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母さん

「今という時間は二度とないんだよ? 春武」


 刹那が慎重に、言葉を選ぶように言う。


「私が貴方にしてあげられることは、今しかできない。焦らなくても貴方は自立し自分の道を歩み始める。私達が一緒にいられるのは今だけなんだよ?」


「十分、してもらったよ」


 心が揺るがないかと言われれば嘘だった。

 恩のある刹那にこうも言われて躊躇わないはずがない。

 けど、俺は既に選んでいた。この地での生活を。


「許してくれよ、母さん」


 自然と、そう言っていた。

 刹那が射抜かれたように胸を抑える。


「愛と付き合い始めた。良いクラブも見つかった。俺はこの地で、もっともっと羽ばたける。母さんの手を焼かせる雛鳥はもういないんだ」


 刹那は俯く。


「……駄目じゃない」


 刹那は吐き出すようにそう言っていた。


「クソガキクソガキって防壁張ってんのに、あんたが私をそう呼んじゃ駄目じゃない」


 苦しそうに刹那は言う。

 そしてそのうち苦笑すると、俺を見た。


「近づきすぎたみたいだね」


 刹那のマメだらけの手が俺の頬を撫でる。


「そうか、あんたは巣立つか。愛ちゃんとしっかりやりなよ」


「うん。絶対に母さんが認める野球選手になる。立派な家庭も持つ」


 刹那は俺の口に指を当てた。


「刹那、でしょ。貴方の本当のお母さんに悪いから、二度とそう呼んじゃ駄目。私はただの、貴方の身近なオバサン」


「母さん……」


 拒絶されたようで、落胆する。

 刹那は俺を抱きしめていた。


「仕方ない子ね。周りの人にはよろしく言っとくからね。まったく、私に赤子任せたあんたの父親の血引いてるよあんたは。言い出したのは私だけど」


 刹那は俺を強く抱きしめて離さなかった。

 自分の顔を見せまいとするかのように。


「踏み込みすぎるとこうなるとわかってたのに、途中まで気づかなかった私は馬鹿だ。いつしか、自分の立場を勘違いしていた」


「かあさ……刹那は俺に良くしてくれた。俺を鍛えて正しく育ててくれた。立派な社会人になってそれを証明するよ。約束する」


「生意気言うな、クソガキ」


「鼻声でクソガキって言われても効かないぞ」


 指摘されて観念したのか、刹那は声を上げて泣き始めた。

 俺は、大人が泣いているのを、ひいては刹那が泣いているのを、初めて見た。

 愛されている。

 心は通じている。

 その実感が、俺をさらに真っ直ぐにしてくれているという感覚があった。



+++



「そっかー、先生君捕まっちゃったか」


 若い女性が呟くように言う。

 夜のバーだった。


「彼が捕まったと?」


 隣りにいた若者が戸惑いを隠さず言う。


「うん。混合力が消えた。霊気ってスキルは構造的に良くできてたんだけどなあ。彼も良く練って提案してきたし」


 しばしの沈黙の後、若者は口を開く。


「確かに、混合力が消えている。さっき強い魔力を感じた。その影響でしょうか」


「そうだろうね。我々の脅威はまだまだいるってわけさ。ちょっとした遊びが危険な火遊びだ」


 そう言って女性は軽薄に笑う。


「彼は可哀想な人でね。親に恵まれなかったんだ。怒号の響く家庭で育ち、臆病になり、初めて愛した人も守れなかった。だから、持っている者を許せなかった」


「そこを貴女に掬い上げられた」


「資質のある境遇だと思ってね。ま、遊びの一環だよ」


 そう言って女性は手を組んで伸ばす。


「貴女みたいな才能が貴女みたいな人間に備わっているというのも世間にとっては脅威だな」


「そうだね。私はさながら社会の敵、だよ」


 そう言って、女性はまた軽薄に笑う。


「スキルを与えし者。貴女の属性は神に近い。いや、神ですら不可能でしょう」


「まあ、また適当なおもちゃを見つけたら、適当なスキルを付与するさ。それが私なりの遊び方だ」


 春武達が聞いていたら絶望していたかもしれない。

 脅威はまだ、去っていなかった。



つづく

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