いや、違うんだって
「おう、どうした。親父達が心配するんじゃないのか、こんな時間にうろついて」
妹はぎこちない動きで俺と視線を合わせる。
地獄の底に繋がるような漆黒の瞳をしていた。
「今日はお兄ちゃんに話があってきました」
「そっか。あらたまってなんだろう。入れよ」
俺は冷や汗が流れるのを感じていた。
なんとなーくその話の内容というのがわかる気がしていたからだ。
部屋に入って妹と向かい合わせになって座る。
アリエルは慣れたもので、猫になっていた。
衣服も片付けてある。
黒猫がパソコンの前に座って孤独のグルメを見ている姿はある種シュールだった。
「雛ちゃんと最近仲良いんだって?」
ぎくりとする。
やはりそこから来たか、と言った感じだ。
「ああ。草野球の朝練とかで一緒にやってるよ」
「勉強とかも一緒にやってるんだって?」
「教えてくれって言われてな」
「凄いよー雛ちゃん。期末テスト英語九十点だったからね」
妹は微笑んで言う。
そうかそうか、俺のやったことも無駄ではなかったわけか。
「あ、飲み物もないのもなんだな。カルピス出すわ」
そう言って俺は流しに出る。
コップを二つ取り出し、カルピスの原液を水で薄めて出す。
そして、妹の前と俺の前に置いて座った。
「で、婚約したんだって?」
妹は目を見開いて言った。
六華さん怖いです。
それ俗に言うガンギマリ顔です。
けど、さすがに雛子の勘違いだとは言えない。
雛子に恥をかかせることになる。
いずれ雛子に説明しなくてはならないだろうが、周囲に訂正するのはそれからだ。
「あー、まあ、そうだな」
コップが割れる音がした。
妹が握力でコップを握りつぶしたのだ。
人間は脳のリミッターが壊れるととてつもない力を発揮すると言うが、怪力が過ぎる。
「妹の親友に手を出すなんてサイテー!」
妹が怒鳴る。
「いやだな、俺は俺が屋台のラーメン屋になってもついてきてくれるだろう? って言っただけで」
「それなら私だってついて行くよ! お兄ちゃんの行くところならどこだってついて行く!」
「けどお前……妹だろ」
「お兄ちゃんの馬鹿!」
ガラスの破片が投げつけられる。
俺は慌ててそれを躱した。
そして、妹はそのまま駆け去っていってしまった。
脱力する。
「モテる男は苦労するにゃあ」
アリエルがいつの間にか人間モードに戻って孤独のグルメを鑑賞していた。
思わず、思ったことを言う。
「俺、お前といる時が一番楽かもしれねーわ」
「ほう、なんでにゃ? あんなに駄猫駄猫言ってるのに」
「恋愛沙汰にはなんねーからな」
アリエルはケラケラと笑う。
「それはそーにゃ」
そういうとこだよ、と思う。
こいつはこいつでいいパートナーなのかもしれないとあらためて思う。
その翌日の練習のことだった。
「タケちゃん、婚約おめでとう!」
「いやあ、めでたいなあ!」
飛び交うおじさま達の声。
雛子がニコニコ幸せそうに微笑んでいる。
これは早いうちに誤解を解かねばなあ。
そう思うのだが、孤立した家庭で孤独な戦いを続ける雛子のことを思うとどうしても躊躇してしまうのだった。
狭い町内、噂が広がるのはあっという間だろう。
あれ、逃げ場なくね?
続く




