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そっか、あんた軟式王子なんだ!

「そっかー、あんたってあの軟式王子なんだ!」


 姉は俺の腕を鷲掴みにして引っ張りつつ興奮したように言う。

 昼時とは言え東京二十四区内。人目はある。

 ざわめきが聞こえてくる。


「あの、その、そんな大声で言わないで……」


「いや、軟式王子なら知ってるよ。有名人じゃない。すごーい! それがなんちゃらなんちゃらーずの井上武敏選手なのね!」


 本当この人名前覚えないなあ。


「岳志です」


「そうそう武敏!」


 本当この人名前覚えないなあ。

 しかも一度間違ってインプットされるとそのままになってしまうらしい。


「武敏ー。今日は盛大に飲むぞー! お姉ちゃん奮発しちゃうんだからね」


 引っ張られている俺はのけぞり気味に歩いている。

 その先をまさにずんずんと言う擬音が似合いそうな勢いで姉が歩いていく。


「あんたを姉って呼ぶのはなんか抵抗があるから名前を教えてくれないか」


「真奈!」


「真実の名前で真名?」


「真実の奈良と書いて真奈!」


「じゃあ偽りの奈良もあるのか」


「そんなのあるわけないじゃない」


 呆れた、とばかりに言う。

 確かに当然の話だが何故かイラッときた。

 まさにアリエル属。

 人をイライラさせる属性。


「真奈さん」


「なに?」


「その、胸が当たってて居心地が悪い」


 正直な感想を言う。

 また呆れた、とばかりに姉は自分の胸元を見る。


「あんた童貞みたいなこと言うのねー。男児の父親じゃないっけ」


 童貞です、と言ったら盛大にからかわれそうなので黙っておく。


「まあわかったわよ。これでいいでしょ」


 そう言って姉は俺の手に手を絡める。

 柔らかく俺のものより一回り小さな手の感触。

 この人も女の人なんだなと再実感。

 している間もなく姉はまたずんずんと歩き始めた。

 のけぞりながら後を続く。


「真奈さん、暇なの? 仕事は?」


「今日は有休。てか借金抱えてたら仕事なんて手につかなかったわ」


「明日は?」


「土曜日じゃない。プロ野球選手と違ってきちんと週五働いてるわよ」


 本当かなあ。この人の雑さで社会人やれるのか? なんて思う。

 俺も一般企業じゃやっていけない人材だろうけど。


「あー、疑ってるわねー」


「別に……」


「じゃあ良いわよ、井上選手がうちの広告塔になってくれるって常務に連絡するんだー」


「あんたの就職してる企業ってのが怖いから勘弁してくれえ……」


「ますますイラッときた。あんた人を苛つかせる天才ね」


 俺は唖然とした。


「あんたが言うか!?」


「もー。面倒臭いわねー。女は共感。今じゃ義務教育じゃない?」


「俺は中学高校と寮で男ばっかの中で育ったんだ」


「よく嫁さん貰えたもんだわ」


「仕事が命って感じの人だからな。今じゃ女の生き方も色々ある」


「だからなんちゃら化するのよ。老人が増えてどうこうなんちゃら」


 本当いくつあるんだろうこの人のなんちゃらシリーズ。

 心の中でツッコむのもそろそろ疲れてきた。


「少子化な」


「そうそれ、そのなんちゃら化」


「少子化な」


「うんそれ」


 絶対覚えてない。確信を持って言えた。


「あ、いい店あるじゃーん。入ろうー。駆けつけ一杯、と行こうよ」


 そう言って俺は駅前の居酒屋のチェーン店に連れ込まれた。


「おーい、野球のなんちゃらなんちゃらーずの井上選手が来たぞー!」


 そう姉は声高々に宣言する。


「ちょ、ま、おま」


 お前、と思わず言いかける。

 一瞬で店内の視線が数十の矢となって俺を貫いた。

 喝采が起きる。


「硬式王子だー!」


「マジ? 本物?」


「妹ちゃんもいるじゃん。あれ? 胸盛ってる?」


「井上選手ー、サインくれー!」


 俺は引きつった笑顔で手をふる。

 姉と妹の顔が同系統だから幸い誤解されているようだ。

 刹那の時のような醜聞としては広まらないのが救いだった。


 俺達は店員に席に案内され、姉の勧めるままに酒を飲み始めた。


「言っとくけど俺、酒はそんな好きじゃないぞ」


「えー勿体ない。こんなに美味しいものないのよー。ご飯と合わせるとなおグー。私、料理作りながら呑んじゃうわー」


「キッチンドランカーって奴か」


「そそ」


 そう言ってケラケラと笑う。

 俺はちびりちびりと飲む向かいで、姉は次々に瓶を空にしていく。

 なにを話したかはよく覚えていないが、根掘り葉掘り聞かれたことは覚えている。

 例えば、妻となにを話しているかとか、子供は可愛いかとか、今の人生に満足しているかとか。


 俺は酔いつつも周囲の視線を意識しつつ模範的な答えを出さねばならなかった。

 その度、姉は嬉しそうに微笑んだ。


(あー、この人俺が幸せで嬉しいんだ。純粋ってか真っ直ぐってか)


 絆されたような気分になる。

 自分がちょっと前の瞬間まで借金漬けだったら成功者に撚た感情を抱きそうなものだ。

 この人にはそういうものがまるでない。


 良くも悪くもアリエル属。

 良く言えば純粋無垢。悪く言えば単純。


 俺は実家というものがあるならばそれに帰った気分になっていた。

 実際の実家は縁を切ってもうないけど、それがあったならばこんな風に近況報告してたのかなあ、なんて思いだ。


 姉はそのまま、心地よさそうにふらりとよろけて、倒れると、そのまま動かなくなった。

 あまりにもナチュラルに傾いていったので驚いた。

 近づいていくと、寝ている。


 酔い潰れたか。


(ああ、ホント、手間がかかるなこの人!?)


「井上選手ー、妹さん、仰向けにしといたら危ないかも。寝ゲロとかで窒息しちゃうことあるんでー」


 近くの席のお客さんが声をかけてくる。


「そうですね、ありがとうございます」


 そう言うと、俺は姉をひょいと抱えた。

 体重五十キロってとこかな。バーベルよりは随分と軽い。

 どよめきが起こる。


「井上選手流石ー。パワーあるー」


「腕力も背筋力も凄いなって思った」


 ちやほやされたりしつつ、俺は照れながら会計を済ませて店を出る。


「おーい、真奈さーん。あんたの家何処だよー」


 真奈はかろうじて意識を取り戻したのか、周囲をゆっくりと見回すと、座った目で一点を見た。


「あっち」


 そう言って指差した先は、行き止まりだった。


「ああ、もう……」


「あ、駄目、吐くかも」


「酒は飲んでも飲まれるな!?」


 俺の眼の前で姉は盛大に胃の中のものを戻したのだった。

 ちょっと酒がトラウマになった平日の昼時だった。



+++



 なんとか姉のアパートに辿り着く。

 案の定汚部屋だった。

 鍵をなんとか受け取り、中へと進んでいく。


 服だとか紙袋だとか化粧品だとか、そういったものが散乱している。

 寝るスペースがかろうじて確保されているだけの部屋。


 俺は姉を降ろすと、姉が吐いた時にかかった吐瀉物を洗い流すために風呂場へと入った。

 お湯を出し、それを落としていき、仕方なくコートを脱ぐ。

 妻からのプレゼントだったからなんとか落としたいものだ。


 そして戻ると、姉がぼんやりした目をして座っていた。

 意識があるのだろうか。それとも寝ぼけているのだろうか。判別がつき辛いところだ。


「たけとし~?」


「岳志だって」


 呆れてしまって、苦笑しつつ近づいていく。


「たけとしは偉いなー。稼ぎ頭で妻子養っててー。お姉ちゃんは彼氏養えなかったのら」


 隣に座る。


「しょーがあるめえ。闇金頼るような奴は救えねえや」


「けどお姉ちゃんは救いたかったのら」


 そう言うと、姉は涙を一筋零した。

 失念していた。

 大事な人だったのだろう。遠距離恋愛で、それでも近くにと祈った相手。


 姉は俺の頭を両手で鷲掴みにすると、膝に持っていった。

 柔らかい感触が頬に触れる。

 遠い昔にしてもらったことがある。


 肉親の、膝枕。


「ばっか、おま……」


 安らぎの感情を覚えた自分に少し戸惑う。

 俺は姉との会話にそこまで絆されてしまっていたのだろうか。


「お姉ちゃん、寂しいの」


 ずいっと座った目をして言う。


「は、はい」


「しばらくここに住むのら」


 そう言ってけらけらと笑う。


「そういうわけにもいかねえよ」


 苦笑しつつ言うと、姉は再び座った目になった。


「私は本気らよ?」


「は、はい」


 有無を言わさぬ威圧感があった。

 そう言えば、母親には逆らえない幼少期だった。

 俺は膝の柔らかさに不可思議でノスタルジックな感情を湧き起こされながら、視線をそらした。

 胸が上から降ってきて窒息しそうになった。

 姉が再び意識を失ったのだ。


 姉の姿勢を整えてやり、居酒屋での忠告を思い出してうつ伏せに寝かせる。


「……まあ別れるにしても、きちんと素面の時じゃないとな」


 この変に義理堅い性格がアリエル属に振り回される根源だと俺は薄々察しつつあったが、齢二十を超えると性格も中々矯正できないのだった。



つづく

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