普段通りのそうでない日常
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
・大月芽衣…一年生。チューバ担当。
合宿所の扉がセキュリティ的にいかにガバガバであろうとも、それでも練習には向かわなくてはならない。
そんなわけで湊鍵太郎は部屋に荷物を置いて、別館のホールに向かった。といっても体調不良の部員もいるし、本番前日ということもあって軽く調整をするくらいだ。
「みんな明日に備えて、しっかり休むように」
というのは指揮者の先生の言である。
合宿所の練習用ホールは、本館と同じくやはり板張りの床だった。
しかし天井は高くピアノもあり、なんとなく歴史のある学校の大きな音楽室といった感じである。違いとしては壁に貼ってあるポスターが、ベートーヴェンなどの有名な作曲家の顔ではなく、楽器の部品を精緻に描いたものであることだろうか。
サックスってこんな構造なんだな、とそのポスターを見て改めて思う。いつも見慣れているものだからこそ、こんな風に違った描き方をされていると、途端に別のものに思えてくるから不思議だった。
この合宿もそうだ。いつもと違う場所、違う状況だからということもあってか、みなの音もどこか浮足立って聞こえる。
これまであんなに練習してきたはずの楽譜ですら、違うものに見えて――あれ、俺って実はちゃんとこの曲と向き合ってなかったのかな、と鍵太郎が軽い焦りを覚えると。
指揮者の先生が言う。
「明日のホールも、みんな初めてのところだから、響きがいつもと違って聞こえるかもしれないけれど。案外そうでもないから、普段どおり吹いてもらえれば大丈夫だよ」
「普段どおり……」
普段どおり、とは。
一体、どんなものだったろうか。そんなことも分からなくなるくらい最近は突き詰めて物事を考えていたので、首を傾げてしまった。
自分たちの、いつもどおり。
それを意識して出せと言われると、途端にぎこちなくなる。カメラに向かってはい笑ってください、と言われているようなものだ。
自分がどんな表情を浮かべればいいのか、考えれば考えるほど分からなくなる。
そんな鍵太郎に、先生は少し苦笑いをして言った。
「それを定着させるためにも、今日は自分たちがどんな演奏をしてきたのか、確認だけきっちりやっておこうか。あとは、メンタル的なものだけど――まあこれも、ゆっくり今晩休むことで落ち着かせてくれればと思うよ。じゃ、さっそくやってみよう」
まずは、明日の本番に向けての最終チェック――と、先生は指揮棒を持ち上げる。
それに条件反射のように、自分たちは反応する。そういった日々の連続で、楽譜ばかり見ていて忘れてしまった。
周りの人間が、一体どんな顔をして楽器を吹いていたのか。
練習が終わった後に話したことや、どんな顔をしていたかは覚えているけれども。
けれども彼女たちが、曲をやっている最中にどんなことを考えて、どんな表情を浮かべていたのか。それを最近はあまり見ていなかったような気がする。
「ああ」
楽譜にも人にも誠実に、なんて言っていた自分が馬鹿らしい。
そんなこと口にしておきながら、結局自分のことしか考えていない。
本番直前になってそんなことに気づくなんて、本当にどうしようもなかった。そして今さらそんな風に思うということは、やはりこの場所ではいつもと違う空気が働いているということなのだろう。
合宿所ならではの雰囲気。
本番前日だからこそ思うこと。
この二つが作用して、演奏も人も、どこかいつもと違う顔を見せているように感じられる。
その中から、『普段の自分たち』なんてどうやって見つけるのかな――なんて思っていると。
隣から、一年生の大月芽衣が言ってくる。
「あの、先輩」
その声にふとそちらを向けば、芽衣はやはり、どこか落ち着かないといった顔をしていた。
基本的にはあまり表情を動かさない、静かなタイプの後輩ではある。同じ楽器なだけに、彼女の性格はなんとなく分かっている――
分かっているような、気がしていた。
けれども、今は後輩が何を考えているか、その顔から読み取ることはできない。ひょっとしたら、今までも正確になんて読み取れていなかったのかもしれない。そんなことを、鍵太郎が考えていると。
芽衣は続ける。
「こ、この後……練習が終わった後、ちょっとだけ、お時間よろしいでしょうか。夕飯を食べ終わって、お風呂に入って、その後くらいに……」
「あ、うん。いいよ?」
同じ楽器の後輩からこういった申し出があるということは、明日の本番についての確認だろうか。
いや、だったら今ササっとやってしまえばいいだけのことだ。なら、もっと別の何か――演奏以外のことではないかと思う。
しかし、それほどまでに準備の時間を取らなければならないことというのは、なんなのだろう。
しかも本番前日、合宿の夜にわざわざというのは。疑問は尽きないが、断る理由も特にないので了承する。真面目な彼女のことだから、ひとつ下の前髪の長い後輩のように、こちらを困らせるようなことは言ってこないはずだ。
気にはなるものの、どうせすぐに分かる。なので、特に追求はせず――練習は終わって、そのまますぐに夕食になった。
メニューは、カレーだった。
「なんで合宿っていうと、本当にカレーなんだろうなあ」
大人数分をまかないやすいとか、色々理由はあるのかもしれないけれど。
選抜バンドのときといい、どうしてこうもお泊まりといえばカレーなのだろう。後輩の件より、どちらかというとこっちを追求したい。
けれども。
「ぎゃーっ⁉ ストラップがカレーまみれになりましたーっ⁉」
「サックスの人って、どうして自分の身体の一部みたいにストラップを外さないのかねえ……」
バリトンサックスの後輩が、楽器を持つための首から下げるストラップを外し忘れて、カレーの中に突っ込ませて大騒ぎし始めたので――
それをきっかけに周りの部員たちも笑い出して、食堂があっという間におしゃべりでいっぱいになったので、そんな疑問を突き詰める暇はなくなってしまった。
平和だった。
明日が本番とは思えないほど、それは平和な光景だった。
いつかのあの強豪校の生徒のように、追い込まれて何も受け付けなくなるほどの人間はいない。
それが当たり前だと、そしてありふれた日常こそ何よりも尊いと、よく言うけれど。
それが形を取ったとしたら、きっとこういうものになるのだと思う。
明日には過ぎてしまう、今しかない景色。
それは何気ないけれど、忘れてはならないものだ。普段どおりというのは、こういうことをいうのかもしれない――そう思って、いつもなら特に気にせず流してしまうその光景を、よく覚えておこうと鍵太郎が見ていると。
「……ん」
カレーを食べ終わった芽衣が、合宿所の女将と話しているのが目に入ってきた。
あれもまた、これから行うことの準備なのだろうか。ひょっとして本番を前に、三年生にサプライズ? と思わなくないが、にしては他の一年生たちに動きがない。ということは、彼女だけが個人的に動いているということなのだろう。
意識してしまうと、つもりがなくても耳に単語が入ってくる。盗み聞きはよくないと思うが「庭……」「バケツを……」といった途切れ途切れのセリフに、つい注意を傾けてしまった。
庭でバケツを使うようなこと?
それは果たしてなんだろう。そう思って食堂から窓の外を見れば、そこには蛍でも出てきそうな緑の庭がある。
昼間に見たときとはまた印象の違う、草の生い茂る場所。
山の中だからか明かりは少なく、大部分は暗闇に呑まれている。広々としていてどこが端なのか、はっきりとは見通せない。
けれど、それに怖さを感じないのは――自分は明るい部屋の中にいるからだろうか。
それとも、自分自身の中にその暗闇があるからだろうか。『闇』という字は、門に音と書いて出来上がる。
だったら、心のどこかにある門から音を出している以上、そこにある暗がりは自分たちに通じるものなのだ。そんな、あの第二の師匠めいたことを考えているうちに。
『ごちそうさまでした!』
夕食の時間は終わり、部員たちは学年ごとに各部屋に散っていった。
あとはめいめい風呂に入り、ゆっくり眠って明日の朝を迎えるだけだ。
ひとりきりの部屋に布団を敷いて。
個室なのに、妙に広く感じる空間の真ん中で。
「……ヒマだ」
鍵太郎はぽつんと布団の上に座り込んで、天井を見上げてつぶやいた。
自分からひとりの部屋を所望したわけだが、いざこうなってみると孤独感がすごい。
普段が騒がしいので、ひどく静かな感じがする。さらに遠くから他の部員たちがはしゃいでいる声が聞こえるのも、その感覚に拍車をかけていた。
いつも女子連中に囲まれて賑やかにやっているのが、意外と幸せなことだったのだなとこういうときに思い知る。今にもそのセキュリティゼロのふすまをスパンと開けて誰かが入ってきそうだが、あいにくとそんな気配はない。
むしろどこかで、そうしてほしいと望んでいる自分がいることに、鍵太郎はごろんと寝転がって失笑した。拒絶しておきながら構ってほしいとは、ずいぶん身勝手な話だ。
都合のいいときだけ遊んでほしいなどとは笑止千万、ヘソで茶が湧きそうである。
なので。
「それじゃまあ……探検にでも行くとしますか」
だったら自分から動き出そうと思って。
鍵太郎は、むくりと身を起こした。芽衣が風呂から上がるまでは、もう少し時間があるだろう。それまでにもう少し、この施設を見て回っておきたい。
賑やかなその、明るい光景に。
隅の方でもいいから、ほんの少しだけ混ざりに行きたい。
暗闇に片足を突っ込んでいるが、それが自分の『普段どおり』なのだと思う。本番前日、土壇場になって思い出した、本来の自分の立ち位置。
そこで、ちゃんと話してみよう。
行く先々で出会うであろう、飾らない、いつもどおりの彼女たちと。
そう考えつつ、開かなかった扉をこっちから開ける。合宿所のセキュリティはやっぱり甘くて。
あれだけピクリともしなかったふすまは、軽い音をたててあっさりと動いていた。




