罪を要求されるようなことはなかったはずだ。
「何か心当たりがおありですか?」
「いいえ。この前、ちょっと一緒に踊ったぐらいよ」
イルヴァがそう答えると、マリアはますます顔色を悪くした。
「お嬢様。ダンスをされたのであればお話しされたのでしょう? 何か、その、正直に申し上げてしまったことがあるのでは?」
「私はいつだって正直よ」
「それが問題だと思いますが……とにかく、旦那様のところへ行きましょう」
「そうね」
マリアに先導されて伯爵家の自室から、伯爵である父の書斎へと足を運ぶ。
書斎にいく途中でも、やたらと使用人の動きが忙しない。まるで、この後に高貴な誰かが来訪するような騒ぎだ。
ーーーまさか、お父様が受け取ったという手紙、レンダール公爵家からの前触れで、今日公爵家の方が訪れるという話なんじゃ……。
なんだか嫌な予感がしたイルヴァは、足早に屋敷の中を移動した。
そしてもうすぐ書斎だというところで、マリアはなぜか、方向を変えた。
「書斎ではないの?」
「応接室にお呼びです」
イルヴァは嫌な予感がしながら、応接室に足を踏み入れる。
すると、真剣な面持ちの両親が揃っていた。どうやら応接室にしたのは、母もいるからだったようだ。
既に客人がいたらどうしようと思ったイルヴァは、安心して息をついた。
「イルヴァ。座りなさい」
父ヴァルターの向かいにあるクッション性の良い三人がけのソファに腰を下ろすと、目の前のローテーブルに置かれた手紙が目に入った。
これが呼び出された原因だろう。
「それで、レンダール公爵家からはなんと?」
単刀直入に質問すると、イルヴァと同じワインレッドの髪をした父は、深いため息をついて追い返した。
「逆に、エリアス殿に何をしたんだ?」
「エリアス様に? 学内のパーティーでダンスを踊ったぐらいです」
「どう言った経緯で?」
「私が不注意でぶつかってしまって、謝って立ち去ろうとしたら、なぜかダンスに誘われました。ですが、特にご不快なご様子ではありませんでしたよ? ダンスが終わった後も、穏やかに微笑まれていて、お怒りには見えなかったけれど」
「ダンス中に何か言ったのではない?」
横から母が口を挟んだ。イルヴァにそっくりな顔をした母ミネルヴァは、髪の色さえ違わなければ鏡を見ているような顔立ちだった。
しかし、自分はあんな険しい表情は作らないが。
「できるだけ口数を減らしているので、質問に答えていただけですが……」
「何を話したのか全てーーー」
「ーーー大変です! エリアス・レンダール様がいらっしゃいました!」
母の更なる尋問が始まろうとしていたところで、侍女が慌ただしく応接室に乱入してきた。
「今、もう来たの? 手紙は今日届いたのでは?」
「その手紙、配達が3日遅れていたのです」
なるほど。どうりで屋敷中が騒がしかったわけだ。前触れが3日も遅れたら、こうなる可能性はある。
「ひとまずセバスチャンが対応しており、お待たせできないため、適当に時間を稼いだ後、このままこの部屋にご案内の予定です」
乱入してきた侍女がそういうと、父と母は素早く立ち上がり、上座からイルヴァのいた下座に移動した。
普段はゆとりのある三人がけのソファがどことなく窮屈に感じる。
そしてその侍女はテーブルの上にある手紙を素早く手に取り、懐に隠した。
「お茶の用意は?」
「なんとか間に合いそうですが、席に着くまでにゆっくり自己紹介いただけると……」
「わかったわ。あなたはもう行きなさい」
ミネルヴァと侍女のやりとりを横目で見ながら、イルヴァは父に小さい声で質問した。
「それで、手紙には何の用件で来訪と?」
「用件が不明なんだ。ただ、フェルディーン伯爵夫妻とイルヴァ嬢の時間が欲しいとだけ」
「お父様とお母様の同席を求めるということは……やはりなにか私が失礼を? ですが、失礼ならいっそ呼びつけられるのでは? 家格は向こうのが上なのですから」
今回の訪問は色々とチグハグな点がある。公爵家ともなれば、非礼を咎めるのであれば前触れの翌日に呼び出すのもよくある話だ。
準備の時間など与える必要はないのだから。
それに、わざわざ向こうが足を運ぶのも謎である。高位貴族が家格が下の家に訪問する場合は、個人的に親しい間柄であるか、求婚の時ぐらいだ。
「まさか、求婚される可能性があるのか?」
父も自分も同じことを思いあたったが、2人で同時に首を横に振った。
「この前のは、社交辞令だと思うので違うと思います」
「社交辞令でも求婚を仄めかされたのか?」
「ええ」
イルヴァの回答に、父と母がギョッとしたように身を乗り出した。
しかし、彼らが質問するより先に、無情にも部屋の扉がノックされた。
ついに、来てしまったのだ。
三人は静かに立ち上がると、来客を出迎えた。
執事であるセバスチャンに案内されて入ってきたのは、見事な金髪と青い目が目を引く美貌の青年エリアスと、おそらくその護衛の鋭い雰囲気の黒髪の男性だ。
こうして華やかな美貌の青年が部屋に入ると、部屋の空気までどこか爽やかになったように感じられる。
単純に、エリアスの容貌はイルヴァの好みであるというので、そういった高揚感もあるかもしれない。
「レンダール様。ようこそいらっしゃいました。私はヴァルター・フェルディーンと申します。そして、妻のミネルヴァと、娘のイルヴァです」
何とか震えずに言い切った父の紹介に合わせて、母と2人で正式な礼をした。イルヴァは顔見知りなので、略式の礼でも良いのだが、用件がわからぬ以上、礼節は尽くした方が良いだろう。
礼を終えて視線を上げると、エリアスと目が合った。すると、エリアスがニッコリと微笑んできた。
明らかに好意がありそうな笑みに、父と母が小さく息を呑む。
「初めまして。エリアス・レンダールと申します。イルヴァ嬢とは、学校の同期として学んでおります」
エリアスはそこで言葉を区切ると、イルヴァに向き直っていった。
「先日のパーティー以来ですね」
「そうですね。あの日はダンスに誘ってくださってありがとうございました。エリアス様はダンスもお上手で、楽しいひと時を過ごすことができました」
「いえいえ。イルヴァ嬢こそ、軽やかに踊られていて、フロア中の男が私を羨望の眼差しで見つめていました」
ーーなんとも思ってない女をこんなに褒めることができるなんて、この前といい、今回といい、リップサービスが旺盛ね。これがモテる秘訣なのかしら。
息を吐くように褒めたエリアスに感心しながらも、着席を促して良いかと、視線を扉の方に向ける。すると、執事が小さく頷いた。
お茶の用意は間に合ったようだ。
「よろしければ、おかけください」
「では、お言葉に甘えて」
エリアスがソファにかけ、護衛の男がその後ろに立つ。
それを見届けた後、フェルディーン家の三人も座ると、手早くお茶が用意された。
「急な訪問で申し訳ありませんでした。驚かせてしまったでしょうか?」
「レンダール様のご訪問であれば、いつでも歓迎です」
父は質問には答えずに、ただ歓迎の意を伝えた。本音は驚いたし、不安でいっぱいだろうが、それを表に出さないのが貴族である。
イルヴァが口を開けばそれはダダ漏れになるので、できるだけイルヴァは口を開かぬように話の流れは父に任せることにした。
紅茶の香りがふわりと広がった。心の落ち着かない主人のためか、鎮静効果のあるハーブティーだ。ハーブ由来の甘味とすっきりとした味わいが美味しい。
「それで……その……娘が何か、失礼をしましたでしょうか?」
ハーブティーの力を借りても落ち着けた様子のない父は、恐る恐ると言った様子で切り出した。
するとエリアスは不思議そうな顔で首を傾げた。
「失礼? いいえ。どうしてそんなご心配を?」
「ご用件に心当たりがなく、不安に思っていたのです」
父がそう返すと、エリアスはなるほど、と頷いた後、気軽な天気の話題ぐらいの軽さで彼は続けた。
「今日は、イルヴァ嬢に婚約の申し込みにきました」
カタリ、とカップの底がソーサーにつく音がした。動揺した母が手元を狂わせたようだ。ハーブティーこそこぼしていないが、母の手が震えている。
父は、何を言われたかわからないという顔で、呆然とエリアスを見つめた。
「よろしければ……まずは、2人でお話ししませんか?」
本当は黙っていたかったが、両親は動揺で真っ白になっているので、イルヴァが話すしかない。
「私の記憶では、レンダール様と私にはこの前のダンス以外では特に接点はないと思いますので、早まらない方がよろしいかと」
「2人でお話しさせていただいてもよろしいですか?」
エリアスにお伺いを立てられた父が、悩ましい顔をした。
おそらくは、イルヴァの性質を知らないで婚約してくれるならそれでもいいのではないか、という気持ちと、そんなことしたら後々大問題になるからやめた方がいいという気持ちだろう。
普通の男親が心配するような、娘が独身の男と2人で話すことへの心配でないことだけは確信できる。
「はい。私どもが外しますので、娘とお話ししてみてください。娘はその……評判とはやや……異なる面もありまして……。驚かれないといいのですが」
逡巡の後に、父は娘をよく知ってもらう方を選んだ。
「お時間いただけるのであればぜひ。それに、私が驚くことはないと思います」
エリアスがにっこりと人の良い笑みを浮かべてそう言い切ると、父は即座に疑わしい目をこちらに向けた。
それはまるで、本性バレてるんじゃないのか、と言わんばかりの目である。
イルヴァはそんなわけない、と小さく首を横に振ると、両親に目線で退出を促した。
そうして、フェルディーン伯爵家の応接室から両親のみならず使用人含めて全ての人間が出ていった。
驚いたことにエリアスの護衛の男も退出した。
扉は申し訳程度に開けられているが、扉の外に人の気配はない。
「こうしてゆっくりお話しするのは初めてですね」
声をかけられて、向かい合って座る男を真正面から見る。
学園でも人気の高い貴公子だけあって、素晴らしく整った顔面と、混じり気のない美しい金髪の髪の美青年が、微笑みを浮かべてこちらを見ている。
その美しい顔に見惚れていたいが、ぼんやりしている暇はない。
多少、ボロが出たとしても、エリアスの意図を確認しなければ。
そう思って、意を決して、口を開こうとしたイルヴァに、エリアスが提案した。
「お好きに話していただいてかまいません。私は公爵家の人間ですが、気安くお話いただいても、咎めませんから」
「本当ですか? 書面にしていただいても?」
言いすぎた、と思った時には言葉ははっきりと発せられてしまっていて、取り戻せない。
イルヴァはせめてもの取り繕いとして、書面での契約を求めるのが当然かのように澄ました顔を作ることにした。
「こちらを」
目の前の貴公子は、さらりと一枚の紙を取り出して、イルヴァに手渡した。
「えっ?」
内容を見て思わず驚きの声を上げてしまう。
その紙が、あまりにもイルヴァに都合の良いことが書いてあった。
「イルヴァ・フェルディーンとの親睦を深めるため、自身に対するその言動を咎めない。エリアス・レンダール……。と書いてありますが、本気でしょうか?」
「はい。そちら、公正証書として成り立つように魔法署名です」
イルヴァはその紙にそっと触れると、インクの部分から確かに魔力を感じた。
ーーー本物だわ。この人、私にこんなもの渡すなんて後で後悔するんじゃないかしら。……でも、これがあるなら、遠慮はいらないわね。
「ご配慮ありがとうございます。では本題を」
イルヴァはその紙を大切に折りたたんで膝の上に置くと、ずっと気になっていたことを率直に切り出した。
「どうして私に婚約のお申し込みを? 私たちは学園でも特に接点もありませんし、お話ししたことも授業での最低限の会話ぐらいと記憶しております。ダンスパーティではご縁があったものの、あなたと結婚したい女は星の数ほどいますので、私を選ぶ理由が分からないのですが……?」
こんなに率直に意見を求めるのは貴族として不適格だが、ちょうど良い紙ももらったことなのでイルヴァは遠慮しなかった。
しかし、目の前のエリアスはなぜか全く動じずに言葉を返してきた。
「いわば、一目惚れでしょうか」
「ひとめぼれ……一目惚れ?」
イルヴァがエリアスに一目惚れするならまだしも、この顔の男がイルヴァに一目惚れすることなどあるだろうか。
この男は自分の顔を見たことがないとでもいうのか。
しかし問題はそこではない。一目惚れだとしたら、もっと問題になるところが他にある。
「私はかなり率直なタイプでして、顔だけはそこそこ自信がありますが、あまり社交にむいた気質ではないのですが……」
「いえ。その正直さも素敵です。私は率直な女性が好きですが、貴族の慣習に囚われて、正直さとは無縁の女性が多いですから」
「シュゲーテル貴族は婉曲表現こそ、美徳ですものね」
正直さを褒められて、イルヴァは少しだけ心が動くのを感じた。
このシュゲーテル王国の貴族として生まれて、この正直さはむしろ欠点として扱われてきた。
それを褒めてくれる相手がこの国に存在したとは、イルヴァの気持ちが浮つくのも仕方がない。
「確かに、正直さを評価いただけるなら、私は適任かもしれません。とはいえ、私は、本当に思ったことを口にしてしまうタイプなのです。レンダール様が良くとも、ご両親に失礼があるかもしれません。幼少の頃、何人を泣かせたか……」
そこまで話してから、また余計なことを言ってしまった、とイルヴァは小さく俯いた。
手元を見たのを誤魔化すようにハーブティーに口をつける。
「両親は私の婚約については一任してくれています。反対することはありません。それとも……」
エリアスが、言葉を区切ったため顔をあげると、青い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「私のことがお気に召しませんか?」
思いもよらない質問に、イルヴァは軽く咳払いした。
「ご冗談を。あなたのことを気に入らないという女は、この国全土を探してもほぼいないでしょう。私がそんなことを言えば、少なくとも学校中のありとあらゆる女子生徒に罵倒されそうです。まあ、あなたと婚約しても妬み嫉みはすごそうですが」
「それは……婚約相手として考えていただけると?」
「ええ、もちろん。この上なく良いお話だと思っております。ただ……やはり、レンダール様が私を選ぶ理由が釈然としませんが。私からすれば願ってもない話ですが、レンダール様には何の特があるのでしょう?」
「やはりこの前の答えも、一目惚れという話も信じていただけていませんね」
「そうですね。逆の立場なら信じますか? 私が学校でなんと噂されていると?」
口を開けば言いたい放題してしまうイルヴァは、学校では寡黙な生徒として名が通っている。寡黙と言えば聞こえは良いが、どちらかといえば無愛想で高飛車な女だろうか。
「紅色の氷華と名高いですよね」
「名高いというか、つまり無愛想な女ということを婉曲に表現しているに過ぎません」
「ですが現実のイルヴァ嬢はこんなに饒舌ではありませんか」
「それは……これのおかげです」
イルヴァはさきほどもらった紙をひらひらと振って見せた。イルヴァの発言を咎めないという公正証書を持ってくるなんて、この男は本当に気が利いている。
恋愛感情があるわけではないが、この男を逃したら、これ以上理想的な男は出てこないだろうとすでに確信していた。
「そういう意味では、レンダール様は私の良き理解者といえます。あなた以上の男性はこれ以降の私の人生に現れないでしょう」
しみじみと思ったことを口にすれば、なぜかエリアスの顔が朱に染まった。
そして、なぜか彼は席を立ち、イルヴァの側によると、跪いた。
「レンダール様!?」
「イルヴァ嬢。私と婚約していただけませんか?」
公爵家長子に目の前で跪かれて、ときめきよりもちがう意味で心臓がドキドキしながら、イルヴァは半ば叫ぶよように言った。
「どうかお立ちください! 婚約しますから!」
「本当ですか?」
イルヴァはエリアスを立ち上がらせながら、話を続けた。
「お父様もどうせ反対することはありません。公爵家から正式に申し入れていただければ、この縁談はまとまるかと」
「イルヴァ嬢は……私のことをどう思っていますか?」
その整った顔立ちで見つめられると、まるで本当にエリアスが自分に恋しているかのように錯覚してしまう。
返事と関係ない思考がよぎったため、イルヴァはふいと視線を逸らす。
ーーー難しい質問ね。求められてるのは結婚相手としては理想的、という回答ではないんでしょうけど。
イルヴァにあるのは恋愛感情ではない。この胸の高まりは、美青年に見つめられた反射のようなものなのだ。
だから結局、イルヴァの回答は、変わらない。
「理想の結婚相手です」




