諸兵科連合部隊の夢幻<1>
我が帝国陸軍も機甲兵団というものに全くの無頓着であったわけではない。
いわゆる諸兵科連合部隊と言える存在である独立混成第1旅団が満州事変直後の34年3月に創設され、運用していたことは知る人ぞ知るものである。
その編制は以下の通りであり、帝国陸軍最初の機械化部隊というのに相応しい陣容であると言えるだろう。
独立混成第1旅団
旅団合計 人員:4,750名、車両:744両(人員、車両数は定数)
独立歩兵第1連隊(人員:2590、車両:297)
第1大隊3個中隊、機関銃中隊(九二式重機関銃)
第2大隊3個中隊、機関銃中隊(九二式重機関銃)
第3大隊3個中隊、機関銃中隊(九二式重機関銃)
歩兵砲中隊九二式歩兵砲×4
速射砲中隊九四式三十七粍砲×6
軽装甲車中隊九四式軽装甲車×17
戦車第3大隊(人員:376、車両:92)
第1中隊八九式中戦車×13、九四式軽装甲車×7
第2中隊八九式中戦車×13、九四式軽装甲車×7
材料廠
戦車第4大隊(人員:856、車両:192)
第1中隊八九式中戦車×15、九四式軽装甲車×7
第2中隊八九式中戦車×15、九四式軽装甲車×7
第3中隊八九式中戦車×15、九四式軽装甲車×7
軽装甲車中隊九四式軽装甲車×20
装甲自動車中隊九二式装甲自動車×17
材料廠
独立野砲兵第1大隊(人員:667、車両:130)
第1中隊九〇式野砲×4
第2中隊九〇式野砲×4
第3中隊九〇式野砲×4
独立工兵第1中隊人員:194、車両:16
この陣容から考えると後年編制された機甲軍に属する戦車第1師団や戦車第2師団などの編制に近いものがある。無論、旅団と師団であるから総戦力規模の差違はあるが。
戦車第1師団
戦車第1旅団
戦車第1連隊
戦車第5連隊
戦車第2旅団
戦車第3連隊
戦車第9連隊
機動歩兵第1連隊
機動砲兵第1連隊
戦車第1師団速射砲隊
戦車第1師団捜索隊
戦車第1師団防空隊
戦車第1師団工兵隊
戦車第1師団整備隊
戦車第1師団輜重隊
※戦車1個連隊の定数は概ね40両前後
いや、そもそもが後年の戦車師団の編制の基幹になっているのがこの独立混成第1旅団なのだから当然の帰結というものであろうか。
しかし、この独立混成第1旅団という存在は戦場において有効に機能する戦略であったかと言えば残念ながらそうでもなかったというのが戦史における評価というものであろう。
独立混成第1旅団が戦場に赴いたのは支那事変においての出動がそれになるが、最初は通州事件(支那人による反乱及び邦人虐殺事件)後の通州地区の警備であるが、派兵後一ヶ月で関東軍へ復帰し、その後は支那事変の拡大に伴う張家口方面への派兵であった。
問題はこの張家口方面への派兵である。
東條英機関東軍参謀長を兵団長とする通称東條兵団によるチャハル作戦に独立混成第1旅団も出兵することになるが、その時に諸兵科連合部隊としてのそれではなく、所属部隊を分割し運用したことでその特徴を活かすことが出来なかったのだ。これは国府軍が対戦車砲を使用し始めると顕著になり、戦車第4大隊が壊滅的打撃を受けるという事態を招いている。
これはひとえに兵団上層部の諸兵科連合部隊の運用への無理解によるものであると後世では判断されているが、その評価そのものは間違っていないであろうが、そもそも諸兵科連合部隊を組織だって運用するというそれは支那事変が事実上最初の事例である以上はある意味では仕方が無いところではないかと思うが如何。
時代の先駆者としてのそれでは確かに帝国陸軍はあらゆる点で先見の明はあったが、神州丸のそれと同様に上手く活用出来たら帝国陸軍の機甲部隊の進化は史実よりも早かったのではないかと思う。つくづく勿体ないことであると思う。
しかし、それは後世の者が後出しジャンケンであれやこれや言っているだけの不公平な評価である以上は、出来うる限り公平に評価したいと思う。
少なくとも用兵側の戦術のミスはあったとは言えども、諸兵科連合部隊を後年の戦車師団に匹敵する水準で運用可能であったのは帝国陸軍くらいなものである。戦車大国であるフランスですら未だH35/R35/S35などを開発中の時期である。
歩兵戦車、騎兵戦車(巡航戦車)というコンセプトが英仏において固まりつつあった時期に帝国陸軍は既に戦略機動が可能な諸兵科連合部隊を運用可能であった事実を考えれば、一つの選択次第で欧州列強をリード出来る素地があったと言えるだろう。
続く




