たけとしー、ご飯たーんとお食べ!
包丁が野菜を切る音と女性の鼻歌。
良い匂いが部屋を漂う。
汚部屋じゃなければなお良かったのだが。
ゴミ袋に入ったビール缶の山があちこちに積んである。
「上機嫌だな」
俺は苦笑交じりに言う。
「だってたけとし、しばらくここにいてくれるんでしょ? お姉ちゃん嬉しくって」
「いや、そんなこと一言も言ってないんだが」
「私が素面に戻るまで待っててくれたってそういうことじゃない」
語尾に音符でも付きそうな声で言う。
困ってしまった。帰ると非常に言い出しづらい。
しかし、妙な気分にも陥っていた。
夕方、台所から聞こえる包丁が野菜を切る音と料理の匂い。
小学生時代の母との記憶が刺激される。
これが憧憬という奴なのだろうか。
正直、居心地が良かった。
「なに作ってるんだー?」
「肉じゃが」
「煮崩れしないようにね」
「合点承知」
ズボラなこの人ならやりかねないな、と思いつつ待つ。
出てきたのは、やはり少し煮崩れたじゃがいもの肉じゃがだった。
「ちょーっと煮崩れちゃったかな。けど、美味しいよ」
そう言って微笑む。
俺は苦笑して受け取ると、ひとくち食べた。
家庭の味がした。
なんでこの人はこうノスタルジックな感情を呼び起こさせるのだろう。
これは、母のレシピだ。
「真奈姉」
「わー、お姉ちゃんって呼んでくれるんだ」
ぱあっと顔が明るくなる。
そんなところも可愛らしい。
本当、アリエル属って放って起きづらい。
「……ちょっとだけなら滞在して良いかもって気分になった」
「ホント?」
「けど、俺にも帰る家がある。ちょっとだけだぞ」
「いいよー、じゃ、お酒出すから今日も飲もっか」
「それだけはやめてくれ!」
思わず絶叫した俺だった。
姉の吐瀉物の生暖かい感触は俺のトラウマだ。
「条件だ。絶対に酒は飲まない。それを守るなら俺は滞在する」
むーと唸る姉。
「しょうがないなあ。昼は失態見せちゃったし、それが条件なら従うよ」
苦笑交じりに言う。
本当アリエル属だなあこの人は。
良く言えば純粋、悪く言えば単純。
「じゃ、決まりだな」
俺と姉との奇妙な同居生活が始まろうとしていたのだった。
「じゃ、まずは部屋の片付けからだ」
「下着とかそこら辺の服の下に落ちてるけど、大丈夫?」
私は気にしないけどね、とばかりに言う。
「真奈姉片付けてくれ。俺ちょっとブラブラしてくる」
「あんた良く結婚して子供作れたわねー。本当童貞なんじゃないの」
童貞だって言った瞬間爆笑されそうなので黙っておく。
「良いから、片付け。俺の寝るスペースないだろ」
そう言って立ち上がる。
今日はトレーニングサボっちゃったな、なんて思いが胸に湧く。
まあ、こんな日があっても良いかと思いつつ、外をぶらついた。
+++
深夜、目覚めた。
寝ぼけた姉に踏みつけられたのだ。
「あ、ごめーん。そっか、一人じゃなかったっけ、今」
そう幸せそうに言う。
帰るって言い出しづらくなるじゃないか。困った人だ。
そう苦笑した俺の顔が、姉の手を見て硬直した。
ビール缶を持っている。
「あ、そうだった。じゃあこれも駄目だね」
そう言って忍び足で歩いてビールを冷蔵庫に戻す。
そして、姉は俺の横にちょこんと座った。
正直、あまり片付いたとはお世辞にも言えない部屋だ。
俺達が寝ているスペースの周囲には紙袋や小物が散乱しているし、ビール缶もまだ捨てられていない。
けれどもどうしてだろう。
一緒に暮らしたことはないはずなのに、姉と居ることが居心地位が良い。
姉は俺の頭を鷲掴みにすると、自分の膝に持っていった。
また、膝枕。
「たけとしは良く頑張ってるね。いい子だ」
そう言って頭を撫でられる。
気が緩む。
駄目人間になりそうだ。
こうしてこの人の元彼も駄目人間になっていったのだろうか。
「たけとしみたいな弟がいてお姉ちゃんは誇りに思うよ」
「成功してるからか? 失敗してたら?」
「私の元彼、元プロサッカー選手でね」
それは初耳だ。
「サッカーの世界って引き抜きが激しいの。ちょっと活躍する選手がいたらすぐに高額で国内外からオファーが来る。だから、弱いチームはどんどん弱くなっていく」
姉は俺の頭を撫で続ける。
「だからね、私の元彼は成功してなくって、けど凄い沢山努力してたから、凄い人だなあって思ってたよ。成功や失敗じゃないんだ。チャレンジするってことなんだよ」
俺は黙り込む。
サッカーのことは正直良く知らない。引き抜きが激しいと言われてもピンとこない。
野球だってフリーエージェントとなれば引き抜き合戦は熾烈だ。
日本野球がメジャーリーグの下位リーグになりかねないという問題は年々増している。
けど、確かに、プロになれたならその人は努力したのだろう。
ただ、全国の努力した人間が集まる熾烈な競争の中で上澄みになれなかっただけで。
「失敗も、成功も、全部全部お姉ちゃんは受け入れます。だからね、たけとしも失敗した時はお姉ちゃんを頼って良いんだよ」
「けど、今度はあんたの借金解決する奴がいなくなるぞ」
痛いところを突いてやる。
姉は困ったなあとばかりに唸る。
「そうやってどんどん肩代わりしてったんだな。借金」
呆れ混じりに言う。
「たけとし~そう苛めないでよ」
姉は困り果てている。
その反応が面白い。
反抗期の子供ってこんな感情なんだろうか。
ノスタルジックな気持ちがやはり刺激される。
太ももの感触は柔らかく、心地よかった。
「……ま、今はあんたのそういう駄目な部分も受け入れなきゃいけないんだろうな。失敗も含めて受け入れてくれる姉の弟なんだから」
姉の顔が再度ぱあっと明るくなる。
「そう、そうだよ! 一緒に堕落しよう!」
「断るわ」
苦笑交じりに言う。
こういうのって共依存っていうのだろうか。
確信した。
この人、駄目男製造機だ。
そして、俺は徐々に堕落していく自分を感じるのだった。
模造創世石問題。オフシーズンの自主トレ。家庭。色々なものを手放したまま、俺は姉の膝枕の中で眠りにつこうとしていた。
泥沼に沈み込むように、ずぶずぶと、意識を失って眠った。
つづく




