不思議な老人
旅館を出た途端、硫黄の匂いが鼻をついた。
エメラルドグリーンの湯滝が温泉街の中央に見える。そこからのものだろう。
「凄い匂いだなー」
「効果ありそうだね」
先輩が楽しげに言う。
(先輩が楽しそうならそれでいいや)
「色々建物あるみたいだけど、どんな店があるかなあ」
「今軽くスマホで見てたんだけどね。足湯カフェなんてあるんだって」
「へー、足湯カフェ。洒落てんねえ」
「せっかくだから行きたいなあ」
「俺に異論はないよ」
先輩が楽しめるならどこにだって付き合う所存だ。
正直、温泉に軽く浸かって部屋でごろごろしているだけでも俺は十分満足できる。
けれども、パワフルな先輩にジャイアントスイングされる旅行というのも悪くはない。
俺達は目的地に向かって、俺が居ない間の東京の話題で盛り上がりながら歩き始めた。
「皆寂しそうだったよー」
先輩はしみじみとした口調で言う。
「の割には俺抜きでも皆パワフルに行動してっけどなあ」
俺は苦笑交じりに言う。
「帰ってきて安堵してるってことじゃないかなあ。夜には一緒に遊べるし、食事もできるしね」
「まあ、もう遠くに行く予定もないしな」
先輩の腕が、俺の腕に絡まる。
俺は背筋を伸ばして、足を止めた。
「せん……ぱい……?」
「いい加減、名前で呼びなよ」
呆れたように先輩は言う。
「寂しかったんだぞ」
先輩は――遥はそう言うと、俺の肩に頭を寄せた。
俺は口元が緩むのを感じた。
溶けそうだ。
遥と恋人になれて良かった。
彼女がいるだけでこんなに人生変わるなんて思ってもいなかった。
「遥」
「んー?」
「もう遠くには行かないよ。多分」
「うん。多分でいいよ。出来ない約束はするもんじゃない」
「信頼ないなあ」
「京都の平和は俺の肩にかかっているのだ、なんて大言壮語する男だからね。で、実際かかってたときたものだ。ちょっと私の庭で飼うには荷が勝ちすぎる」
「俺はペットかよ」
「可愛い子犬かと思ってたらとんでもないニホンオオカミだった」
「怖い例えだことで」
遥は俺に預けていた体重を戻すと、歩き始めた。
「さ、いこ。ご飯時になったら人で一杯になっちゃう」
「そうだな。少し早めに到着するぐらいが良い」
「そこの若いの。浴衣の恋人を連れた男」
呼び止められて、俺は振り向いた。
老人が居た。
腰が曲がっている。
小さな、小さな男性だ。
「山へ行くと良い。獣道を、霊気を辿り真っ直ぐだ」
(霊気……?)
「お前の助けになるものが見つかるだろう」
そう言うと、老人は去っていった。
「どうしたのー? 立ち止まって」
遥が戸惑うように言う。
「いや、そこの爺さんが」
「誰も居ないじゃない」
「え」
本当だ、誰も居ない。
さっきまで老人が居たはずの場所には、誰も居なかった。
あれは一体、誰だったのだろう。
(お前の助けになるもの……?)
それは一体、なんなんだろう。
疑問に思いつつも、俺はそれを振り払って、今は遥とのデートに集中した。
話しながら楽しむ足湯カフェは極上だった。
続く




