1.プロローグ
ダンスホールの隅で、イルヴァ・フェルディーンは、男子生徒と目があってもすぐに逸らされる現状にため息をついた。
ガラスに映る自分の姿は、どちらかというと美しいと言って良い姿である。
ワインレッドの艶やかでサラリとした髪を片側に流し、目鼻立ちも整っている。
ただ、あまり感情を表に出さない上に、冴えた美貌がより冷たい印象を与えているようだ。断られることを恐れた男たちは、イルヴァを公衆の面前で誘うことができずにいるらしい。
結果、伯爵令嬢で見た目も悪くないのに誘われない女が出来上がった。
ーーー最初のダンスパーティが不味かったのよね……。
イルヴァは社交音痴で、会話があまり盛り上がらず、踊った男子生徒を萎縮させてしまった。それ以降、一気に噂が広まって誘われなくなったのだ。
ここ、キルトフェルム王立学校では定期的にダンスパーティが行われているのに、ほとんど踊ったことがない。
ーーー学校の公式行事で、男のプライドを打ち砕いたりしないのに。失礼な人たちだわ。
自分の社交音痴を棚に上げ、心の中で文句を言いながら、せめて食事を楽しもうとワゴンに近づいた。
すると、イライラしていたからなのか、それとも料理に気を取られていたからなのか、人の流れに逆行していたイルヴァは、突然人にぶつかった。
「申し訳ありません。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。こちらこそ申し訳ありません」
謝りながら顔を上げると、美貌の美青年がそこにいた。この学校で同じ学年の同期、エリアス・レンダールだ。
整った顔が目の前にあって一瞬だけ見惚れたイルヴァだったが、すぐに我に返って、一歩後ろに下がった。
彼はレンダール公爵家の長子で、社交音痴のイルヴァが会話するにはハードルの高い相手だ。
顔が良かろうがなんだろうが関わらない方がいい。
「大丈夫ならよかったです。それでは」
イルヴァはさっさとこの場を立ち去ろうとして、踵を返した。
しかし、次の瞬間、後ろから自身の左手首を掴まれ、体が反転した。その勢いで一歩彼に歩み寄って向かい合う。
エリアスの青い目が、じっとこちらを見つめている。
「あの、よろしければ一曲踊っていただけませんか?」
「え? ……あ、はい」
ーーー無愛想な返事すぎたかしら。久々に誘われて、なんて返すべきか言葉が出てこなかったわ。
驚きすぎてあまりにもそっけない返事になったが、エリアスは気にしなかったようだ。
イルヴァをエスコートしたまま、ダンスホールに出た。そして曲に合わせて踊り始める。
エリアスのリードは、完璧だった。
彼のリードに身を委ねれば、ステップに失敗することはないだろう。
「フェルディーン嬢は踊りがお上手ですね」
「レンダール様のリードが良いだけです」
「そんな風に言っていただけるとは、光栄です」
「事実ですから」
イルヴァは正直な性分なので、お世辞をいうことはない。だからこれは社交辞令ではなく、本心で彼のリードを褒めたのだ。
「イルヴァ嬢は今日はどなたかと一緒に?」
「いいえ」
「私も1人で来たので同じですね。パーティーは苦手ですか?」
「ええ」
こちらの受け答えがどれだけ簡潔であろうと、エリアスは笑みを絶やさなかった。大体の男はここらへんで心が折れて顔がこわばっていく。
好きでそうしているわけではないが、とある事情により、イルヴァは嘘もつけずお世辞も言えない。
だから失言を避けるために、できるだけ簡潔な物言いを心がけている。
これが冷たいと誤解される一因なのだが、仕方がない。イルヴァが気ままに喋る方がより大きな問題になることは間違いないので、冷たく思われようが言葉数を減らすほうがマシなのだ。
ーーーレンダール公爵家の長子と踊ったなんて知ったら、両親が卒倒しそうだわ。非礼があれば立ち直れないと大騒ぎしそう。もうすでに失礼と言っても良いぐらい、素っ気ない対応してしまっているけど。
優雅なダンスのステップを踏みながらも、イルヴァの内心は波立っていた。
しかしイルヴァの願いとは裏腹に、エリアスは、にこやかに会話を続けた。
「フェルディーン嬢とはあまりお話ししたことがありませんでしたね。美しく気高いと評判ですが、こうして目の前にすると、美しさのあまりダンスが疎かになってしまいそうです」
「絶世の美男子にそう言われると、世辞でも悪い気はしませんね」
あまりの世辞の大盤振る舞いに、イルヴァは思わず笑みをこぼすと、率直に感想を述べた。
ーーーとはいえ、あなたが私の顔に見惚れてダンスが疎かになるなら、世の女性はあなたの姿を見て、とうに棒立ちになってるわね。
イルヴァは冷静にそんなことを考えながらステップを踏んだ。エリアスにリードされたダンスは、いままでで一番、何も考えずに踊れる時間だった。
「無口だと伺っていましたが、お話ししやすい方で驚きました」
「私は聞かれたこと以外、喋らないだけです」
「なるほど」
ーーーそしてあなたほど、めげずに質問してくる男が少ないのよ。
イルヴァ・フェルディーンを相手する男は、ほとんどの場合、そっけない返事に心が折れる。だからこんなに会話が続くことは珍しかった。
ーーーあーあ。何の気兼ねもなく話せるなら、もう少し会話も楽しめるんだけど。貴族の話法は向いてないのよね。
「聞かれたこと以外話さない理由があるのでしょうか?」
「……そうですね。私の率直な物言いですと、非礼になる場合もあるので」
思ったより踏み込んだ質問をされて、イルヴァは驚いていた。
今までそんなことを聞いてくる人はいなかった。イルヴァの冷たさに心が折れているか、あるいは、フェルディーン家は絶妙な立ち位置の家なので問題にしたくなかったのか、当たり障りのないことばかり質問してくる男ばかりだった。
しかしエリアスはレンダール公爵家の長子で、ほとんどの相手にそこまで気兼ねしなくてもよい。好奇心のままに尋ねてきたのだろう。
「自由にお話しできる相手は?」
「相手が寛容であるなど、家同士の問題にならない相手であれば、でしょうか。多くはありませんね」
「決まった相手や、裏で内定されている婚約者などでしょうか?」
「いるように見えますか?」
続いた質問にノータイムで返事をしたら、心の声がそのまま出てしまった。本来の貴族の話法としては、残念ながら縁がないと伝えるか、自分の婚姻事情を気にかけてくれる喜びを伝えるかの2択なのだが、今更それを言うのも遅い。
仕方ないので、言葉を足して、本来伝えるべきことを伝えた。
「ご存知の通り、あまり愛想もありませんから、縁がないのです」
「それは驚きですね。ですが、良かったです。私はフェルディーン嬢はとても魅力的な方だと思いますから」
「良かった? まるで求婚しそうな言い回しですね」
今度こそ、やってしまった、と身を固くした。ステップが乱れたところを引き寄せられ、フォローされる。
貴族の礼法の全てに違反しているようなそのものいいに、なぜかエリアスは驚いた様子も見せず、本当に嬉しそうな表情をして言い切った。
「お許しいただけるなら、伺います」
イルヴァは驚きすぎて、かろうじてダンスを続けながらも、言葉を失っていた。
しかし、数刻ののちに、これは社交辞令に違いない、と正気を取り戻した。イルヴァが求婚でもしそうだと言ってしまったから、引くに引けなくなったのだ。貴族男性が女性に恥をかかせるのはマナー違反だから。
それがわかったイルヴァだったが、この後なんと言葉を続ければ良いか困ってしまった。
イルヴァはとある事情から嘘がつけない。これは、思ってもない社交辞令も言えないのだ。
「そんなことを言うと、人によっては本気にされますよ」
イルヴァの言動が原因で始まったエリアスの社交辞令を、真面目に受け取ったと思われるのはまずい。そのため、エリアスの言葉は一般的には誤解されるが、私はしていないということを伝えるにとどめた。
ーーーこれで、私が社交辞令を社交辞令として受け止めたことは伝わったわね。
そう思ったのだが、なぜかエリアスは先程までよりわずかに腰に当てる手に力を込めて、イルヴァを自身の近くに引き寄せた。
「フェルディーン嬢はどう思っていますか?」
「それは……レンダール様が私に求婚なさることについてですか?」
「はい」
ここまではっきり問われてしまうと、イルヴァとしては答えなくてはいけなくなる。
「レンダール様のメリットがありませんね」
「なるほど。フェルディーン嬢のメリットは?」
ーーー普通は高位貴族なんだからメリットしかないわよね。でも、レンダール公爵家に嫁入りなんて、一生気軽に話せなそうだわ……。まあでも、レンダール様はわりと率直で話しやすいから、夫としては良いかも?
イルヴァがなんと答えるか悩んでいる間に曲が終わった。
質問から解放される、そう思ったのだが、なんとエリアスはもう一曲、とばかりにイルヴァを引き寄せた。
そしてそのままステップを踏み出してしまう。リードされているイルヴァは、仕方なくそのまま踊り続けた。
「質問にお答えいただいてないので、もう一曲いかがですか?」
「もう踊り出してますが……」
半分呆れながらも、イルヴァは思わずくすりと笑った。イルヴァに対してこんなに積極的な男性は初めてで、少し嬉しかったのだ。
彼は公爵家だからなのか、その顔の良さなのか自信家なのだろう。多少強引であっても、断られない自信があるのだ。
それに、エリアスは比較的、率直なタイプだ。素直に疑問を口にして、回りくどいこともしない。イルヴァとは相性の良いコミニュケーションのタイプといえるだろう。
先ほどよりもスローテンポな曲のステップを踏みながら、質問に答えることにした。
「エリアス様は会話を続ける才能がおありですから、夫婦としてうまくやっていけるかもしれません」
両親は自分の娘が何か失礼をして、家同士の問題にならないかと冷や冷やするに違いないが、イルヴァ自身としては悪くないかもしれない。
欲を言えばもう少し自由に話せるとより良いが、イルヴァのそっけない返答にめげない男性は貴重だ。
ふと、イルヴァはエリアスが長い間、ただダンスをしていて、相槌を打ったりしてこないことに気づき、顔を上げた。
エリアスの青い目とぱちっと目が合う。
彼の表情は、どことなく、照れているように見えた。口元が緩み、頬は上気している。
踊りながらじっと見つめていると、エリアスは急に我に帰ったように、表情を優雅な笑みへと変えた。そして言う。
「ありがとうございます。先ほどのフェルディーン嬢の発言を訂正させてください」
「訂正ですか?」
「私にとってもメリットはあります」
「そうなんですか?」
意外な言葉に、イルヴァは目を瞬いた。すると、エリアスは一呼吸おいてから、少し照れたような笑顔で言った。
「結婚したらイルヴァ嬢と一緒にいられます」
それは、普通に聞けば、まるで愛の告白のようだった。
その時、ちょうど、曲が終わって、2人は離れて互いに礼をした。
「ありがとうございます。光栄です」
イルヴァはその愛の告白めいた発言が、貴族のマナーに則った返答にすぎないと理解していた。
貴族の男性は女性に褒められたら、それ以上に相手を褒め返すのがマナーなのだ。
イルヴァがエリアスと夫婦としてうまくやっていけそうだと言ったので、それに儀礼的に返したにすぎない。
話もダンスも終わったので、イルヴァはそっとその場から立ち去ろうとした。
「先ほどは勝手にお呼びしてしまいましたが、お名前で呼んでも?」
貴族は基本的に許しがあるまで家名で呼ぶのがマナーだ。しかし、家格の差がある場合は、上のものが下のものをどう呼ぼうが問題にならない場合が多い。
エリアスは丁寧な紳士だから、尋ねてきたのだろう。
「ええ。もちろん」
「ありがとうございます。それでは、またお会いしましょう、イルヴァ嬢」
「ええ、また機会があれば」
イルヴァは微笑むと、今度こそ、その場を去った。
その時は、またの機会がすぐやってくるとは、夢にも思っていなかった。




