その魂を対価に
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
演奏の歯車がズレて、曲が狂っていくような気がする。
東関東大会。その本番の舞台で、湊鍵太郎は細かく震えながらそんなことを考えていた。
ひょっとしたら、あり得るかもとは思っていた。
初めての支部大会。初めての会場。
一度も演奏したことのないホール――そのプレッシャー。心と身体にかかる負担。
そういったものから、周りの音が聞こえにくくなる、という事態が。
どんなにホール練習を重ねても、本番というのは特殊な舞台だ。かつ、実際には吹いたことのないところ。これまで聞いたこともない反響が、自分を包む。
いつもとは違うように聞こえる。
それに動揺して、距離感が修正されないまま続いていく。着地点がズレる。わずかな軋みが、大きな亀裂を生む――そんな不安から、徐々に自分たちの学校の演奏が委縮していく。
今、客席には、どんな風に聞こえているのだろう。
そんなことを考える余裕もない。元々、この曲の最初は休みだった。『プリマヴェーラ』――イタリア語で『春』という名前の冠された、この美しい曲を。
台無しにするわけには、いかなかった。
だから鍵太郎は、遅ればせながら楽器を手に取った。どんな響きになっているかよく分からないこのオペラホールの、はるかに高い天井に向けて、ベルを上げる。
あの天井に。
同じ名前の絵画を描こうと、同い年と少し前に話し合った。
その隣で吹いているであろうトランペットの副部長のソロが、中空を舞う。きっと彼女も、内心では戸惑っているに違いない――けれども、そんなグラグラした足場の上でも、同い年は吹き切った。
素直に、すごいと思う。
結果がどう転ぶか分からない中で、いつもと同じようにやりきった。
そのことは称賛に値する。けれどもそれも、曲は直らない。直っていない――ように聞こえる。
分かってはいたのだ。
この部活がみなの優しさから、奇跡的なバランスでもって成り立っていることは。
それは昨日の夜、あのお菓子の城を見たときから。
ちょっとした衝撃で、すぐ崩れるということも。
自分の理想が儚い、夢幻であるということも――だからそれは、外からの圧力で容易に形を変えるということも。
例えばそれは、誰かの悪意であったり。
こちらを利用しようとする、大人の都合であったり。
あるいは善意であったり――そんなもので、自分たちはこの大きなホールに、頭から飲み込まれてしまう。
けれど、そうしないために鍵太郎は強く大きく、音を出した。
吹奏楽の根底、低音楽器のチューバから。
あの天井に向かって――なんとか、演奏を立て直すために。
土台が崩れれば、その上もなだれていくのは道理だ。だからせめて、一番下にいる自分だけでもどうにかしようとあがく。
どうか、ついてきてほしい。
奏者側の起点。第二の指揮者。
世界を変える素敵な楽器――そう称された音に。
先ほどソロを吹いたトランペットの同い年から言われていた。やる前からあきらめるような真似はするなと。そのとおりだ。自分はまだあきらめてはいない。まだだ。まだまだ――そう、焦って前に行ってしまったからだろうか。
隣の後輩の音が、ひどく遠く聞こえた。
置いていかれないように悲鳴をあげて、一生懸命吹いて転んで、泣きそうになりながら立ち上がっているように聞こえた。
その光景に、思い出す。
一年生の県大会。最初のコンクール。
自分が『あの先輩』を置いて、焦ってひとりで飛び出してしまったときのことを――
――ふざけるな。
そのときの自分と。
今の自分に、心底腹が立って。
鍵太郎はぎゅっと楽器を握り直した。
俺は、何をやっているんだ。
この子を置いていかないと約束した。一緒にやろうと話し合った。
なのに、また――。
――俺は、何を、やっているんだ……っ‼
頭が沸騰したように熱い。ネジも何本か弾け飛んだように感じる。
けれども一方で、心のどこかは鉄のように冷静――そんな心境で目を見開き、舞台上のあらゆる全てを確認する。
もう二度と、同じことを繰り返さない、なんて。
かっこいいことを言っておきながら、実際にはこの体たらくだ。
だったら、もう失うものなど何もない。なにもかもをこの演奏につぎ込んでやる。
泣きそうになりながら必死に手を伸ばしていた後輩の、腕を取る。自分の涙で溺れそうになっていた彼女を引き上げて、それからやりだすのは、二人でこの演奏の基盤を作ることだ。
オクターブ離れた上下。ここ最近になって学び始めた、音楽というものの法則。
付け焼刃かもしれないけれど、それを振るう価値はある。
他人にはガラクタにしか見えないものかもしれないけれど、それでも示したいものがある。
ある強豪校の生徒は言った。「審査員に六点をつけられたら、その時点で金賞はないよな」。そしてまた、ある他校の生徒も言った。「大事なのは曲の出だしだよ。あれでほとんど判断されるといってもいいよね」――うるさい。うるさい。そんなもの知るか。
こっちは命を懸けてやっている。
バスクラリネットのソロが聞こえる。そんなセリフを言われたとき、一緒に選抜バンドに言っていた同い年の音。「何があっても、私たちはずっと一緒にいる」――そうだ。防壁が崩れたって、一度全てがなくなったって、それでも自分たちはずっと心にそれを持っている。
自由の象徴。
解放への旗印。
不完全を抱えた、名もなき民衆が作り上げた偶像。
無数の選択の末に自分たちが作り上げた、機械仕掛けの女神――生きた歯車で誰もが救われる、都合の良い奇跡。
『プリマヴェーラ』は、神様たちの絵だ。だったらその旅路の絵を。選んできた歴史を、そこに描く。
何もない、このオペラホールの天井に。
自分たちのやってきたことを、全部叩きつけてやる――そう思って鍵太郎は、再び楽器を構えた。自分は、踏みにじられたら容赦しない。
これまでずっと、そうやってやってきた。理不尽なことを言われて、それに反抗したり、なんとかやり込めたりしながら、切り抜けてきた。
だったら、いつもどおりにやろう。
ヘタクソでもいいから、絵を描こう――やり遂げよう。
楽譜に書かれた、部員たちの様々な書き込みが目に入る。白、紺、緑、青、黄、オレンジ。その他にも、色々――それこそ虹色のように、そこには色彩が踊る。
それぞれがそれぞれの色を抱えて、ここにいる。
みながこうしたいと思ったことをやり遂げたくて、そしてそれを守りたいと思ったから、自分はここに立っている。
だからそれを引き換えにして、絵を描く。
混ぜ合わせて作るのは、テンペラ。卵と顔料を混ぜ合わせて作った絵の具。だったら今回の画材もそれにならおう。
旅路の全て。
そこにあった出来事を全部、この火にくべよう。
はじまりの火は全部を燃やし尽くして、残った灰はこれからを描く顔料になる。そこの失言後輩が前に言っていた。「先輩はアメーバみたいですね!」――上等だ。だったらその液状の魂と混ぜて、何があっても落ちることのない絵の具を作ってやる。
絵筆を取れ。
それはここ数ヶ月で、そこにいる指揮者の先生から託された鋼鉄の筆だ。この人は、こうなることが分かっていたのだろうか――今のこれこそが最も自分たちらしく、最も完成された演奏であると。
危ういながらも完璧なバランスを保っていると。
こうすることが一番の道だったと、分かっていたのだろうか。
全てをかけて。
自分が、部長でもなく三年生でもなく、ただひとりの奏者としてこうすると、分かっていたのだろうか。
汗だくで棒を振る先生からは、それはうかがい知れない。けれどもこの人も、本気でやっていることは確かだ。
意地も体面もかなぐり捨てて。
舞台の上ではただひとりの人間として、ここにいる。
華やかだと思われがちなこの場所において、その行為はあまりに泥臭い。
けれどもこれが『生きている』ということなのだと――分からないけれど選んでいくことこそがその実感なのだと、この先生はそれこそ全てをかけて教えてくれた。
絵の具の匂いなのか、曲の匂いなのか、それすらも分からない。
けれどもそうやってがむしゃらにやっていたら――いつの間にか他の楽器の者たちが、こちらの絵を描く作業に加わっていた。
大きく打ち上げていた音の柱を目印にしたのだろう。彼女たちは勝手に周りに集まってきて――気が付けば自分の周囲は、ワイワイとした、賑やかなアトリエのようになっている。
その光景が好きだった。
そうしているのが、本当に大好きだった。やりたい人間が集まって、それぞれの目的に沿って楽しく動いていく。
予定調和の中にあっても、これが曲を動かす、一番のエネルギー。
はじまりの火。それが見せるのは恐れることなく自分の道を選んだ、音たちがまとう輝きだ。
掲げた理想は崩れ去った。
けれども、何もなくなったそこで誰かが何かをやっている。それぞれの色を持ち寄って、新しいものが生み出されていく。
『生きている部品』は、次なる演奏を作り上げていく。
愚直なほどに。
天に輝き、地で吼える。
それは昨日の夜、隣にいる後輩とやった花火とも似ていた。暗闇の中でスパークする灯火。
打ち上がるそれは、円を描いて天井に集っていく。
構図が狂っていても。見ている方向が違っていても。
全員が全員の、色と形をもって。
縁を描き、作り上げた芸術――切り開いた未来。
『プリマヴェーラ』。
決してお上品なものではない。この格式高いオペラホールにはそぐわなかったかもしれない。
けれどもそれが、自分たちの演奏だった。
胸を張って誇れる、本気の演奏だった――と、そこに見えた絵画に笑い出しそうになりながら、鍵太郎は息をついた。
ほんの少し休んだら、あとはそこに花びらを描き込むだけだ。
儚い理想は砕け散り、守るものはもう何もないけれど。
それでも自分たちに何かを作る力だけは、残されている。
《参考音源》
「プリマヴェーラ」~美しき山の息吹
https://www.youtube.com/watch?v=nQyDUX8Tqwo




