今、楽しい?
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
・城山匠…外部講師。
・大月芽衣…一年生。チューバ担当。
城山匠は一切前置きをせず、こちらに対して核心をついた言葉を投げてきた。
「ねえ、湊くん。今、楽しい?」
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湊鍵太郎が合宿所をふらふらとうろついていたら、ロビーでぼーっとしている指揮者の先生に出会った。
「こんばんは」
「ああ、湊くんか……こんばんは」
ソファに座って、ぼんやりとテレビを眺めていた城山に、あいさつをする。明日が本番ということで早めに休まねばということだったが、どうやら生徒と同じで、この先生も部屋でじっとなどしていられなかったらしい。
城山にとっては余計そうだろう。
なにせ、かつて教えていた学校の生徒たちと、昔ここに来ていたはずなのだから。
この建物のどこを見ても、そのときの記憶はよみがえってくるはずだ。指揮者としての輝かしい栄光と、挫折。両極端なものを思い出させるここは、城山にとって扱いの難しい場所であったに違いない。
けれども、そんな場所に自分たちはやってきている。
それはこの先生が、過去よりも今を取ってくれたということだ。そう思って、鍵太郎は城山の隣に座った。
テレビの中では、ニュースキャスターが今日あったいいことと悪いことを、淡々と述べている。
「……本当にさ。きみたちはよくここまで、ついてきてくれたと思うよ」
そして、そんな画面を見ながら。
先生は、こちらに向かってそんな風に言ってきた。
「僕の教え方は、決して温いものじゃなかった。前みたいなやり方ではなかったけれど、それでもこれまでの常識を全部ひっくり返して考えろっていうのは、結構厳しい話だったはずだ。それなのに、よくここまでやってくれたなあって……そう思ってる」
「やだなあ、その言い方だとなんだか、明日の本番が最後みたいです」
「いつ何時、何が起こるか分からないって、僕はこれまでの人生で実感してるから」
それこそ、あの学校を追放されたときから――と、城山は物憂げな顔でつぶやいた。
確かにサラリーマンなどと違って、フリーの音楽家など明日をも知れない身だ。ある日突然、仕事を失うこともザラにあるのだろう。
だから言えることは、言えるうちに言っておく。
そんな習性じみたものが身についてしまったのかもしれない。この先生が突然わけの分からないことを言い出すのも、そういったところから来ているように思える。
だからだろうか。
城山は一切前置きをせず、こちらに対して核心をついた言葉を投げてきた。
「ねえ、湊くん。今、楽しい?」
その言葉に、鍵太郎は心臓がぎくりと跳ね上がるのを感じていた。
これはきっと、付き合い上だったら『楽しい』と答えるべき場面なのだろう。先生にそう訊かれたら、うなずくべき――空気を読んで、嘘でもそう言うところのはずだ。
けれども、この人が求めているのは、そういうものじゃないように思えて。
鍵太郎は最近の出来事を振り返りつつ、城山に対して言った。
「……楽しいか楽しくないかと訊かれたら、正直よく分かりません」
県大会までは、素直に楽しいと言い切ることができた。
けれど、今の自分の中では、それ以外の複雑な感情が渦巻いている。
楽譜を感覚だけでは見られないようになって。
真っ暗な中、手探りで音符を探して。
なりふり構わず、全部を投げ出すように吹く――そんな日々は。
「……けど、自分で素材を選んで、自分なりに調べたやり方で、音を出して――そうすることは、誰かからの借りものじゃなくて、自分で何かを作ってるんだなって感じがします。
生きてるんだなって――気がします」
自分にとって、これまでのどんなときよりも、印象に残る時間だった。
先輩に言われたから、先生に言われたからそうするのではなく。
正解か分からない、保証されないことを選択し続けていくことは――かなりのプレッシャーだったけれど、その分、自分の中で確実なものが根付いていっているような感覚がある。
誰かの望む未来ではなく。
自分が見たい結末が、遠くどこかから近づいてきている――そんな気がする。
それを果たして『楽しい』と呼べるのかどうか、その最中にいる自分には、さっぱり分からない。
けれども、ようやく本当の意味で『自分』というのが形作られてきた。そんな風に思う。
「必死すぎて、今は楽しいなんて考えられる余裕もないですけど。後から終わって、振り返ってみたら――すごく充実してたのかなって。そう思えるのかもしれません」
「……そうか」
その返答に、城山は――かつて生徒の選択肢を奪ってしまった、と後悔していた先生は。
やはり複雑な顔のまま、しかしその中に少しだけ笑みを浮かべて、うなずいた。
過去にあったことは取り消せないけれど。
ようやくどこかで、何かが報われた――そんな表情だった。
「……いやあ、やっぱり思い出しちゃうんだよね。昔、ここに来たときのことを。あと、そのとき一緒にいた子たちのことをさ。
謝って済む話でもないし、許されるとも思っていない。きみたちでその無念を晴らそうって代償行為もしたくないけれど――そう言ってもらえるなら、よかったなあと……思える」
僕のやってきたことは、間違いなんかじゃなかったんだなって。
多少は、気が楽になるよ――と、城山は、大きく息をついた。
たぶん、そういうことは大人も子どもも同じなのだ。
不安の中で、それでも手を伸ばす生き物。
そんなときに、うわべだけの言葉なんかかけられたくなくて――やっぱり、本当のことを言ってよかったと、鍵太郎は思う。
安易な『楽しい』なんて言葉は、もう口にできなくなってしまった。
けれどもその代わりに、本当にちゃんと生きている人にかけるセリフが、言えるようになった。
それだけでも十分、城山の言うとおり大したものなのかもしれない。まあ、本番は明日のコンクールなのだけれども――その前にそんな成長を、実感したっていいだろうとも思うのだ。
せっかくの、合宿の夜なのだから。
こんな風に、普段はできない会話をしたっていいじゃないか――そんなことを考えながら、先生とぼーっとテレビを見ていると。
「あ、あの……っ!」
一年生の大月芽衣が、こちらに声をかけてきた。
風呂からあがったのだろう。練習のときとは違って、ラフな格好に着替えていて――彼女はなぜか持ち物で、胸元を隠しつつ言ってくる。
「お、女将さんに許可は取りましたので……! こ、これから一緒に、花火をしませんか、先輩……⁉」
「……花火?」
見れば、芽衣が抱えているのはよくホームセンターなどで売っている、袋に入った花火だった。
庭で、バケツを使うようなこと。
それが、これだったのだ。なるほど、と鍵太郎が納得していると、同じ楽器の後輩は言う。
「前に、先輩と花火がしたいと言いましたので……! せっかく泊まりなので、持ってきました!」
「あー。そういえば言ってたよね、夏祭りのときに」
言われて、思い出す。芽衣や他の一年生たちと夏祭りに行ったとき、彼女は一緒に花火がやりたいと、確かに口にしていたのだ。
あのときは縁日で、屋台はあっても花火があがることはなかった。
なら、今回のような機会にと思うのは、当然の流れかもしれない。
部活で泊まりなんてことは、滅多にあることではないし。
同じ楽器の後輩の望みを叶えるのは、こちらとしてもやぶさかではない。いくらしっかりしているといっても、芽衣は一年生だ。三年生の自分と違って、楽器以外でもまだまだ遊びたい盛りだろう。
そう考えていたら視線を感じたので、振り返る。
するとそこでは城山が、おかしそうに肩をふるわせていた。
「花火、花火かあ。いいんじゃない。行ってきなよ湊くん」
「……なんでそんなに、面白そうに言うんですか?」
「いや。僕も昔、そこの庭でキャンプファイヤーとかしたものだから。それを思い出しちゃって」
ああ、そうだ。
そんな出来事も、確かにあったなあ、ここには――と。
笑いすぎてなのか、感極まってなのか、目に涙を溜めながら先生は言った。
「こんなところでぼんやりしてる場合じゃないよ、湊くん。きみはまだまだ、老け込むような段階じゃない。この合宿所で――みんなと楽しい思い出を作っておいで」




