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分かたれる道を前に

※主な登場人物

・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。

・浅沼涼子…三年生。トロンボーン担当。

「おまえ、ほんと毎日部活来てるよな……大丈夫か?」

「え、そう言う(みなと)だって来てるじゃん、ほぼ毎日」

「そうだけどさ」


 湊鍵太郎(みなとけんたろう)が同い年の浅沼涼子(あさぬまりょうこ)にそう言うと、彼女はきょとんとして首を傾げた。

 夏のコンクールが終わって、本格的な受験シーズン到来。

 三年生である鍵太郎と涼子にとって、この時期は大切なものだ。さすがに勉強に本腰を入れなければならなくなる。

 いかに来月、学校祭という最後のステージがあってもだ――とは言いつつ鍵太郎はほぼ毎日習慣のように音楽室に顔を出しているのだが、それは部長という役職があるからこそだ。

 ……と、いうのは建前で、本当は楽器を吹きたくて来ているのだが。


「ほんと俺、引退したらどうなっちゃうんだろう。高校三年間部活漬けだったから、正直わかんねえ」

「どうなっちゃうんだろうねー」


 楽器を持たなくなった自分というものを想像すると眉間にしわが寄るのだが、そんな鍵太郎とは対照的に涼子の応えはのんびりとしたものだった。

 それはそうだ。だって彼女は、引退しても楽器を持たなくなるということはないのだから。


「そういえば、どうだ? 浅沼。受験の準備は順調か?」

「うん。じゅんちょー」


 なぜかといえば、涼子は音大を受験するからである。

 実技試験のために色々と練習をしなくてはならないらしく、彼女は今度の学校祭でやる曲の他も、様々な課題をこなしていた。

 涼子にとって受験勉強というのは、すなわち吹くことなのだ。

 そう考えれば毎日部活にやってくるのもうなずける。

 そして、やっていることが常人離れしているのもうなずける――ドレミファソラシドレドシラソファミレド、という音階を調を変えて何回も繰り返し、彼女はふうと息をついた。


「よーし、基礎練習終わりー。あとは曲の練習ー」

「そろそろ俺にとっては異次元の域になってきたよ、おまえのレベルが……」


 単純に吹くだけでなく、クオリティを保ったまま超高速でスライドを動かしてみせる、という離れ技に鍵太郎は顔を引きつらせる。

 やっていることはシンプルで簡単そうに見えるが、真似しようと思ってもできるものではない。玉乗りをしたままナイフでお手玉(ジャグリング)をしているようなものだ。

 まあ、プロを目指している涼子にとってはこのくらい朝飯前なのかもしれないが。にしても同じ高校から始めた初心者同士だっただけに、彼女の飛躍っぷりには唖然とするばかりだ。

 もはや自分と比較して落ち込むことすらできなくなっている。そろそろ開き直ってその違いを受け入れられるようになってきた。

 おまえはいいよなあ――なんて、そんなことすら言えなくなってきた境地にいる自分と、涼子の違いを意識する。

 立場の違いを、意識する――引退したら分かたれるであろう道のことに、思いを馳せる。


「浅沼、おまえ学校祭終わっても音楽室で練習するのか?」

「うん、する。他に行くところないし。場所借りるのもお金かかって大変だし。何より、ひとりじゃ寂しいし」

「そうだよな……」


 ごもっともな同い年の返事に鍵太郎はうなずいた。

 楽器の練習場所を確保するというのは、確かに大変だろう。どう考えても音大の学費は他の学校よりかかりそうだし、出費は抑えておくに越したことはない。

 何より、ひとりで吹くのは寂しい――その理由がどうしても心に刺さって、楽器を握る。

 自分が毎日のように音楽室(ここ)に来ている理由も、元をたどればそこに行きつくのかもしれなかった。

 放課後に音が聞こえれば、どうしてもそちらに足が向く。

 三階の隅の部屋からはみなの声が聞こえてきて、中に入れば心地よく振動が鼓膜に響く。

 そんな場所を、どうして離れられるだろうか。別におしゃべりをしたくて来てるわけではない。楽器を吹きに来てるのだけれど――それと他の人間の笑顔というのは、どうにも切って離せないのだ。

 特に、涼子のように両方を備えている人間がいるならば。

 毎日足しげく通ってしまうのだって、無理はない――言い訳のように考えてしまって、少しの罪悪感を覚える。彼女を自分の自制心のなさの免罪符のように扱いたくはないし、未だ居心地の良い場所から抜け出せない甘さを、他人のせいにしたくなかった。

 けれども立場の違う、ある意味天才のアホの子はそんな鍵太郎の心中など知らず、不思議そうに首を傾げる。


「湊も来ればいいじゃん。吹きたいんだったら引退しても音楽室に遊びに来ればいいよ。あんまり難しく考えなくても、それでいいんじゃないかなあ」

「いや……まあ、そのとおりなんだろうけどさ」


 やりたいからやる――そんな考え方で進路を決めてしまった同い年に、苦笑いする。それができたからこそ涼子はこんなに上手くなったのだろうし、人を惹きつけてやまないのだろう。

 しかし、彼女と自分は、違う人間だった。


「そうだなあ、吹きたいなあ……けどまあ、やめとくわ」


 学校祭までこの部活にいたいとは思うし、部長として最後まで見届けたいという思いはあるけれど。

 根本的にこの同い年と自分の進む道は、違うのだ――そこだけは認めて、鍵太郎は長くため息をついた。

 いつまでも未練がましく部活にしがみついているわけにもいかない。

 プロを目指す涼子とは違って、こちらはあくまで普通の受験生として過ごしていかなければならないのだ。

 少しずつ終わりに近づいていくのは寂しいという気持ちはある。

 だが、彼女が目指すものに向かってがんばっている以上。

 こちらだって、誇れる自分になれるようにがんばっていかなければならないのだ――引退したら分かれる道のことを思って、ようやっとそれだけ口にする。

 それぞれがなりたいもののために、ここでいったんサヨナラをしなくてはならない。

 いつかいつかとは思っていたが、ここにきてようやく踏ん切りがついた。鍵太郎がそう思っていると、涼子が。

 目の前で悲しそうな顔をしていたので、ぎょっとして慌てて言いつくろう。


「あ、いや、でも、あれだからな⁉ 別に楽器を吹くのを辞めるとか、そういうんじゃないからな⁉ 大学行ってもどっか見つけて音楽は続けるし、もちろん学校祭まで部活には来るからな⁉」

「なーんだ。だったらいいや」


 先ほどまでのらしくない沈んだ表情はどこへやら。

 鍵太郎の必死の弁明に、涼子はあっさりと元の調子を取り戻した。

 基本的にあっけらかんとしている彼女だけに、いきなりマイナスの感情を表に出されるとこっちの調子が狂う。

 でも、確かに取りようによっては、先ほどの発言はこれっきり楽器をやらないといった風にも聞こえるか――荒くなった呼吸を整えて、汗をぬぐい鍵太郎は同い年のために補足をした。


「たぶんさ。俺、しばらくは吹かなくても大丈夫だとは思うんだよ。おまえと違って仕事にしたいわけじゃないし、そこまで上手くもないし、ふつーにアマチュアとして楽しめればいいと思ってる」

「うん」

「でもな、なんていうんだろう……言葉で表すのが難しいんだけど。明日から、はいあなたは一生楽器を吹けませんって言われたら、たぶん絶望するんだと思う。そういうレベル」


 別に、それなしでは生きていけない、といった類のものではない。

 だが長期的に、もう二度と楽器を吹けませんと言われたら――身体の半分を持っていかれたような気持ちになるだろう。

 そのくらいの思いが、もう自分の中には刻み込まれてしまっている。だから卒業しても大半の先輩たちのように楽器は続けるだろうし、それなしでの未来など考えてもいない。

 涼子とは根本的にここが違うのだろうが、少なくともこの思いがある限り彼女とは一緒にいられる。

 立場が変わっても、同じステージには立てる――いつか、プロになったら自分が所属する楽団のゲストとして呼ばれるようになるのだ、と言っていた涼子のことを思い出し、鍵太郎は同い年にそう言った。

 この間のコンクールで、何もかも燃え尽きた感があるけれど。

 あんな風に荒れ狂う炎ではなく、そのくらいの温度の方が本来、自分には合っているのかもしれない――そう考えていると、案の定、涼子は首を傾げる。


「うーん。よく分からない。湊は相変わらず、難しいことを言うなあ」

「分からなくていいよ。それが分かったらおまえはおまえじゃない」


 むしろここを理解されたら、彼女は彼女でなくなってしまう気がする。

 あまりに違い過ぎて、こちらの予想もつかないことをするからこその浅沼涼子なのだ。その差異は、やはり認めざるを得ない――違っていていい。違っていていいから、一緒にいたい。

 引退しても、少しの間楽器を吹かなくなっても、彼女と交わしたこんな他愛のないやり取りがあるからこそ前に進める。

 お互いにがんばろうと言うことができる――そう思って、鍵太郎は同い年に言った。


「だからな。とりあえずおまえは、次のテストがんばれ。あんまり成績悪いと学校祭にそもそも出させてもらえないからな」

「テストって、なんだっけ」

「そこからッ⁉」


 想像していたよりぶっ飛んだ返事が来て、思わず驚愕(きょうがく)の叫びが出た。

 学校祭のステージは十月末という時期に行われるため、受験間近の三年生はテストで好成績を修めなければ出場は不可という暗黙の決まりがある。

 なので涼子も、少しは勉強していると思っていたのだが――なんだっけ、ときた。


「いやいくら音大受験とはいっても! 普通に勉強はしとけよ! 存在そのものを忘れてやるなよこのアホの子が⁉」

「あー、テストね。分かった分かった。関堀(せきぼり)先輩が『赤点さえ取らなければ大丈夫』って言ってたやつだ」

「悪しき伝統がやっぱりあの人から始まったよバカああああ⁉ それ違うから! 最後まで部長として言わせてもらいますけど、赤点回避ならオッケーなんて考え方、俺は認めませんからね⁉」


 誰かがやりかねない、とは思っていたあのひとつ上の先輩の発言だったが、やはり追随(ついずい)する者が現れた。

 学校祭まで毎日、部活に来ていたことからしてどことなく、かの先輩を彷彿(ほうふつ)させるところはあったが――涼子も涼子で、なんとも都合のいいところだけ思い出してくれたものである。


「やだもー最後の舞台におまえがいないとか俺やだー! ほらほら、早く練習終わらせてテスト対策するぞ浅沼⁉ 受験の準備もテストの準備も万全にしとくぞ!」

「えー。勉強やだー」

「おまえも結局現状からの逃避で部活に来てるんかいッ‼」


 なんだかんだ似たような考え方をしていた同い年に、猛烈に突っ込む。

 先ほど猛火は自分の性に合わないと言ったが、あれは嘘だ。このアホの子の救命には、全力を注がなくてはならない。

 引退したらどうなるのかは分からないし、確実に涼子とは道が分かれることになるだろうけれども。


「ひとりでする勉強は孤独ですが俺が付き合います! そうすれば怖くないよねッ⁉ 教師を目指す人間の前でテストから逃げようなんて、貴様マジで許さねえぞ⁉」

「わあ。湊が久しぶりに本気で怒ってる」

「誰のせいだ、誰の⁉」


 立場が違っても、目指すものが違っても。

 それでもこの気持ちがある限り、もう少しだけ彼女とは一緒にいられる。

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