浅沼涼子
大学にあるホールの舞台袖で、浅沼涼子は出番を待っていた。
これから始まる本番の、準備の時間。
光と闇の狭間。その瞬間に、楽器を持って深呼吸する。
結局、卒業してから音大に行った。
自分の楽器も買った。親にはすごく大変な思いをさせてしまったけど、その分がんばろうと思った。
金色に輝く、伸び縮みする楽器。
トロンボーン。それを持って歩いていく。
大学に行ったらみんなびっくりするほど上手くて、びっくりした。当たり前だけど、こうしようと思った瞬間にはみんな合っている。言葉を交わすこともなく音を聞いただけで、スッと合う瞬間がある。
みんなすごいなあ、と涼子は素直に感心していた。もちろんしゃべって意思疎通をした上で合わせることもたくさんあったけど、その前の数段階をすっ飛ばして、みんなできてしまうのだ。
そういうメンバーとする演奏は、はっきりと形を持って、舞台上から龍のようにほとばしっていくことが多かった。
ホールの上空で、風が渦巻く。ごうごうと唸るときもあれば、ふわりとした響きを伴うこともある。
友達ができて校内でしゃべっていることも楽しかったけど、やっぱり舞台で楽器を吹いている瞬間が涼子はとても好きだった。今ならなんでもできる気がする。
空を飛ぶことも、火を起こすことも、大きな木をそびえたたせることも。
けれど。
たまに、それを許さない空気を感じる。
後ろの暗がりから、ひそひそと交わされるやり取りが聞こえることがある。
「ヘタクソ」「大して上手くない」「調子に乗らないでほしいよね」――。
そんな言葉が、決して遠くないところからやってくるときがある。学校の先生もたまに、ため息をついてつぶやくときがある。
「白い巨塔だからなあ……」
そのセリフの意味はよく分からなかったけど。
話を聞いていくと学校の先生同士でも、たまにこんな『いやなくうき』が流れることがあるらしい。
相手より自分が偉い。
気に食わない。こっちが優れている。賞なんて取るような器じゃない。あれはヤラセだ。
点数は忖度。生きるためなら何をしてもいい。付き合いを通しておかないと大変なことになる。
その他にも、たくさん。
大人も子どもも、真っ黒な影に見える。口だけが三日月のように裂けて、ゆらゆら、ゆらゆら。
自分を取り囲んで、いつの間にか白い部分がなくなって、黒々とした闇ばかりが目に付くようになる。
浅沼涼子は、決して周囲が思っているような、ただ能天気な性格ではない。
影を知っている。かつて長身を生かしてバレーボールをやっていた際も聞いた。あんなのは実力じゃない、恵まれてるだけ。そう言われて部活を離れたことは今も彼女の記憶の隅に残っている。
居場所が見えなくなって、去ったのだ。
もっと言うならば、逃げた。
どこもそうなのだ、行った先は――そう考えると涙が出そうになるし、影を見たくなくてうつむくのだ。
その度に、彼の言葉を思い出す。
「おまえは、すごいなあ」
そう言って困ったように笑う、同い年の顔を。
絶対に才能があるから音大に行った方がいい、と彼は言ってくれた。
喜ぶ顔が見たくてがんばってみると、まず最初にびっくりした顔をしてから湊鍵太郎は笑ってくれる。
もっとそんな顔をさせたくて走ってみると、本当に愉快そうに追いかけてきてくれるのが嬉しかった。
たまに見当違いの方向に行って、怒られるときもあったけれど。
その後やっぱり、「しょうがねえなあ」と言って彼は笑ってくれる。
その声が聞こえる度、自分はうつむいていた顔を上げる。
大事な本番に遅刻しそうになったとき、あの同い年はバスの上から手を伸ばしてこちらを引っ張り上げてくれた。
歩いたり走ったりして、いつの間にか居場所が分からなくなって。
ああ、やってしまったなと思ったとき、彼はいつもこちらの手を引いてくれる。
こっちの方だよ、と言ってくれる――胸の奥に、温かいものが満ちるのを感じながら。
浅沼涼子は、すっと前を向いた。
目の前には、明るくなった演奏の舞台。
ふかふかの椅子。並ぶ譜面台。セットされた打楽器たち。
積み上げられたひな壇。
反響版の隙間から見える、光に満ちた光景。
それらを見て。
「うん、出番だ」
アナウンスを耳に入れ、そして確かに呼ばれたのを聞いて、彼女は歩き出した。
もうエネルギーは満タンだ。ゆっくとした呼吸と、輝く楽器の感触。
あとは大切な思い出があれば、どこまでだって行ける。
大学でできた友達と一緒に、ステージの席に着く。
今度はどんな光景を作り出せるのかと、楽しげに笑いながら――。
まるで龍の背に乗るように。
自由な風と一緒に、彼女はどこまでも遠くへ飛んでいく。




