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ありえない夜の始まり

※主な登場人物

・湊鍵太郎…三年生。部長。

・野中恵那…二年生。クラリネット担当。

・都留…合宿所管理人。

・城山匠…外部講師。指揮者。

 コンクール前日、合宿の日。

 同い年のトロンボーンのアホの子には、集合時刻の一時間前を伝えておいた。


「あれ、みんな遅かったね。どうしたの?」

「それで時間よりちょっと早いくらいって、おまえには本当にそう言っておいてよかったよ……」


 のほほんと言ってくる同い年に、湊鍵太郎(みなとけんたろう)は半眼でそう返す。

 彼女が遅刻してくるような予感はしていたので、前もって違う時間を伝えていたのだが――結果的に、はまったようでよかった。

 ちなみにしおりの時間も、この同い年の分だけ書き直し、周りの部員も訊かれても早い時間を答えるようにするという徹底っぷりである。

 置いていくわけにはいかないのだ、本番に向かうにあたって――と、明日に迫った東関東大会のことを思いつつ、鍵太郎は部員たちの点呼を取った。

 楽器もトラックに積んだし、全員そろっている。忘れ物は――きっとない。そう思わないとやってられない。合同バンドのときのようなミスはない。


 いざ神奈川、決戦の地へ――と言いたいところだが。

 今日これから向かうのは、その近くにある合宿所だった。当日にバスで向かうと乗り物酔い患者が大勢出て演奏に支障が出るため、会場近くの施設に泊まることにしたのだ。

 本来ならありえない、と言われた本番の前乗り。

 けれどもそれは、実現してしまった。みなの知恵と勇気と、そしてなんだか得体の知れない執念によって――と、この合宿が決まった経緯を思い出しつつ。

 鍵太郎はみなに言う。


「よし、出発だ!」

『おーう‼』


 本番前日、そして初めてのお泊まりということでテンションが上がっているのだろうか。

 部員たちは、やたら張り切った声をあげてきた。



###



「うう……。やっぱり気()ち悪いです……」

「まあ、今日はゆっくり休んでよ、野中(のなか)さん」


 テーマパークのときと同じく、やはりひどい乗り物酔いを起こした野中恵那(のなかえな)に、鍵太郎は苦笑いでそう言った。

 長距離のバス移動というのは、どうしても人によってはきついものがある。そう考えて今回のような流れになったのだ。

 前日に会場の近くまで行き、しっかり休んで軽めの調整、そして本番。

 それができる施設というのが、もうすぐ着く合宿所だった。指揮者の先生の紹介で知った、楽器の練習をしてもいい宿泊施設。

 防音を考えているからだろうか、そこは人里離れた山中にあった。

 急なカーブに緑の景色。

 木立に囲まれて、他に何も見えないところを進んでいけば、そこには――


「わあ……」


 大きな二階建ての建物があって、鍵太郎はその光景に感嘆のため息をついていた。

 長い木々のトンネルの先で、突然景色が開けたからだろうか。誰も知らない秘密の場所にやってきたような感覚がある。

 寝泊りをするのであろう母屋に、よく手入れのされた広い庭。

 そこから少し離れたところにある建物が、練習用のホールだろう。他の設備とは少し違った造りになっている。

 想像していたよりも立派だ。もっと早く知っていれば、こういう機会でなく利用したかったと思う。

 昼間は練習して、夜はあの庭でバーベキューをしたりするのだ。まあ、今回は本番前日なのでそんなことをする余裕もないのだけれど――そんな風に過ごす夏もあったのかもしれない。

 というか、ここでいくつもの学校がそうしてきたはずだ。いつもと違う空間で思いっ切り練習をして、思いっ切り遊んで、絆を深める。

 ここは、そういう場所なのだろう。そして今日は、ここで一晩過ごすことになる。

 そういえば、選抜バンドのときはともかく、部活全体で泊まるというのは初めてだった――そう鍵太郎が思っていると。

 恵那が言う。


「ふふ……。先輩とひとつ屋根の下……いつもと違う場所で、違うシチュエーションで、これまで見たことのなかった一面にドキドキしちゃったりするんです……。だったら多少ハプニングが起こっても、何もおかしくありませんよね。うふ、ふふ、ふふふふ……」

「……お願いだから明日の本番に向けて、しっかり休んでね。野中さん……」


 なにやら後輩が妖しい笑いを浮かべ始めたので、鍵太郎は部長として一応たしなめておいた。その暗い微笑みと妄念(もうねん)の矛先は、明らかに自分に向いているのだが――この体調なら大丈夫だろう。たぶん。

 きっと。言い切れないのが彼女の怖いところでもあるのだが、先日恵那自身から、本番にかける思いは聞いている。だから夜中に襲われるとか、そういったことはないはすだ。そう信じたい。

 そうこうしているうちに、バスは合宿所の前に止まった。

 積んでいた荷物を下ろし、館内に入る。たくさんの靴が入る下駄箱と、板張りの廊下――よくある旅館のような、和風建築だ。

 本当に、修学旅行みたいだな――そう思っていると、奥からひとりの女性がやってくる。


「まあ、まあ。みなさん、ようこそいらっしゃいました」


 そう言って出迎えられたということは、彼女はこの施設の人間なのだろう。

 割烹着をつけた垂れ目のその女性は、四十代半ばか後半といったところだろうか。建物の様子と相まって、女将(おかみ)といった感じだった。

 そして実際、そうなのだろう。彼女はこちらに頭を下げ、挨拶してくる。


「本日は当館においでくださり、誠にありがとうございます。わたくし、こちらの管理者をしております都留(つる)と申します。どうぞよろしくお願い致します」

『よろしくお願いしまーす!』


 女将――都留の挨拶に、乗り物酔いなんぞへっちゃらけっけの部員たちが、元気に応えた。その様子が微笑ましかったらしい。彼女は目を細め――

 そして、その眼差しをある人物に向ける。


城山(しろやま)さんも……お久しぶりですねえ」

「すみません、またお世話になります、女将」


 また――と言った城山匠(しろやまたくみ)は、悲しみと嬉しさが混じったような、そんな複雑な笑顔を浮かべていた。

 この合宿所は、彼のツテで予約したのだ。ということはこの指揮者の先生も、以前ここを利用したことがあるはずで――それはおそらく、城山がかつて他の学校を指導していたときのことだろう。

 立地的にも二人の雰囲気的にも、その予想は当たっているはずだ。

 若かりし頃のこの先生が、ここでどんな風に過ごしていたか――それは、女将の泣きそうな笑顔で、なんとなく分かった。


「ご連絡をいただいたときは、まさかと思いました。お元気そうでよかったです……」

「まあ、積もる話はまた後にしましょう。今は生徒さんの案内が先です」


 けれども、僕も僕で、またここに来ることになるとは思っていなかったです――と、そっと付け加えた城山は、何を思い出していたのだろうか。

 かつて教えていたという学校の、華々しい過去だろうか。

 それとも、そこから追い出されたという苦々しい記憶だろうか。

 もしくは――いつかここで一緒に過ごしたであろう、生徒たちの顔だったろうか。

 その全部かもしれない、と事情を知る鍵太郎は、二人の会話を何も言わず聞いていた。城山自身の口からそのあまりに重い昔話を聞いているだけに、むやみにそこに触れるのは(はばか)られる。


 けれども、これだけは言える。

 ここにやってくるのは、この先生にとってもありえない機会だったのだと。

 そしてそうするだけの意味と価値を、城山は自分たちに見出してくれたのだと――やはりここに来られたというのは、ある意味で奇跡のようなことだったのだなと思いつつ、鍵太郎は女将が説明する施設のルールを聞いていた。

 何はともあれ、今は目の前に迫った本番のことに集中しなければならない。

 先生の言う通り、様々な思惑はいったん脇に置いて、やるべきことをやる方が先だ。そう思ってまず荷物を片づけるため、自分の部屋に行く。


「ごゆっくり」


 そんな女将の声を背に、一階の奥に向かう。鍵太郎にあてがわれた部屋は、普通だったら教職員が使うのであろう、狭めの個室だった。

 他の部員たちは全員、学年別に大部屋を割り当てられている。けれども部内唯一の男子部員がそこに混じるのはさすがにどうかということで、ひとりだけ別にしてもらったのだ。

 ズルいと言われようが贅沢と言われようが、これは明日の本番を無事に迎えるために必要な措置である。

 同じ学年の女子と一緒の部屋で一晩過ごすとか、色々な意味で勘弁してほしいのだ、こっちは。そう考えつつ、ギシギシと音を立てる木の廊下を進む。

 恵那もそうだが、今回の合宿にあたっては他の女子部員たちもなんだかテンションが高くて怖いし、退避しないとやっていられない。

 しかし個室ならば、いざとなれば鍵をかけて立てこもれば済むし――などと考えていた鍵太郎は、自分の部屋の前に着いて、あることに気づいた。

 ふすまだった。

 風情のある旅館といった感じの、合宿所の扉は――鍵などかけようもない、思いっ切り和風建築の、ふすまだった‼


「やべえこれ、俺、今晩無事に過ごせるかな……?」


 そんな自分の部屋の前で、呆然とつぶやく。

 こんなことはありえないだろうけれど――後輩の言う通り。

 いつもと違うシチュエーションだからこそ、今夜は普段とは違うことが起きそうな気がする。

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