雛子の憂鬱
それは爽やかな朝のことだった。
雛子はゴミ出しをしに朝の町に繰り出していた。
日本シリーズの岳志の活躍は凄かったな、と振り返る。
やはり自分の惚れた男は正しかったのだ。
なし崩し的に婚約を成立させておくべきだったか? と思わないでもない。
今では随分と距離ができてしまった。
ゴミボックスの蓋を開け、ゴミを入れる。
町内の人が入れ替わりにやってきた。
「雛子さん、ナシゴレ~」
雛子は引きつった笑顔で返す。
「ナシゴレ」
「今日は龍鳳様の法話があるわね。雛子さんももちろん参加するでしょう?」
「もちのろんですよ!」
「乗り気になってくれなくて去っていってもらわなくちゃいけない人もたまにいるからねえ。雛子ちゃんみたいに打ち解ける努力をしてくれる人は素晴らしいわ」
「努力だなんて。龍鳳様の話、私楽しみにしてるんですよ」
お調子者でお喋り。根本的なところは高校時代からなにも変わっていない。
それが公務員生活に溶け込めなかった一因なのだろうか。
「素晴らしいわ。是非この町に住み続けてね。ゴリレテ」
「ゴリレテ~」
そう言って両者は手を振り、別れていった。
そうして雛子は相手が振り返らないことを確認して、頭を抱える。
「ナシゴレもゴリレテもなんなんだよわけわかんねえよ」
吐き捨てるように言う。
語源も意味もわからない。かろうじてわかるのは挨拶だということだ。
雛子がこの町に来て三ヶ月。今の仕事は給料が良い。もう少ししがみついていたかった。
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向いてない、と思った。
そうしたら辞職届を書くまでは速かった。
二十代前半の身軽さで日本各地の派遣業を転々とし、今に至る。
画面の向こうでは着実にステップアップする岳志の姿。
それと自分を重ねて、言いようのない落差を感じる。
どこかで自分は間違ったのだろうか?
貯金は溜まっている。
けど、なにか落ち着かない。
落ち着かなくて、このままではいけない気がして、転職をして、また落ち着かなくなって。
自分のいるべき位置がわからなくなって。
堂々巡り。
そんなこんなでアラサーに差し掛かろうとしている。
時々、岳志の映る画面に触れてみる。
画面の向こうの彼はいつも前だけ見ている。一本気だ。
「私達の距離は、今、どれぐらいあるんだろうね」
呟く。
岳志は必死に野球をするばかりで、答えてくれなかった。
この異常な状況をぼんやりと考えながら見た日本シリーズ。
久々に連絡を取りたかったが、数年の時間、跳ね上がった相手の社会的地位。
心理的なハードルは中々に高すぎだった。
「あの頃なら、素直に頼れたのかな」
一緒に住んでいた頃を思い出す。彼はまるで、自分の兄のようだった。
今と昔では決定的に違うことがある。
雛子はもう大人なのだ。
人に安易に頼れるほど子供ではないのだった。
つづく




