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誰かの危機

 こうして、後には無力な鬼瓦だけが残った。

 座り込み、俯き、意気消沈している。

 それを責める気は、どうしてか起きなかった。


 野球が生きがいだったのは俺も同じだ。

 それを取り上げられて、そこに付け込まれたら?

 俺だって同じことをしたかもしれない。


「鬼瓦よぉ……」


「なんだよ」


 鬼瓦は吐き捨てるように言う。


「肘ぶっ壊した大谷翔平がアメリカで打者として大活躍してる。もう言い訳はできねえんじゃねえか」


 鬼瓦は顔を上げると、目をまんまるにして怒鳴った。


「高校野球にDH制度はねえんだよ!」


「じゃあもう、直にアメリカ行っちまえよ」


 これだけ大暴れした彼に、ビザが降りるのにどれだけかかるかはわからないが。

 そこは自業自得だ。


 鬼瓦はしばらく唖然としていたが、そのうちまた項垂れた。


「悪霊の卵をもう一人に植え付けた」


 場に緊張が走る。


「ターゲットはお前の妹と雛子? とか言う子。そいつは雛子の発言のせいで生徒との交際が表沙汰になって懲戒免職になったとか言ってたかな。ホイホイ誘いに乗ってきた。孵化のタイミングはお前とアリエルがクーポンの世界に入った瞬間」


 鬼瓦はそっぽを向いて、申し訳無さそうに言う。


「お前には、悪いことをした」


 俺はクーポンの世界を閉じた。

 警察のサイレンが近づいてきた。

 俺は先輩に近寄り、顔の血を服で拭い取ってやると、一度抱きしめた。


「すぐ戻ってくるから」


 アリエルはいつの間にか猫モードに戻っている。


「っていうか岳志君」


 先輩はやけに平坦な口調で言った。

 平常時バイアスにでもかかったのだろうか。

 異常な状況下でも平常だと思い込もうとするアレ。


「あの黒猫がアリエルなら結局アリエルと同棲してたんじゃないの?」


 先輩はやけに平坦な表情で俺を見ている。

 感情や今起こったことの処理を一旦後回しにして今はそれだけを確認しようとしているような、そんな感じだ。


 俺はあらためて先輩を強く抱きしめた。


「すぐ戻ってくるから。今、妹がヤバいから。本当ごめん。マジごめん。仕方ないことだから」


 そうまくしたてると、俺は振り向きもせずにその場を後にした。

 ここまで乗ってきた自転車を起こし、乗る。籠にアリエルが乗った。


「どうしたにゃ? この自転車」


「借りた」


「鍵は?」


「壊した」


「それって借りたって言うより狩ったって言うにゃ」


 呆れたようにアリエルは言う。


「急ごう」


 俺は言って、ペダルを漕ぎ始める。

 妹の位置はスマホのGPSで確認できる。

 嫌なことに、妹の提案で、俺と妹は互いの位置をGPSで確認できるようになっているのだ。

 それが、雛子との婚約騒動なんてことをやらかした俺が一人暮らしを続けることへの妹の唯一の譲歩案だった。


「相手が危ない」


「……妹が危ないの間違いでは?」


 アリエルは、聞き間違えたかな? とばかりに言う。


「相手が、危ない」


 俺は、くり返し言った。



続く

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