翡翠の風
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
・城山匠…外部講師、指揮者。トロンボーン吹き。
・浅沼涼子…三年生。トロンボーン担当。
「誰の責任だっていうんなら、僕の責任だよ」
と、東関東大会の結果について、湊鍵太郎に城山匠は言った。
「奏者が精一杯やったのなら、あとは指揮者の責任だ。きみたちは何も自身を責める必要はない。全てはそこまでみんなを持っていけなかった僕が悪い」
「いやいやいや、そこまで先生が言うことはないじゃないですか」
極めて深刻な顔で言ってきた指揮者の先生に、鍵太郎は首と手をパタパタと振りつつそう応えた。
東関東大会。
吹奏楽部の甲子園とも言われる夏のコンクールが先日行われ、川連第二高校は銀賞という結果になった。
県大会の上の支部大会に初出場。
そこで金賞とはいかなかったが、それに次ぐ銀賞はもらえたのだ。創部初ということを考えれば、まずまずの戦果だったと言えるだろう。
まあ確かにその上の、東日本大会に行ければよかったのだが――それは終わってしまった話だ。もうどうすることもできない。
しかしこの部活の外部講師としてやって来ている指揮者の先生は、この結末に納得していなかったらしい。
鍵太郎のセリフに渋面で、城山は応える。
「雇われ指揮者っていうのはね、基本、金賞請負人みたいなものなんだよ。学生さんならなおさらどうやって教えて育てていくかの責任は、僕にかかってくる。それで結果が出せなかったんだ。首を切られても文句は言えないさ」
「いや、これだけやってくれたのに金賞取れないから終わりって。先生どれだけ修羅の世界を生きてきたんですか」
大人の世界はそうなのかもしれないが、しかし鍵太郎はそうは考えない。
プロの尺度でいえばこの結果は先生の責任ともいえるのかもしれない。そう言い切ってしまえるだけの経験を、城山はしてきたのだろう。
けれども、それだけで終わってしまうような真似はしたくなかった。
一か月後に迫った学校祭でも指揮を振ってもらうだけに、なおさらだ。この先生にはまだまだ働いてもらわなければ困る。
謝罪であろうとうつむいている暇すらないのだ、もう――そう言って鍵太郎がニッと笑うと、城山は苦しげながらもようやく、顔を上げた。
「……そうだね。次の本番だって、契約期間のうちだ。だったら後悔ばかりしてないで、切り替えないとね」
「謝る必要はないですし、そうしてほしいとも俺は思ってません。先生がいなかったら俺たちは支部大会にすら行けなかったでしょうし、その点では感謝してるといってもいいくらいです」
「……なんか、学生さんに気を遣われてるって感じがするなあ。立場が逆だよ、まったく」
本心を述べると、先生は参ったといったように苦々しく笑う。
鍵太郎も東関東大会の結果については悔しかったし思うところもあったが、それを城山のせいにするのは違うとも思ったのだ。
誰のせいだとか、責任とか。
そういうものはもう、ちょっと考えるのに疲れたのだ――部長らしからぬ考えに、ああ、もう学校祭で引退なんだなあ、と鍵太郎が三年生の秋という季節を噛みしめていると。
指揮者の先生は言う。
「うん――うん。ありがとう。そう言ってもらえると、僕も多少は気が楽だ。学校祭もよろしく、湊くん」
「はい、よろしくお願いします、先生」
地獄のような旅路を送ってきたのであろうこの人も、ここではもう少し癒されたっていい。
コンクールという戦いの舞台は、もう終わったのだから――これからはもう少し自由に、やりたいことをやることができる。
演奏時間の上限もなく。
どんな曲をやったっていい。
それが自分たちに残された、最後の舞台だった。そして、どんな曲をやるかは夏休みに既に決めてある。
「はい、これが学校祭でやる曲の総譜です」
そう言って鍵太郎が先生に指揮者用の楽譜を渡せば、先生は礼を言い、それを受け取った。
学校祭ではコンサートをやるため、コンクールのように一曲ではなく何曲も演奏することになる。
なので、数冊に及ぶ紙の束を受け取った、城山は。
曲名を確認する手を途中でぴたりと止め、言ってきた。
「……『アルヴァマー序曲』」
その曲の名は。
鍵太郎が吹奏楽部に入部する際に初めて見た、楽譜のものだった。
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「アルヴァマー序曲というのは、元々はある学校のために作られた曲だ」
いざ合奏する段になって、城山は部員たちの前でそう言った。
「曲名自体には実はあまり深い意味はなくて、アルヴァさんとマリーさんっていう夫婦が経営するゴルフ場から取られている」
「い、意外と安直なネーミングなんですね……」
先生の解説に、鍵太郎は引きつり笑いでそう返す。
吹奏楽屈指の名曲――そんな風に言われているこの曲が、まさかそんな由来で名付けられていたとは思わなかった。
いつかやってみたいと思っていた憧れの曲の真実に、意外な形で触れてしまった。すると鍵太郎の後ろにいたトロンボーンの三年生、浅沼涼子が元気よく手をあげて言う。
「はいはーい! 先生、トロンボーンの楽譜、半分以上ずっと同じことやってまーす!」
「うん。そうだね浅沼くん。これはトロンボーンにとって修行ともいっていい曲だ」
涼子の発言に、城山は大きくうなずいて言う。プロ奏者として彼女と同じくトロンボーンを吹いている城山である。その辺りは当たり前だが把握済みらしい。
楽譜を見せてもらえば、涼子の楽譜はひたすらに同じリズムを刻んでいた。
確かにこれは修行、基礎練習をずっとやっているようなものだ。たまに鍵太郎のやるチューバと同じことをしていたりもするが、やっていることはほぼほぼ気が狂うレベルの繰り返しである。
そんな楽譜を自身もスコアで確認しつつ、城山は涼子に言う。
「でも、このリズムをどう吹くかで曲の推進力が変わるから、重要なパートでもあるよ。いい練習だからやってみようか、浅沼くん」
「はーい!」
「曲の推進力、かあ……」
相変わらず快活な同い年の返事をよそに、鍵太郎はポツリと言った。涼子は音大志望で、この部活とは別に城山に教えを受けている。
そんな彼女が本気でこの曲を吹いたら、どんな風に進んでいくのだろう。
アホの子と名高い涼子のことだから、暴風のように飛んでいきそうだが――さてはて。
「懐かしいなあ。昔よく聞いたしやったよ、この曲」
先生はそう言って、今日初めての何の屈託もない笑顔を見せ。
そして、指揮棒を構えた。
名曲と呼ばれるだけあって、城山もかつては何度もこれをやったことがあるらしい。
そして、沈んでいたこの人の顔を、この曲はいつもどおりにするくらいの力があるらしい――そんなことを考えているうちに。
鋭く息を吸う音がして。
先生の腕が動いた。
序曲、というだけあって最初は軽快な主題から入る。華々しく全員で歌い上げ、いきなりサビから入る感じだ。
盛大に幕が上がる。思い出す――あの人と初めに会ったときのことを。
自分と同じ楽器の先々代の部長、あの先輩とは、この楽譜が紙吹雪のように舞う中で会った。
彼女は何も知らなかった自分に、この紙に記されていることを教えてくれた。
たくさん、たくさん――それこそ、忘れられなくなるほど。
二年経った今でも鮮明に思い出せるくらい、多くの感情を与えてもらったものだ。楽譜に描かれたシンプルな音符を見て、そう思う。
簡単そうに記されているが、その実これを演奏で表現しようとするとなかなか上手くいかない。
そんな日々を送っていた。誰かに思いを伝えるのがこんなにも難しいものだなんて、それまでは思いもしなかった。
今だって、そうだ。
城山にはああ言ったが、鍵太郎の中では支部大会の結果を後悔する気持ちが残っている。先生のせいではない、自分たちの実力が足りなかったのだ。
未だにあの頃から成長していないような気がしてならない――そう考えていると、城山から『もっと音を長めに』という指示が飛んできた。
明確に言われたわけではないが、ジェスチャーでなんとなくそうだと分かる。少しずつ全体のボリュームが小さくなっていくので、無意識に音も短くしてしまっていたらしい。
修正して長めに吹けば、先生は小さくうなずいてそのまま続けた。そして、後ろからは涼子の刻みの音が聞こえてくる。
アルヴァマー序曲――その推進力を担うリズムを、二人で吹いていく。
同い年のトロンボーン吹きの音は存外丁寧で、心地よい風が吹き抜けていくかのようだった。そういえば彼女は、東関東大会の会場で言っていたか。「上手いところほど、吹き終わった音が余韻になってふわっとする」といったようなことを。
それと同じことを、聞いただけでやっているのだろうか。だとしたらこの同い年はやはり天才である。涼子のいる背後から彼女の音を浴びながら、そんな風に思う。
自分も上手くなれればなあ、と考えていた。
ずっとずっと、楽器を始めたときからそう考えていた。そりゃあ、涼子には及ばないかもしれないが、少なくともやりたいことを『できた!』と一瞬でも思えるくらいには、上手くなりたかった。
メロディーが緑の芝スレスレを進んでいく。
中音域の優しい音は浮いてこそこないが、柔らかく耳に当たる。決して派手ではない、でも印象に残る旋律。
なだらかな曲線を描いて進んでいく中に、どこかで聞いたことのあるリズムが聞こえたような気がした。
なんだか、いつだったかこのパターンを練習したような――そこだけ渦を巻くように、わざと引っ掛けるように風が止まる。
リズム――そう、リズムだ。
思い出した。二拍三連。『教科書にはない答え』。
あの黒魔女に教わった、正解のその先。自分で未来を作り上げる、共にある術式――
それを思い浮かべれば、今ここにある演奏をもっといいものにできる。
ああ、そうか。
心の中で苦笑して、鍵太郎は自分のリズムをこれまでよりも明確に刻み始めた。
意識的に自覚的にそうすれば、周りの人間にもそれは影響して演奏自体がかっちりはまってくる。関連する刻みを吹く涼子ともさらに噛み合って、曲に大きな推進力が生まれた。
彼女の勢いに誘われてか、こちらの足元からもふわりと風が舞い上がった気がする。
翡翠の色をしたその風は、弧を描いて上空まで立ち上っていった。
綺麗に晴れた青空が見える。
確かにゴルフ場だったのかもしれない。緑の芝生と、澄んだ青空――浮き上がった曲の姿は、太陽の光の中で鮮やかに輝いて見える。
かっちりとはまったテンポが心地よい。吹きやすい――久しぶりに清浄な空気を吸い込んだ気がして、鍵太郎は楽器を持ったまま笑った。楽しい。リズムに合わせて吹くことが、そして周りとも自然と合うことが。
声をそろえて歌うことが、こんなにも気持ちいいものだと久しぶりに思えた気がする。
かと思ったら空が勢いよく落ちてきて、降ってきたそれを両手で受け止める。いきなり渡された主導権だが、不思議と怖くはなかった。むしろためらいなくそのまま踏み込んで、音を出し続ける。
接続。
自分の出す音の上に、誰かが乗ってくるのを感じる。
はっきりと打った始点と終点、及び次への布石になる音に、他の誰かが自分の音をはめていく感覚がある。
段々と人数は増えていって、テンションは上がっていく。勢いを増して――再び。
翠の風がぶわりと、渦を巻いて駆けあがった。
上空まで舞い上がったそれは、弾けて解け散って――
もう一度見えた青空は、前よりもさらに鮮やかに見えた。
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「みんな上手くなったよねえ」
合奏が終わって。
指揮棒を下ろした城山が言ったのは、まずそんな一言だった。
お世辞でもなんでもないことは、先生の感心したといった口調と、自分たち自身の手ごたえからよく分かる。
ここまではまる演奏は、支部大会前はできていなかったかもしれない。
けれども、今はできるようになっている。昔より上手くなっている――意識的に演奏をいい方向に持っていけるようになったのは、上達しているという証だろう。
だぶん。想像していた『できた!』という強烈な達成感とは少し違う、フワフワした不思議な高揚感に包まれながら、鍵太郎はそう思っていた。
本当にできているというのは、こういうことを言うのかもしれない。
「ほら。でしょう、先生。先生に教わったからここまでできるようになったんですよ」
「そう言われちゃうと、なんか、返す言葉もないなあ」
合奏前に交わしたやり取りのダメ押しとしてそう言うと、城山は苦笑いで返してきた。
この先生に教えられたから、ここまで上手くなった。一緒にやってきたからこそ、ここまで来られた。
だったら別に、結果が銀賞だろうがそうでなかろうが、やはり関係ない気がする。
「責任だとかそういうつまんないことを言うんだったら、これからも俺たちにもっとたくさんのことを教えてください。それでチャラです」
「うう……それ先輩にも似たようなこと言われた。つまんねーこと言ってないでやれることはもっと他にあるだろ、って……」
「なんだ、本町先生にも言われたんですか」
城山の大学の先輩にあたる、顧問の先生の名前が出てきて音楽準備室の方を見やる。今この場に本町はいないが、あの先生のことだ。
先ほどの合奏とこのやり取りを聞いて、やれやれと肩をすくめているに違いない。
しかし、先輩から忠告されても堅苦しい考え方が抜けなかった、ということは――
「相当気にしてますね、城山先生。大会の結果について」
「当たり前だろう。僕だってプロだ。偉そうなことを言っておいて望む結果が得られなかったんだから、責任だって感じるさ」
「だとしたら、学校祭で何か一曲演奏してください。もしくは客引きで何か吹いてください。それでトントンにしましょう」
「ぐっ……分かった。コンサートが盛り上がるよう、僕も一曲何かで参加しようじゃないか」
代替で何かしないと、城山の気が済まないに違いない。
そう読んで鍵太郎が提案すれば、プロの先生は声を詰まらせつつも、こちらの条件を飲んでくれた。「なんかふと思ったけど、僕の同い年と似た言い方をするね、湊くん」とも言われたが、それは気のせいだ。断じてあの腐れ楽器屋と自分は、同じ系統ではない。
参考にさせてもらってはいるが、それは彼のやり方のごく一部である。
そして他の『道しるべ』、風の向かう先に行く方法は。
「先生は俺たちにいろんなものをくれたんです。もう十分もらいましたけど――オマケでもう少し、背中で語ってくれればと思います」
目の前のこの人に教えてもらったのだ。
鍵太郎がそう言うと、城山は渋い顔をしつつもやはり、参ったという風に笑った。
《参考音源》
アルヴァマー序曲(冒頭~2:40くらいまで)
https://www.youtube.com/watch?v=I_cSKgiDYLo




